悲しんでいるあなたを愛する

 梅雨に入ってからも雨の降らない日が続いていた。燃えるような朱色の夕陽が遠く西の空に沈む間際、人を殺めた僕の中に宿っていた醜い感情を浄化するかのような強い光線を放っている。殺人を犯したかったわけじゃない。僕はただ、彩音を守りたかっただけだ。そのためには、僕自身が悪魔になることにこれっぽっちのためらいもなかった。
 橋の上を車のライトが時折駆け抜けていく。その行方を後ろ向きに見守りながら、昼間の熱が抜けて涼しくなった川沿いのぬかるんだ昇り道を、足を取られないように用心しながら歩を進める。橋上を音を鳴らさぬ消防車が走り去って行った。
「本当にこんなに上手くいっていいものだろうか」
 大きく膨らんだリュックを運びながら倫道に話しかけるけれど答えは返って来ない。夕陽が地面に張り付けた自分の影は着なれない服を着ているせいか、まるで別人のシルエットに見えた。手早く着なれた服へと着替えを済ませる。
 その境界線を目にすることはできないけれど確かに存在していたのであろう、たった一歩の境い目を越えた瞬間に、さっきまであれほどやかましく耳をつんざいていた蛙の声が野原を抜ける風のように遠ざかり、その代わりに、もう宵の入り口だというのにどこに潜んでいたのだろう、蝉が一斉に耳障りなほどの大音量で鳴きだした。
「遅かれ早かれ龍は空に昇っていくんだ。そして人はいつかは死ぬ。その順番を早めるだけさ」
 倫道がいつか言っていた言葉が脳内に、牛が草を食んで消化するために何度も反芻するように反響している。噛みしめる度に広がるその言葉の味の深みに浸っていると、自分の頭の位置まで高さのある、なんとなく見覚えのある背の高い木にぶつかった。この木があるということは、ここまでの進路に間違いはないようだった。あともう少しだけ、前進を続けなくてはならない。だれにも見つからないようにと倫道と掘った穴は、この数十メートル先にあるのだから。
「急がないと。人がいる間に、学校に戻らなくちゃ」

                  *

 春の大型連休も明けてからひと月以上が経過し、爽やかな春の風が吹き抜けるその後ろ脚に引きずられて到来した連日の真夏日にうなだれていた放課後、班活に行く前に走った近くのスーパーで倫道とアイスクリームをかじっていた時に、実は彩音と付き合い始めたんだ、と報告された。
 同じ弓道班で切磋琢磨する同期でありライバルでもあった倫道と、妹の彩音が付き合い始めたことは本来祝福すべき事柄なのかも知れなかったけれど、僕はそういった気持ちにはなれず、単純に不機嫌になってしまった。
「和磨の妹、可愛いよな」確かに今年の四月、彩音が入学してきた時から倫道は口癖のように僕にそう伝えてきてはいたけれど、まさか付き合うに至るまで倫道が粘るとは予想していなかった。
 それまでの倫道は、童貞を捨てたいと廊下を走りながら叫びまわることで学年中の女子たちを引かせることをライフワークとしていたような人間だったから、その驚きはひとしおだった。ただし、そもそも顔のつくりは僕とは比較にならないほど整っていたし、班活以外の時間につるんでいる友人も僕のような根暗な文科系とは違ってエネルギッシュな体育会系の連中ばかりだったので、本気を出しただけだと思えばそれほど不思議なこともなく、どうして僕の妹を狙うのかという部分を差し引けば、実力のある人間が正しく自分の持っている武器を使った結果として納得はできた。
 倫道が彩音に手を出しただけでも僕の気分を沈ませるには十分過ぎる事実だったけれど、なによりも僕の気を滅入らせたのは、彩音がその申し出を了承したことだった。
 中学校にともに通っていた一年間は、彩音の周りにいた男子たちは中学生というよりは小学校を卒業したばかりと表現した方がしっくり来るような、学校指定の鞄よりもランドセルの方が似合っている連中だったし、その後、僕が高校に進学してから聞いていた彩音の中学校生活の話でも男友達は影すら登場したことがなく、とどのつまり、父親と僕以外の男の気配を彩音の周りから感じたことはこれまで一度もなかったのだ。それに、僕が彩音にだれのことが一番好きかと尋ねれば、彩音は必ず目の前にいる僕のことを(時には目を強く瞑りながら)指さしてくれていた。
 ゆえに、彩音が倫道と付き合うと決めたことはまさに晴天の霹靂だった。
 僕は口にアイスをくわえ、返事の一つもせずに倫道を睨みながら途方に暮れていると、倫道は聞いてもいないのに二人の馴れ初めを楽しそうに話し出した。それまでも散々可愛いと口走る様を隣で見てきた身としては、そんなものは改めて説明されたくもなかったけれど、ろくに相槌も打たない僕のことなどお構いなしに、新入生のオリエンテーションに組み込まれている龍制作の体験、そこで二人は出会ったのだと、倫道は話を続けた。
 僕らの通う高校では、毎年夏休み前に三日間催される文化祭で、みなでロープを引いて大きな龍を建立する。新入生が入学する五カ月も前、年末から制作が開始されるその龍は、全長およそ二十メートル、高さは十メートルにもなる。前年までに成し遂げていない新しいなにかに一か所でも挑戦する、という暗黙の伝承があり、今年は頭の角をこれまででもっとも長くすることになっていた。その頭の角の部分を全面的に請け負っている頭パートのリーダーを務めていたのが倫道だった。
「職権乱用だな」
 倫道は僕の呟きなど無視して、龍パートでの出会いから付き合うに至るまでの経緯までをも喋ろうとするので、僕は聞きたくない、と言い残して自転車に飛び乗り、弓道場へ向かった。倫道はめげもせず、お兄さーん、とふざけた猫なで声を出しながら僕のことを追ってきた。
 空には一足早い入道雲が暑い夏の開始を告げるように、乗れそうなほどの立体的な高さを作り出していた。すぐそばまで来ているはずの梅雨は、その片鱗すらまだうかがうことができなかった。

 龍制作に顔を出してから班活にやってくる三年生がほとんどな中、僕はここのところ龍制作を休みがちなため、今日も同期の中では道場へ一番乗りだった。
 入りたての頃には弦を引いた構えの動作で止まっているだけで両手が震えてしまい的に矢を当てるどころではなかったのに、今はその頃とは比較にならないほど厚みを増してたくましくなった二の腕や胸筋のおかげで、一連の所作を練習中に何度でも繰り返し行えるようになっていた。
 龍に火矢を放つことからスタートする後夜祭は、一年でもっとも弓道班が輝く瞬間で、その日を直近の目標に据えて練習に取り組んでいた。
 肩甲骨の動きに意識を払いながら矢を引き、体育館の第二倉庫を兼ねている建物の壁に並べられた的を見据える。
 今が本当に放つべきタイミングなのか。右手を離す瞬間は常に、解放感と、それ以上に間違いなくここが臨界点で、今しか矢を放つ瞬間はないのかと逡巡する狭間に自分がいる。
「所作に迷いが出てるんだよ。彩音のことなら俺に任せてくれよ」
 放つ瞬間に囁かれた一言のせいで心が乱れ、矢は的の左下に大きく逸れた。遅れて入ってきたその足で僕に嘲笑コメントを浴びせた倫道は、口で「ひゅーん」と効果音をつけながら、外れた矢をなぞる軌道を指で描いて笑っていた。
 邪魔されたことも笑われたことも彩音を名前で呼び捨てにしたことも気に食わなくて、どうにか倫道に彩音から手を引く決定的な一言を浴びせてやれないものかと脳内で考えを巡らせたものの、まだ自分の中で二人が交際している事実をきちんと消化できていないせいか考えがまとまらず、言うべき言葉はなにひとつ思い浮かばなかった。なにも言わない僕に飽きたのか、倫道は突然阿保な猿みたいな変顔を作った。
「倫道くん、人の練習中に余計な茶々を挟まないで」
 僕らのやり取りを見兼ねたのか、副班長の葉月が僕の代わりに倫道を戒めた。短い髪や太い眉、大きいけれど吊り目がちな目元もあいまって、葉月が激を飛ばすと空気が一気に締まる。倫道も葉月にはなにも言い返さずに練習に戻っていった。
 僕は頭を切り替え、次の構えへの準備に取り掛かった。
 龍制作を始めた冬に比べると、ここのところはめっきり日が長くなって来ており、五時半を過ぎてもまだ日が差していた。太陽が空を遠くからこちらにかけて、グラデーションをかけるように朱く染めている。
 怒るのではなく、冷静に。そう自分に言い聞かせながら、的を倫道に見立てて矢を放つ。

「和磨くん、少し話してもいい?」
 班活を終えて片付けをしているところに葉月がやって来た。ちょうど弓から弦を外すところだったので作業を中断することができず、葉月には背中を向けたままの状態で頷いた。
「大丈夫だよ。班活のこと?」
「うん、班活のことと、文化祭のこと、かな」
 弦を外し終え、葉月の方へ身体を向ける。弓道場には談笑する三年生数人の姿しか見当たらず、つい三十分前まではあった熱気のようなものはすっかり消え失せてしまっていた。
「今日和磨くん当番でしょ。的外しと安土の整備、手伝うからからさ」
 僕は頷く。確かに今日、僕は弓道場全体の片づけをする当番だった。わが弓道班では、班活動におけるどのような仕事であっても、班長や副班長など重責を担う職務以外に関しては学年の隔てなく行うことが慣例となっていたので、三年生になっても月に一回程度の頻度で後片づけの当番が回ってくる。一年生の頃は全てを押し付けられないこの仕組みをとても気に入っていたけれど、三年生になってみると煩わしさしかない。ただ、こうして学年による隔てを設けずに雑務を請け負ってくれる先輩方に魅かれて入部を決めた部分もあったし、人の少なくなった道場のすがすがしく自由な感じは嫌いではなかったので、文句を言うつもりも毛頭なかった。
 隅に置いてあったほうきを持ち、サンダルを突っかけて安土に向かう。葉月もすぐ後ろを付いてきた。
「それで?」どことなく言いづらそうだったので僕の方から水を向けてみた。
 振り返ると、逆光に縁どられた葉月のシルエットは身体の曲線が協調されており、日々の練習の中では思い至ることのない女の部分が強く感じられた。
「私、龍制作でうろこパートのリーダーなんだけど、極端に人気のないパートだから、全然人が足りてなくて、正直に言うと、毎日の制作はほとんど私一人でやっているの。前までは友だちが手の空いている時に時間を見つけて日替わりで手伝いに来てくれていたんだけど、それぞれのパートもいま追い込みでしょう。だからすっかりだれも来てくれなくなっちゃって」
 一年に一度、年度末には班をあげて安土の大整備を行うものの、日々の補修はスポットライトに照らし出された矢が突き刺した無数の穴を、表面が平らになることを意識しながらほうきで埋めていく簡単なものだ。
「それで?」
 体育館裏の蛇口から引いてきているホースを葉月が構え、水を放つタイミングをうかがっている。
「それで、和磨くんにも手伝って欲しいの。ほら、和磨くん、最近龍制作、どこへも顔出してないでしょう? 家庭の事情とかがあるならあれだけど、班活には毎日出てきているし、どうかなと思って」
 各パートのリーダーと一部の固定された人以外は、基本的には龍制作への参加は任意となっているため、手伝いに行く場所は各々で決めることができる。僕はひと月ほど前までクラスメートがパートリーダーを務めていた胴体パートのA、すなわち頭パートのすぐ隣によく顔を出していたのだけれど、彩音が頭パートに現れるようになってからは、他の男たちと仲良く話している彩音の姿を目に入れることが嫌で徐々に足が遠のき、ここひと月ほどはすっかり班活一本になってしまっていた。さらにここにきて倫道と交際を始めたという事実が追い打ちをかけ、僕としてはもう胴体パートAに顔を出す気は決定的になくなってしまっていた。
「いいよ、手伝うよ」
 龍のうろこパートは体育館の二階という、全体とは隔離された場所でこぢんまりと行われているので胴体パートAの人間に余計な詮索をされる心配もなかったし、そういった個人的な事情とは別に、この高校の三年生として、龍制作に関わりたいという気持ちは変わらずあったので、僕は葉月からの打診を快く了承することにした。
「ありがとう! 助かる!」
 葉月がメモリを霧にセットしたホースから細かな粒子となった水たちを安土に向かって噴射した。今日のように気温も高く湿度もほとんどない日は、安土もからからに乾いてしまっているため、水をかけてやらないと乾燥して崩れやすくなってしまうのだ。
 水気を含んだことにより、土がしんなりと柔らかい表情に変わっていく。
 片付けは、取り掛かる前は面倒な気持ちが強くても、いざやり終えてしまうとやりっ放しで道場をあとにした日よりも活動全体に対する達成感が強く、身体がかるくなったような気持ちになる。
 ホースを巻いて元の場所に戻し、蛇口も忘れずに締める。蛇口を締め忘れて帰ってしまうと、翌日の朝練時にはホースが蛇口から外れて体育館前が水浸しになってしまう。そうなったところで弓道班の活動に影響はないけれど、各所から大顰蹙を買うことになる。
「電気消すよー」
 弓道場の入り口から葉月の声がして、予告を受けてから間を空けず、的側から順に消灯され、道場は真っ暗になった。
 道場内が暗くなると、空は完全な闇ではなく、濃い藍色だったことが分かる。空には布に空けられた穴から覗いているような、頼りない星の光がちらちらと揺れていた。
 視界が飾り気のない闇に包まれたせいか、通りを走る車の音や、体育館内から漏れ聞こえてくるバスケットボール班とバレーボール班の活動する音がより鮮明に耳に届いてくる。この音の中には、彩音の鳴らす靴音も混じっているのだろうか。
「じゃあ明日、授業が終わったら体育館の上でね」
 そう言って葉月は女子更衣室へと向かって行った。
 
 県下の公立進学校の御多分に漏れず、僕らの通う高校も私服での通学が許可されているのだけれど、僕が通い始めるより以前から今に至るまで、なぜか制服を思わせる格好での通学が流行っていた。僕は無難に、周りからはみ出し過ぎてしまわないことだけを意識して、ブレザースタイルでの通学を貫いていた。ネクタイは首を絞めつけられる感じが苦手で、指一本分余らせて緩めに装着した。
 制服への着替えを済ませて駐輪場に向かうと、見慣れた人影が視界に入った。彩音だ。僕はトレーニングのために自転車で通っているけれど、僕らの家は学区ぎりぎりの範囲にあたるため、彩音は電車を利用して通学していたので、本来ならば駐輪場に用はないはずだった。
「おう!」後ろから肩を叩かれる。声や態度から、相手がだれかはすぐに察しは付いた。振り向くと、案の定すぐ隣に倫道の顔があった。
 倫道も僕と同じブレザースタイルだけれど、毎日同じ服を着てくるだけの僕と違い、毎日どこかしらのアイテムがその前日とは違っている。今日はなめらかな紺色のブレザーにタオル地のようなネクタイで、パンツはやや丈の短い薄いブラウン、革靴のパンツの間からは白い靴下が見えていた。
「うるさいよ。僕は構わないけど、僕がおまえと一緒にいるなんて知ったら彩音が恥ずかしいだろう? って言うかなんで僕より先に班活を終えたのにいま駐輪場に来るんだよ」
「野暮な質問だな。待ち合わせって言葉を知らないのか。ところでなんで兄貴がいるのが恥ずかしいんだ?」
「おまえには男と女の兄妹のことなんて分からないだろうけど、家の中では見せないような体裁を外では保っていたり、あるいはその逆も然りで、とにかくいろいろあるんだよ」
 倫道は肩をすくめて外人がしぶしぶ承諾する時のようなジェスチャーを作ると、そのまま彩音のいる駐輪場の中へ入っていこうとした。全然理解はできていなさそうだったけれど、分からないなりに機微を働かせてくれたようだった
「あ、そうだ」
「まだあるのかよ?」
「実は彩音のことで折り入って倫道に相談したいことがあるんだ。今度時間を作ってくれないか?」
 僕の言葉の真意をはかりかねているようで、倫道は、眉間に皺まで寄せて僕の顔をまじまじと覗き込んだ。僕は視線がぶれぬよう、真剣な表情で倫道を見つめ返した。
「いいよ。それじゃあ、明日の昼休み、班室でどうだ?」
「うん、ありがとう」
 そのまま駐輪場の茂みに隠れ、気温が下がり涼しくなってきた夜風を身に受けながら、彩音が倫道の自転車の後ろに楽しそうな声をあげてまたがり、二人乗りをして帰っていくのをこっそりと見送ったあと、自分の自転車のもとへ移動し、かごに鞄を入れた。
 高校から自宅まではどんなに急いでも自転車で四十分はかかる。そのため、さすがの倫道でも送るのは駅までだろうと推測するも、ひょっとしたら公園や喫茶店などに寄り道して帰るかも知れない。追尾したい衝動にかられたけれど、そうしたところで気分のいい結果が待っているはずなどなく、自分の気持ちの平静さを保つためにも真っ直ぐ家路を行くことにした。
 自転車で往復する通学路の中でも、高校と自宅の間を流れる大きな川を越えるためにかけられた橋を渡るのが特にお気に入りだった。橋の上からは田舎では滅多なことがなければ見下ろすことのできない高さから悠然と流れる景色を眺めることができたし、川の冷気のせいだろうか、道路を走っている時とは一味違う切れのある風を感じられることができた。この橋を走るのは自動車とローカルの二両、もしくは三両編成の電車だけで、自転車はおろか歩行者ともすれ違ったことがなかったのも、この世界で自分だけが知っている特別な場所のようで自尊心がくすぐられて良かった。
 橋の下はそれほど水位の高くない川と、あとは鬱蒼とした木々が広がっているばかりだ。家を出て行ってしまった母親と昆虫採集に何度か訪れたことはあったけれど、中学生になって虫から性へ興味の対象が移ってからは足も遠のき、最近はとんとご無沙汰だった。
 進路のあまりの暗さに自分が無灯火で走行してしまっていたことに気が付き、橋を渡り切ったところでライトを点灯した。ついでに耳にイヤホンをさし、スマートフォンから音楽を流す。エレクトロニックミュージック。以前たまたまラジオでかかっているのを耳にしてから、その予測もつかない音楽の展開に魅かれ愛聴するようになっていた。
漕ぎだした自転車はライトを発光させるために、警戒した犬が低く唸るような音を鳴らしていた。大通りを抜けて脇道に入ると途端に街灯がなくなり明かりは自転車の照らすライトだけになってしまう。家の最寄りのコンビニまで一気に走り抜け、コンビニで夕飯にカップ麺と野菜パン、それにあずきバーを買った。

 家の駐車場脇に、彩音の自転車はまだ停められていなかった。この時間、電車は一時間に二本ほどしか走っていないので、よほどタイミングが合わない限りは同時に学校を出れば電車と自転車の組み合わせよりも自転車だけの方が到着は早くなる。
 屋内からはカーテン越しに明かりが漏れて来ており、父親が一足先に帰宅していることがうかがわれた。高校に入学した頃からすっかり父親との折り合いが悪くなっていたので、チャイムは鳴らさずに自分で鍵を回して家の中に入る。ただいまも言わずに玄関から洗面所を通りキッチンへと向かう。
 アイスを冷蔵庫にしまいリビングの窓際にかけてある時計で時刻を確認すると、もう八時を回っていた。強い空腹感を覚え、彩音の帰宅は待たずに夕飯の準備に取り掛かることにした。
ながしに重ねて立てられていた朝食で使った食器を拭いて棚に戻し、カップ麺を食べるためのお湯を沸かしていると、玄関のドアが開く音がした。
「おかえり」よみがえる学校の駐輪場で明るくはしゃいでいた彩音の姿を頭の隅に追いやりながら、努めて明るく声をかけた。
「ただいま」顔を下に向けていたので彩音の表情は読み取れなかったけれど、その声音からはかすかな緊張感が読み取れた。普段ならばまだ帰ってきているはずのない父親が帰宅済みであることに気が付いて警戒しているのだろうか? しかし、父親は書斎にこもってしまっており、僕が帰ってきてから一度も顔すら見せていない。安心させたくて彩音にさらに一歩近づく。
「倫道と一緒だったの?」
僕の問いかけに対して、彩音はしゃがんで靴を脱ぎながら、うん、と返事をした。
「こんなに遅くなっちゃって、父さんもずいぶん心配したんじゃないかな。今日の班活前に倫道から聞いたよ。付き合い始めたんだって? まさか、倫道と変なことをしてたんじゃないだろうね?」
さらに距離を詰め、彩音の隣にしゃがみこむ。
 彩音の髪の毛からはまだ乾いていない汗の健康的な匂いがした。髪に指を絡めて撫でる。
「してないよ。ねえお兄ちゃん」
「なに?」
 髪を梳く僕の手をその細い手首ではらい、彩音はキッチンを指さした。
お湯が沸く、ピー、という高い音が聞こえて来ていた。
「私はもうご飯食べたから。お兄ちゃん、私のことは気にせずに食べてね」
 そう言って彩音は二階の自室へと続く階段を駆け上っていった。階段は吹き抜けになっており、天窓からはおぼろ月が覗いていた。
 テレビをつけると、天気予報士が梅雨入りを宣言していた。

 弓道班の班室は極めてノーマルだ。煙草の匂いもしなければ破れたり剥がれたりしているポスターもないし、エッチな本が隠されているということもない。ゴキブリなどが出現しないようにと徹底して掃除と整理整頓がされているにも関わらず、経年のせいで薄汚い感じが拭えない。昼休みには自然と三年生が集まり、一緒にお昼を食べている。
 班室にたったひとつある小さな窓に、雨粒が当たっては落ちて流れていく。
ごった返す売店でどうにか掴んだ、ラッピングが強すぎるのか作られてから時間が経ちすぎているのか、すっかりパン生地の部分がくたくたになってしまった焼きそばパンを食べていると倫道がやって来た。挨拶代わりに片手をあげると、倫道は右手の親指を立てて首の後ろを指し、出ようぜ、の意を示した。
「あっちで一緒に食べよう」左手に持っていた弁当を掲げながら倫道が言うと、葉月がすかさず茶々を入れてきた。
「なにー、男子二人で秘密の話なんて怪しいー」
 ここで雑談に花を咲かせるという選択肢も悪くないように思えたけれど、今日は倫道にどうしても話さなくてはならないことがあったので、焼きそばパンは売店の袋に一度戻して、入り口で手をついて待つ倫道と班室を出る。
「和磨くん、このあとよろしくねー」
 渡り廊下の自動販売機でジュースを一本ずつ買い、雨が降っていることも厭わずに上履きのまま駐車場に続く道を歩いて図書館の前の階段に腰をおろした。道中に、いつの間に咲いたのか紫陽花が紫色の花を咲かせていた。
 雨は霧のように音もなく優しく降り注いでいた。あたかもその状態が自然であるかのように、一面の景色たちはその事実を受け入れているように見えた。空に浮かぶ雲が太陽の光を底光りさせており、辺りは妙に明るかった。
「それで、彩音の話ってなんだよ」
 倫道のお弁当は梅干しの乗った白米が三分の一程度で、あとは山盛りのおかずが入っていた。ハンバーグにきんぴらにひじきに煮卵、それにブロッコリーとミニトマトも。
「あんまり明るい話ではないから話すべきかどうかずいぶん迷っていたんだけど、おまえが彩音と付き合いだした以上、やっぱり話しておかなくちゃいけない気がしてさ」
「もったいぶらずに早く話せよ」
「ごめん、単刀直入に話せたら親切だし分かりもいいんだろうけど、どうしても回りくどくて長い話にはなっちゃうかも知れない。でも、どれも必要なことだから、せかさずに僕のペースで話させてくれるかな。話しながら、整理と心の準備もしたいんだ」
 階段脇から生えているシダの葉は、周りの地面が影一個分濃い色に染まっただけで、その表情は晴れている日のそれとなにも変わりないように見えた。
「うちもほんの六年くらい前までは、どこにでもある普通の家だった。父さんだけでなく、家には母さんもいた。母さんは専業主婦で、毎日僕らがただいまと帰ればちゃんとそこにいた。でも、僕が中学一年生、彩音が小学五年生の頃から、だんだん家の中に不穏な空気が漂うようになった。父さんと母さんが夜な夜な言い争いをするようになったんだ。理由は分からないけれど、子どもには聞かせたくない内容だったんだろうと思う。息を潜めて自分の部屋から聞き耳を立てていると、話の中には僕の名前がたびたび出てきているようにも聞こえたけれど、それ以上のことは分からなかった。部屋の中からこっそり家のどこか違う場所の話を聞こうと耳をそばだてたことってある? あれって相当奇妙な感覚だよ。どれだけ丁寧に言葉を聞き取っても、日常の会話なら絶対にあるはずの表情や動きの情報が欠落してしまっているからか、それとも続きも聞き逃してはいけないという気持ちも手伝うのか、知らない単語が挟まった時の文脈からの読み取りがなぜか全くうまくいかないんだ。それに、自分は相手がよっぽどこっそり近づいてきて突然ドアを開けない限り絶対に見つからないのに、バレないようにと唾を飲み込む音にまで気を払って、少しでも相手の会話を聞き取ろうと全く変わりはしないのにつま先立ちで背伸びまでしてみたりしちゃってね。とにかく、話し声がもっとも大きくなるのはいつも日付をまたぐ頃で、だからおそらくだけど、彩音は言い争いの事実は知らなくて、それゆえに母さんが出て行ったことにはだれよりもびっくりしたんじゃないかと思う。いずれにしてもそう言う夜が何度も繰り返された。父さんは母さんとの仲がうまく行かなくなってからは、それまで以上に、そしていま以上に仕事から帰ってくる時間が遅かったからその様子の変化を感じ取ることはできなかったけれど、母さんは目に見えて憔悴していっていた。母さんへの影響は、食が細くなって痩せすぎるという形で現れることもあったけれど、逆に過食気味になって、一気に食べたものを吐いて戻す、なんていう形で現れることもあった。僕は反抗期にさしかかっていたこともあって、そんな母さんが心配な気持ちはありながらも、ストレスからかそれまで以上に口うるさく僕らを叱るようになったことへの苛立ちが抑えられなくて、口答えをしたり壁を叩いて穴をあけてしまったりしていた。母さんは身体の大きくなった僕にはそれなりに恐怖心もあったのか、僕が反抗的な態度を示してからは、必要以上に刺激的な言葉を投げかけてくることはそう多くはなかったように思う。一方で、彩音はどうにか家族の仲が戻るようにと良い子どもになるよう努めていたけれど、それに関しては限定的な効果すらあったかどうかは怪しいものだった。それどころか唯一優しく接してくれている彩音に対して、母さんのあたりはもっともきつかったように思う。母さんは、醜いものをさげすむような視線をためらいなく彩音におくっていた。小学校も高学年になって、めきめき成長し、女性としての美しさを手に入れていく彩音に対してひどい恨みを覚えているようだった。その時には分からなかったけど、それには理由があったんだ。でも断っておくけど、彩音に非はひとつもないよ。ただ、彩音なりに家族を守ろうとしていただけだったんだ。とにかく、そんな風に少しずつ少しずつ家族という車が、ネジが緩んだり油が切れたりして空中分解していった。そして、ある日の朝、起きて眠気眼をこすりながらリビングにおりていくと、昨晩の夕飯の洗い物がそのまま放置された状態で、母さんの姿はどこにも見当たらなかった。異変を感じて家じゅうをくまなく探したけれど、母さんは見つからなかった。突然、母さんは消えてしまったんだ。警察にも捜索願は届けたけれど、母さんは未だに見つかっていない。生きているのか死んでいるのか、それすらわかっていないんだ」
 そこで一息ついて自動販売機で買った水を一口含む。隣に座る倫道を見ると、倫道は困惑した表情で僕を見ていた。話はまだ半分で、これからやっと本題なので、倫道の反応は当然のものだった。
「彩音と和磨の母親が失踪した話が、どんな風に俺と彩音の交際に際して話しておかなければならない相談につながるのかは分からないけれど、ここからが大切なんだろう? まだ感想は控えるから、話を続けてくれよ」
 倫道は賢い男なのだ。僕は小さく咳払いを一つしてから、話を続ける。
「母さんが出て行ったことには驚いたけれど、それによる良い変化もあった。一つは当然、家庭内不和による家のなかの澱んだ空気が取り払われたこと。もう一つ、これもごく自然なことと言われればその通りなんだけれど、父さんがそれまでよりも早く帰ってくるようになったこと。父さんの帰宅が遅かったのは、さっきも話した通り母さんとのこじれた仲にも原因があった。でも、そうした事情とは別にうちは両親ともに県外出身だから祖父母等の援助が得られない環境にあって、母さんがいなくなった以上、父さんがそれまで母さんが担っていた役割の一部を負担するのは止むを得ないことだったんだ。もちろん僕と彩音も家のことは極力するように心がけた。僕らは三人とも再スタートができるだけ暗くならず、小石につまずいたりしてしまわないように慎重な姿勢で新たな門出に臨み、そしてそれは概ねうまくいったように思われた。でも、それは僕の完全なる、そうであって欲しいという願望が生み出した思い込みによる幻覚、勘違いだったんだ」
「勘違い?」
 雨脚は強まってきており、僕らの座る階段のすぐ足元まで吹き付けるようになっていた。さっきまではふわりと全体を覆うような降り方だったのに、いつの間にか雨脚は強く鋭いものへと変化しており、コンクリートや木々の枝葉に雨が当たる音がはっきりと聞こえるようになっていた。遠くで雷が数度、明滅を繰り返した。
「僕がその違和感をはっきりとした形で覚えた時には、母さんが出て行ってから三年の月日が流れていて、彩音は中学二年生に、僕は高校一年生になっていた。その間の変化は、とてもゆっくりだった。徐々に徐々に、彩音はまるでどんどん幼少期に回帰していくように、父さんにたびたび添い寝をされるようになり、さらにはいつの間にかお風呂にも一緒に入る生活に戻ってしまっていて、そこでさすがにおかしいな、と僕も気が付いたんだ。だってそうだろう? これまでも継続的に一緒に入っていたならまだ理解できるけれど、どうして親と一緒にお風呂に入ることを卒業した、思春期を迎えた娘が再び、しかも男親と一緒にお風呂に入るようになるんだろう。そうして注意深く生活をしてみると、聞こえてくるんだ。父さんの猫なで声と、彩音のなにかを我慢して漏らす声にならない声が。僕は自分のどんくささを呪ったよ。
 彩音は、父さんに性行為を強要されていたんだ。
 正確にいったいいつからそんなことになっていたのかは、僕には推し量ることもできない。ただ、母さんが家族を捨てて家を飛び出した理由は間違いなくそれが原因だったんだろうと思う」
 僕が話し終わるタイミングを待っていたかのように、さきほどの雷が地表を二つに割くような低く重い雷鳴を響かせた。木の枝の陰に隠れていた鳥たちは、逃げるように空に羽ばたいていった。風が強く吹き、雨は矢となって葉やコンクリートを討った。しばらく間を置いてみたけれど、倫道が話し始める気配はなかったので、僕は再び口を開いた。
「相談なんて言ってしまったけれど、僕が倫道に話したかったのは、そういう事実があるということなんだ。どうにかしたいけど、僕も自分の家族のことだけにどうしたら良いのか分からないんだ。警察に通報することも考えたけれど、それは彩音の家族をつなぎ守りたいという気持ちを無下にする行為であるようにも思われるし……。それに、この事実を第三者に話して公にしてしまうことは、彩音を守るようでいて辱める行為にもつながってしまいそうで、どうしても二の足を踏んでしまうんだ。僕は彩音を守りたいのに、どんな手段も悪手で、窓辺で声を押し殺して泣きながら、それでも家族を守ろうと耐えている彩音の首を真綿で絞めて傷つける結果になってしまいそうで、一歩の身動きすら取れずにここまで来てしまったんだ。ただ、いずれにしてもこのことで彩音が悩み苦しんでいることは間違いなくて、遠からず体の関係にも話が及んでいくであろう二人のことだから、もしかしたら彩音が倫道から伸びる手を拒否してしまうことがあるかも知れないけれど、その手は同時に救いを求めてもいて、だからこそ、慌てずに関係を築いていって欲しいと思うんだ。一方的に話した上に身勝手なお願いまでして申し訳ないとは思うんだけど」
 言い終えると、だれにも言えずにくすぶっていた胸のもやもやの一部が晴れていくようで、とてもすっきりした気持ちになった。言葉にしたことで、僕の罪がわずかでも浄められてくれたのだろうか。
「俺はいま、とても頭にきているよ」そう言うと、倫道は自分の太ももを力を込めて叩いた。叩かれた太ももにも力が入っていて、拳と太ももの筋肉がはじきあって心地よい音をたてた。
「だけど、どうしたら良いのか分からない。殺してやりたいという気持ち以外、今は他にどんな気持ちも沸き上がってこないよ」
 倫道が彩音との関係を考え直してくれるきっかけになってくれればと思って話したのだけれど、倫道のそのつぶやきを聞いた時、僕はどうしてこんな簡単なことに思い至らなかったのだろうと自分の愚かさを笑ってやりたくなるくらいの妙案を閃いた。そこで、僕は自分の昂る気持ちがあふれ出てしまい過ぎないように言葉をよくよく選びながら、倫道にこう提案した。
「なあ、それしかないんじゃないか」
「それ?」
 僕は乾いた唇をひとなめする。落ち着け。落ち着け。
「殺すんだよ。俺たちで、あの男を」
 今度は光とほとんどタイムラグなく、雷鳴が中空を揺るがして轟いた。土砂降りとなった雨が、僕らの足元も濡らしていた。校舎からは午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴っている。
賽は投げられたのだ、そんな決め台詞が頭に浮かんだ。
「彩音を救うには、倫道、僕たちがやるしかないんじゃないか」
 倫道は口元に手を添え、親指の爪を噛んだ。そして、小さく首を振った。
 受験生でもある僕らにとって授業を受けることは学力アップの面からも内申点を下げないためにも無視することのできない現実だったので、ひとまず相談はそこで切り上げることとし、紫陽花が激しい雨の被弾にさらされているのを横目に雨の中を走った。服も靴も濡れそぼっていたので、渡り廊下で申し訳程度に服の端だけは絞ってから校内へ入った。

 体育館のステージ脇にある二階へ続く階段を昇ると、龍のうろこパートの制作場所はそこにある。荒れた天気が関係しているとしても、四隅の一角を根城としているうろこパートの制作場所は、想像していたよりもはるかに暗くじめじめとしていた。
葉月はすでに作業に取り掛かっており、僕が来ても顔を上げることもせずに黙々と手元のうろこの切り抜きに集中していた。よく見るとイヤホンをしている。
 声をかけるのも面倒だったので、勝手に隣に腰をおろすと、片耳のイヤホンを外して僕に聞く? と差し出した。耳に差し込むと、聞いていたのは意外にもラジオだった。
「ラジコ。うろこの制作は単調だし、人との会話もほとんどないから、ラジオ聞いていると落ち着くの。イヤホンで聞くと親密感があって最高なんだよ」
 活発なイメージのある葉月がラジオリスナーだったのは驚きだった。
「僕もこのラジオ、最近まで夜によくリアルタイムで聞いてたよ。今年に入ってからは勉強の手が止まっちゃうから聞いてなかったけど、そうか、ラジコで聞けばいいのか」
「この段ボールの山はすべてうろこの線を引き終えているから、切り抜いていくのを手伝ってくれる? 切り抜きもだいぶ終わりが見えてきているから、当初の作業計画より少し遅れているけれど、今日から和磨くんが手伝ってくれることを思えば十分当初の計画まで巻き返すことができると思うわ。切り抜きが終わったら色塗り。全部まとめて今年の龍の色、シルバーにうろこを染めていくの」
「OK」
 葉月のあっさりした説明とは裏腹に、うろこの切り抜きはかなり重労働だった。他のパートのように木を加工したり釘を打ったりすることはなく基本的には座りっぱなしなので、工場の流れ作業のように効率だけが求められる軽作業と舐めてかかってしまっていた部分があったけれど、いかんせん段ボールを切り続けるという作業は握力を消耗するし、それにハサミのあたる親指と中指はすぐに痛くなってしまい、できもしないのに時々左手でごまかすなどして休ませなければとてもじゃないけれど休憩を挟まずに作業を続けることは困難だった。痛みに耐えかねて手首をぶんぶん降っていると、葉月が軍手を貸してくれた。
 作業を始めたときにはうろこの作業スペース以外照明の消されていた体育館も、その頃には電気が点き、バスケットボール班とバレーボール班が登場して賑やかになっていた。時間を確認しようと体育館にかけられている時計を探したけれど、座っていると手すりと、そこにかけられた横断幕が視界を塞いでしまい、立ち上がらなければ現在の時刻を把握することができなかった。
 時々すぐ下に見えるゴールネットをバスケットボールが揺らした。
「カッターじゃダメなの?」
「カッターの方が手は痛くならないんだけど、なにせ相手は段ボールだから厚みがすごくて、一枚切り抜くのにえらい時間がかかっちゃっうの。もうあと少しだし、頑張ろう。色塗りまで行っちゃえば、あとはあっという間だと思うし」
「何時までやるの?」
「今日のノルマが終わったら班活に行くことにしてる。本当はいますぐ放り出して班活に行きたいんだけど、それだと龍制作を行っている他のパートすべてに迷惑がかかるからね」
 思い返せば、たしかに葉月が班活に顔を出す時間は日を追うごとに遅くなっていた。葉月の弓道の成績がここのところ芳しくなかったのも、長時間孤独と闘いながら行っていたうろこ制作による精神的なストレスに加えて、ハサミの使い過ぎによる握力低下の影響もあったのかも知れない。
 女子バスケットボール班の一年が内周をしているところに、頭パートの本日の制作を終えたのだろう、遅れて合流する彩音の姿が見えた。
彩音は注意力散漫な様子で、ランニングをすれば前を走る仲間の靴に突っかかってしまっていたし、パス練習では何度もボールをこぼしていた。心配で彩音の様子を見守りながら作業をしていると、なにかの拍子に目が合った。けれど、バツの悪いものを見たような顔ですぐに目を逸らされてしまった。僕と葉月の関係をなにか勘違いしたのだろうか。
作業を終え、弓道場の更衣室へ移動するため体育館の階段を降りている最中に、前を行く葉月の背中に声をかけた。
「明日からはラジオ、普通に流さない? この環境なら、館内が賑やかになれば多少音をたてても問題ないように思うけど」
「この距離の近い感じを手放すのは惜しいけど、それで和磨くんが明日からも来てくれると約束してくれるなら、そうしようか」
 僕の提案に対する葉月の答え方から、葉月はもしかしたら僕に好意を寄せているのかも知れないと、そんなことをまるで自分の後ろ側から世界を見ているような冷静な気持ちで、思っていた。

 翌日から文化祭の本格的な準備期間に入る都合で、多くの班は活動がしばらく休みになる。弓道班も火矢の役割を担う三年生以外、一年生と二年生は全員休みの対象となるため、あいにくの悪天候であるにも関わらず班活への出席率は高めで、僕と葉月が道場につくと、道場内の熱気はかなりの域に達していた。
 道場と的の並べられている安土の上には屋根が設置されているため、弓道班は外の天候に左右されずに練習に励むことができる。ただし、道場と的の間には屋根がないので、道場から安土まで矢を取りに行く時には、傘を差して移動しなければならない。
 僕が傘を差して矢を取りに行こうとすると、どこか意識ここにあらずだった彩音とは対照的に、集中力を切らさずに高い精度で的に矢を放ち続けていた倫道が僕を追いかけて来て傘に潜り込んだ。
「調子いいみたいだね。秘訣を教えてくれないかな?」
すっとぼけた会話をしようとした僕の言葉には応えず、倫道が前を向いたまままるで独り言のように語り出した。
「俺は無力だ。彩音を守るためにできることをあれから色々考えてみたけれど、思い付くのなんて通報か家にかくまうかくらいだった。通報することは和磨の言う通り彩音の意にそぐわない上に傷つけることになってしまうし、かくまったところで俺の家にも両親はいるし限度がある。高校生の分際で逃避行するのも現実的じゃない。そんな風にあれこれ考えていたら、彩音とどう接していいか分からなくてさっきの龍制作では無視するような態度をとってしまった」
 彩音との関係がうまく行かずに悩む倫道を見るのは面白く、もっとふざけた態度を取ろうか迷ったけれど、より長く楽しむためにここは真面目な返答をすることにした。
「僕もずっと考えてきたんだ。兄として、なにかしてやれないだろうかと。自分一人ではとても思いつかなくて、だからこそ、さっきの倫道の言葉には、自分のすべきことがはっきりして、得心を得た思いだったんだよ」
「俺の言葉?」
「さっき口にしていたじゃないか。殺すんだよ、彩音を苦しめている、あいつを」
 安土に刺さる矢を抜いて、倫道に渡す。倫道は渡された矢を握った手元を見つめながら、今度は静かに頷いた。
「この話をここで切り上げずに続けたい気持ちは山々だけど、班活中はやっぱりまずいから、あとで話そう。天気も天気だし、駅向こうのバーミヤンでいい?」
「オーケー」
 矢を抜いて練習に戻ると、倫道は突然獣みたいな大声を出して後輩たちを走って追いかけまわすというウザ絡みをし、班全体からブーイングを食らっていた。僕は弓を置いて、道場の壁で懸垂を始めた。今後のことを思い盛り上がる気持ちのやり場に困るその心理にはひどく共感したけれど、僕はできればそのエネルギーは余すことなく強くなるための訓練に費やしたかった。
 喧噪を背にして黙々と上下運動を繰り返す先にある木目の模様が、虚空を見つめる瞳のようにも、大きな乳輪を持て余している乳房のようにも見えた。そこに口づけをするようなイメージでひたすらに筋肉を苛め抜いていると、乳酸菌がたまっていくのが感じられた。
 班長と葉月の声掛けで終礼をするために皆が整列をした。長い挨拶の後に、班長が、皆の健闘を祈る! と一声かけて、その日の練習は終了した。

 班活が終わるのを見計らっていたかのように雨は突然止んだ。雨上がりは涼しく、濡れたサドルに座らないように立ち漕ぎをした自転車で切る風は爽快だった。スーパーとコンビニが隣接しているバーミヤンの駐車場は広大で、満車になるほど混んでいるところは見たことがない。
 店内に入ると、顎をのせて肘をつき、窓の外を眺めている倫道の姿があった。
「俺の分は注文したけど、和磨はどうする?」
 僕がメニューを開いて選んでいると。早くも倫道の注文した油淋鶏のご飯セットが運ばれてきた。ついでに頼んでしまおうと、開いていたページの中から慌ててミートソーススパゲティにドリンクバーとサラダがセットになったものを注文した。店員の繰り返すメニューを聞いていると、倫道は、悪い、先に食べるな、と断って食べ始めた。無事に注文を終え、飲み物を取りに行こうとすると、俺にもコーラ、とリクエストを受けたので、自分の分の野菜ジュースも入れてテーブルに運んだ。
 二人とも食事を済ませてテーブルの上がドリンクだけになると、倫道は鞄からノートと筆記用具を取り出し、まるでテスト勉強でも始めるみたいに、さあ始めようか、と言った。始めてしまうことで、迷いを捨て去ろうとしているようだった。
 計画の立案に時間はかからなかった。まず、脳内に巡らせていた方法やタイムスケジュールなどの意見を交換し、次に自分の意見に固執せずにメリットとデメリットを洗い出してブラッシュアップした。円錐のトンネルを先端に向かって潜り抜けていくように、一つの目標に向かって非常に効率的に殺人計画をたてることができた。僕がツーと言えば倫道がカーといい、両者の不足分を捕い合いながら計画を組み立てた。
 もっとも難しかったのは二人の確実なアリバイを確保することだったけれど、それも、第三者の証言を獲得することで可能になった。計画の実行には龍の完成を待つ必要があった。
「本当にこんなことをしていいものだろうか?」思ってはいなかったものの、倫道の覚悟を確認したくて疑問を呈すると、倫道が答えた。
「遅かれ早かれ龍は空に昇っていくんだ。そして人はいつかは死ぬ。その順番を早めるだけさ」その言葉は冗談抜きで、僕の背中を力強く押してくれた。
計画の遂行上必要となるため、橋の下、昔は何度も昆虫採集に出かけたその周辺で人の寄り付かなそうな場所を探し、下ごしらえとして穴掘りを済ませてから、僕らは帰路についた。

 龍の制作期間に入って二日目に切り抜きを終え、三日目からはいよいよ色塗りに取り掛かることになった。大量にある段ボールのうろこを外に運び出して、均等な間隔に並べていく。色塗りはシルバーのスプレーで一気に行うことになっていた。
 龍の制作期間中でもバスケットボール班は活動を続けており、館内からは班員たちの大きな声や球を床につく音などが聞こえてきていた。こもる熱を逃がすために通常の練習時にはドアが開放されているのだけれど、スプレーを乾かしている最中のうろこにボールが当たってしまうと互いに面倒なことになるので、ボールが出てこられない程度にドアを閉めることにした。
 一番奥のドアを閉めている時に彩音と目が合ったので手を振ってみたものの、コンタクトでも入れ忘れたのか、もしくはまだ倫道とうまく話せるようになっていないのか、彩音は手を振り返さないどころか小さな微笑みすら返してくれなかった。理由はなんであれ彩音に無視されるのは傷つく。僕が心の中で哀しみを覚えていると葉月に肩を叩かれ、振り向くと人差し指が僕の頬を刺した。
「私たちの仕事は地味だけれど、うろこがなければ龍はただの張りぼてになってしまう。この色塗りは今年の龍の美しさを決める作業だと言っても過言ではないわ。心して取り掛かりましょう」
 整列したうろこたちは乾いた順に各パートに配り、明日にはもう龍の身体の一部となる。そう考えると、まだ手伝い初めてたったの三日で、段ボール収集などには一切貢献していないにも関わらず、龍制作における大役を担っている気持ちになった。スプレーはむらができないように慎重に噴射する。右から左へ、左から右へ。隙間が生まれないように、重なる面積は可能な限り小さくなるように。
 銀色に染まったうろこは爪でアスファルトからはがして持ち上げ、物干し台に載せていく。アスファルトには、銀色のシートとアスファルト色のうろこができあがっている。不在による存在の照明。うろこがいた跡地に、同じ形に切り抜かれた新たなうろこを並べ、再びスプレーをかけていく。
 今日と明日でスプレーかけを終え、週明けには龍が建立される。するといよいよ文化祭が始まるのだ。それは同時に、殺害計画の始動を意味していた。
「なあ葉月、明日スプレーがけが終わったら、二人でご飯でも食べにいかない?」
 返事がなかったので葉月の方を見ると、気丈な表情はそのままに、左の目元に力が入っているのか、右の眉尻だけが上げっていた。
「嫌かな?」ダメ押しの一声をかけると、葉月は小さく首を振った。揺れた髪から覗いた耳が赤くなっていた。

 突き抜けるような空の青が、かえって腕を伸ばして確かめてみたくなるほど遠くまで広がっていた。
暑くもなく、湿気もほとんどないのにも関わらず、校庭にいる生徒はみな荒い息を吐き、顔に流れる汗をタオルや腕で拭っていた。いま、まさに、龍の建立をしているのだった。龍の建立は前夜祭の行われる土曜日のお昼に、全生徒が校庭に集合し、各パートのテントから完成した部位を運びだし、首から始め、胴から尾へと、一つ一つをつなぎ合わせて形作っていく。
 龍はシルバーのうろこに日差しを反射させ、大きな角を空に迷いなく突き立てていた。
倫道と打ち合わせを行ったあの日以来快晴が続いており、うろこ作りは滞りなく終えることができた。おかげで葉月と約束した食事にもでかけられたし、その日、僕は葉月と身体の関係を持つことにも成功した。
 近くの神社で、僕が望むままに抱かせてくれた葉月の身体は、見た目以上に出るところは出ており、彩音よりぐっと成熟した女らしい身体をしていた。本当に今まで彼女がいたことがないの、なんだか上手すぎる気がするわ、と葉月は驚いていた。僕はいよいよ始まる殺人計画に昂る気持ちを鎮めようと、葉月を激しく抱いた。
 龍の建立が終わると、前夜祭に向け、各自クラスや班活の出し物の準備に戻る。弓道班は出し物を行わないけれど、後夜祭で火矢を放つという重要任務があるので、三年生は道場に集合して練習をすることになっていた。道場に向かって歩いていると、倫道が追いかけてきた。
「落ち着いてるな。練習に出て、ちゃんと時間通りに抜けられるんだろうな?」そう言って肩に腕をかけスキンシップをはかってくるところはらしくなく、倫道はやや浮き足立っているようにも思われた。
「短い時間でも練習に顔を出してアリバイとなる時間を増やしておかないと。それに、計画遂行の前後に僕らを目撃してくれる人数は多いに越したことはないから。そっちはどう?」
「大丈夫。俺らは一蓮托生。どっちかだけが怖気づいてできないなんて許されないぞ」
 着替えを済ませ、それから連絡を取りながらもかつアリバイを作り上げるため、僕らはスマートフォンを交換した。
 弓道場に集まる三年生のやる気には並々ならぬものがあった。大会に出ること、強くなること、そのために練習をしてきた側面もあるけれど、龍に火矢を放つことは、この三年間の集大成という意味ではこれ以上ない大きな意味を持っているのだ。
 葉月も来ていたので、僕は関係がぎくしゃくしないように、下手に避けることはせずに率先して話しかけた。
「銀のうろこを身に纏った龍も無事に建立したし、あとは火矢を残すのみだね」

 道場で一時間ほど汗を流した後、倫道にアイコンタクトを送って更衣室で倫道の制服に着替えた。今日の倫道の制服は、生地は上質なものだとすぐに分かったけれど、紺のブレザーにストライプのワイシャツ、パンツも紺色のスラックスと、ぱっと見は地味目のものがチョイスされていた。この計画のために目立たないものを選んだのだろう。倫道の用意してくれた鞄を背負う。中には龍制作の現場からくすねたのこぎりとビニール手袋が入っている。
 時計を確認すると三時四十分だった。計画を実行するにあたり電車を使う必要があったので、今日は朝も電車を利用し、駅にかけられている時刻表で時間も入念にチェックしてきていた。できるだけ長く学校に留まるためとはいえ、一本遅れれば致命的に計画が遅れることになる。次の電車が発車するまでにはあと十分になっており、間に合うか瀬戸際の時間が迫っていた。駅まで小走りで向かう。
滑り込みで間に合った電車は、台風の日など、ごくまれに電車を利用する時とは曜日も時間も天候もまるで違い、通学や通勤で利用する人の姿は皆無だった。予想外だったけれど、おかげで車内では必要以上に顔を見られないようにと神経をすり減らすこともなく、安心して乗車していられた。
 電車に二十分揺られ、そこから十五分歩くと自宅に到着する。自宅に着いたことを倫道のスマートフォンから僕のスマートフォンに向けて発信する。
『今から龍に矢を放ちます』
 送信されたメッセージはすぐに既読になり、龍に射るのは後夜祭だろう、いまは的に放てよ、と返ってきた。これで学校にいる倫道のアリバイはもちろん、倫道が学校にいる時間に送られたメッセージを、あたかも僕も同じ道場内で読み、ふざけたやり取りをしている印象が残る。GPSを調べられてもばっちりだ。
 龍制作で廃棄となっていたのを持ち帰って物置裏に隠しておいた木材を手袋をしてから握り、家のチャイムを鳴らす。まだ学校にいるはずの息子の突然の帰宅にも関わらず、父親は戸惑った様子も見せず親切にドアを開けてくれた。おまえどうしたんだその服は、突っかけを脱ぎながらそう話す父親の後頭部を、握っていた木片で、力の限り思い切り殴りつけた。

 殴打した父親を風呂場に運び、倫道が用意してくれたのこぎりで父親の首を喉ぼとけのほんの下から切断しにかかると、わずか数回動かしただけで、まるで古いミステリードラマのわざとらしい演出のように、面白いほど大量の血液が風呂場中に噴射した。念のため裸になって手にだけゴム手袋をはめて作業を開始したのは正解だったと胸をなでおろしたけれど、全身に張り付く血液は生温かく、また、当たった傍から強い鉄分の臭いをそのままに空気に触れたせいで凝固し始めるので、髪の毛や陰毛などに張り付いたそれらが後できちんとシャワーで流れるかどうか心配になった。しかし、始めてしまった作業を中断してやり方を切り替えるわけにもいかないので、そのままのこぎりを引き続け、硬い骨の部分は滑る頭を足で押さえつけながらどうにか力を込めて切断を終えた。一息ついているところに風呂場のドアが開き倫道が姿を見せた。倫道はリュックを背負っており、打ち合わせ通り制服とは別に用意していた自前の服を着ていた。急いできたのだろうか、呼吸はあらく肩で息をしていた。
「ひどいな、よくこんなことが……」倫道は鼻を抑え、思い切り顔をしかめていた。
「せっかく盗ってきてもらったのに悪いんだけれど、のこぎりだと切断にえらく時間もエネルギーも取られてしまうんだ。調理している光景を思い浮かべるに、もしかしたら包丁の方が効率が良いかも知れない。汚れる前に、キッチンから包丁を取ってきてくれないか。そこに手袋はあるからそれをして」倫道の他人事のようなコメントは無視して、脱衣所の洗面台に置いておいたビニール手袋を顎でさした。
 手袋をした手に包丁を握った倫道が風呂場に入ってくると、切断途中の父の前を倫道に譲った。倫道は迷った末に、胸と腹の間に包丁の刃を入れた。骨が少なそうな場所を選んだのかも知れない。包丁は倫道が体重をのせると、それほどの力をかけていなさそうなのに、一気に骨まで入っていった。血はもう飛散しなかった。僕が首の切断に要した時間とは比較にならないほど短時間で、倫道は胴の切断を終えた。交代して渡された包丁で僕が腕と胸を切り離すと、今度は倫道が腹と足の間に包丁を入れた。作業を繰り返すと次第にハイになってきて、ペニスと睾丸を恥骨から切断するときには、二人で風呂場に笑い声を大いに響かせていた。
「放火はうまく行った?」
 ひと段落したところで計画の進行状況を共有するため話しかける。
「ああ。問題ない。いまごろ消防車が駆けつけているんじゃないかな」
「生石灰は?」
「リュックの中」倫道は背負ってきたリュックを指さした。
「確認してもいいかな」そう言って僕は足元を流してから風呂場を出て、洗濯機横によけておいた、先ほど父親を殴打した木片を手に取った。風呂場ではなにかに取り憑かれたような顔をしながら倫道が細分化作業を続けていた。
「なあ倫道」呼び掛けて振り返った倫道の顔を、先ほど父親にしたのと同じように、思いきり木片で殴りつけた。
 倫道は瞬時に身体を逸らしたのか、一度では気絶をしなかったけれど、おでこと耳の間を抑えて血まみれの洗い場で悶絶していた。僕は少しいたぶってやりたい気持ちが湧きあがり、弱っている相手に逃げる隙を与えるつもりで力一杯振りかぶってから木片を振り下ろしたのだけれど、倫道は二度目の殴打もよけることができず、悲鳴の代わりに骨が潰れる、大きな卵を割ったような感触が手元に届いた。
 倫道を殺した後の作業は最悪だった。血しぶきが外に飛ばないようにドアを閉め切って行う作業は時間の経過とともに湿度が増して蒸し暑かったし、さっきまでは作業を手伝ってくれていた倫道が今はおらず、逆に横になってただ切られるのを順に待っていたから、手をかけたときにはあった人を殺める喜びも流れ作業のせいですっかり霧散してしまい、僕はなかなか終わりの見えてこない力作業に屈しないように足に力を入れて踏ん張り、悲鳴を上げる腕を酷使して切断を続けた。
 父親と倫道の肉片をビニール袋にくるんでから父親のリュックと倫道が背負ってきたリュックにそれぞれを詰める。凶器はどちらも父親の入ったリュックに入れた。風呂場で浴室全体と身体をシャワーでかるく流してから時計を確認すると、もう学校を出てから二時間も経ってしまっていた。まだ風呂場に落とし切れていない血痕があるかも知れないとは思いつつも、とにかく先にやるべきことを済ませて、残りはまた夜入る時に掃除をすればなんとかなるはずだと腹を決めて、もう一度髪と身体だけ綺麗に洗ってから倫道の着てきた服と靴を身に纏い、新たな手袋をはめ学校方面に、倫道が乗り付けていた自転車を漕いで向かう。
 倫道が学校から盗んできた持ち主不明の自転車はタイヤの空気が抜けており、ペダルはいつまでたっても重かった。倫道が風呂場に姿を現した時になぜあれほど肩で息をしていたのか分かった気がした。
 いつも気持ちよく見下ろしていた橋を渡る手前で曲がり、河原の方へと降りていく。だれも手入れをしないせいで僕よりも背の高くなった雑草たちに自転車をまぎれさせてから、ぬかるみに足をとられないように注意を払い前に進む。
 遠くで消防車が走り去っていったのが見えたけれど、消防車はサイレンを鳴らしておらず、また、向かう先も学校とは反対方向だった。消火作業を終えた帰り道なのだろう。龍はどれくらい燃えたのだろうか。とにかくできるだけ急いで背負っている荷物を処理し、学校に戻らなければならない。
「本当にこんなに上手くいっていいものだろうか」独りごちて見上げた強い西日の差す空には、白い月も浮かんでいた。草場の陰に隠れて、倫道を模した格好から自分の服と靴に着替える。
時間を引き延ばしてくれているような蝉の声を聴きながら、二人で堀った穴に倫道の肉片といま脱いだばかりの倫道の服を放り、その上に生石灰を撒いて土を被せる。インターネットでは地表に近くなってきたら、万が一遺体を埋めた周辺を捜査されても掘り返されないように石を敷き詰めるのがベターだと書かれていたけれど、それは難しかったのであきらめた。父親の遺体はリュックのまま川に流す。父親の死体が見つかれば、どのみちこの辺りはそれ以上捜査される心配はないだろう。
 ここから先はだれかに自分の姿を目撃されると厄介なので、帽子を目深にかぶる。どうせ学校に着いたら今朝着てきた自分の服装に着替えるので、顔さえ見られなければそれで大丈夫なはずだった。
 一連の計画を実行したのにも関わらず、身体は思いの外かるかった。日頃の訓練のたまものなのか、はたまた一時的な興奮状態によるホルモンの作用なのかは判然としなかったけれど、一秒でも早く学校での僕の目撃情報を作る必要があったので、倫道のスマートフォンのGPSをオフにして電源を切ってから放り捨てると、まさにいま切り替わろうとしている夜の帳に身を隠すようにして、学校への道を急いだ。

 自転車を学校裏の抜け道前に乗り捨て、更衣室にだれもいないことを確認して着替えを済ませ、ネクタイを指一本分緩ませながら校庭へ出ると、やはり龍の消火作業は終了していた。ピークの去った花火大会のように、焼失した龍を眺める生徒の姿はまばらで、去っていくものはあっても新たに見物に参戦する者の姿はなかった。
 龍は黒焦げにはなっていたけれど、かろうじてその骨格は保っていたので、間違いなく龍に見えた。今年のシンボル、長い角も健在だった。倫道が放った火による火災にも、消防車のホースによる消火活動にも倒れることなく耐えたのだと思うと、そこには大きな感慨があった。
 癖になるような焦げ臭さを嗅ぎながら、とにかく人に見られることを意識して龍の周りを歩き回る。
龍のうねりの向こうに照る満月を見上げると、体育館の二階の電気が点いていた。
 明かりの正体を確かめるべく体育館脇へ行くと、消防車が来る前の消火作業で使ったまま放り出されたのだろうか、ホースの取れた蛇口から溢れた水が、一面を水浸しにしていた。蛇口を締め、ホースを付け直そうとしたけれど、ホースの留め具が強い水圧で変形してしまっており、装着することはかなわなかった。
 うろこパートの作業スペースへ行くと、思った通り、葉月が段ボールをうず高く積んだその一山に腰をおろしていた。残った段ボールは作業を終えた夜に近くのスーパーの廃棄場に運んだはずだったので、葉月がまたリヤカーかなにかを使いここまで持ち帰って来たのだろう。
「和磨くん……」龍の周りを歩いている時に見かけた学生たちの眼差しには少なからぬ、ただならぬものを目撃しているという興奮が見て取れたのに、葉月の目は黒く沈んだ色をたたえていた。
「僕も手伝うよ。龍の胴に貼る銀のうろこを二人でもう一度作ろう。あの感じなら、きっとうろこの貼り直しさえすれば、龍はきっと息を吹き返すよ。そして、我々弓道班の伝統の火矢で龍を正しく空に昇らせよう。まだ六時半だよ、時間は十分にある」
 立ったままの僕は、三十分さばを読んだ時刻を葉月に伝えた。
 それから僕らは、使う機会が巡ってくるかどうかも分からない龍のうろこの制作を淡々とこなした。同じ枚数を作っていてはとても間に合わないので、うろこのベースとなる型紙の大きさを二倍弱にすることにした。
 この火災が原因で文化祭そのものが中止になってしまうことだって十分に考えられたけれど、それについては敢えて触れず、とにかく数をこなそうと作業に没頭した。
 互いが好きなラジオをスマートフォンから流すことすらしなかった。
こういう時、他のパートと違ってうろこは元手がスプレーの段になるまでほとんど必要ないのは強みだなと感じた。他のパートだったらきっとこうはいかなかっただろう。
 日付が変わる頃にすべての段ボールに切り抜きの線を引き終えた。もたげる眠気に意識を奪われながら、僕らは明け方まで切り抜き作業を続けた。まだ半分もできていなかったけれど、とにかく身体を休める時間が必要だった。葉月と一緒に作業協力への呼びかけの文面を考えて、知っている校内の知人全員を宛先に入れて送信し、ひとまず解散とした。
 帰り道は朝日の眩さに目がくらみ、何度も車にクラクションを鳴らされた。
 家に着くと彩音が起きていて、龍の火が消えるのを見てから帰って来たのだけれど、お父さんは帰ってこないしお兄ちゃんもどこにもいなかったし、それに倫道とも連絡が取れないの、不安でなかなか寝付けなくて、おまけにこんな朝早くに目が覚めちゃったの、お兄ちゃん、どこに行っていたの、お父さんや倫道は一緒じゃなかったの、と話しかけてきた。
「大丈夫だよ、彩音は僕が守るから。でもごめん、今はちょっと疲れすぎているから、お風呂に入って眠らせてくれないかな。目を開けているだけでも辛いんだ。一緒に入るかい?」
 首を振る彩音の頭を撫でたあと、頬にキスをして、それからお風呂で熱いシャワーを浴びて念入りにお風呂掃除をした後、自分の部屋のベッドで深い眠りにおちた。

 銀の龍を、我々弓道班が取り囲み、その外側を全校生徒が囲んでいた。
 うろこは葉月と二人で徹夜で作業をした翌日の午後に学校へ行くと、応援を依頼した友人たちが更に多くの生徒に応援を要請してくれており、クラスや班活、学年の垣根を越えた仲間が手を差し伸べてくれたことにより、無事に完成していた。
 生徒たちのやる気に気圧される形で学校側は、文化祭への外部の人間の立ち入りは中止にしたものの、文化祭そのものは継続するとの判断を下した。つまり、後夜祭は予定通り決行されることになったのだ。
「倫道、昨日から家に帰っていないらしいぜ」
「昨日の夕方、文化祭の準備中なのに、倫道らしき人物が駅に向かう姿を見た人がいるって」
「LINEの履歴を別のブラウザから確認したら、最後の送信に『今から龍に矢を放ちます』って書かれていたらしいぜ」
 僕からはなにも聞いていないのに、うろこが龍に再度貼られていく過程で噂はどんどん広まり、いつの間にか皆が放火と倫道を結び付けて語るようになっていた。僕はそんな友人たちの噂話に適当な相槌を打ちながら、うろこを龍の骨に貼っている最中に、龍の空洞の体の中に、倫道や父親を始末してから学校に来るまでの間に来ていた服を隠した。
 父親が行方不明になった翌々日、彩音と二人で捜索願を警察に出すと、その日の夕方には川下で父親のバラバラ遺体が凶器とともに発見された。
 凶器にのこぎりが使用されていたことと目撃情報が相まって、倫道犯人説の機運が周りでは高まっていた。僕はその日、たまたま電車で通学していたし、弓道場の練習にも顔を出し、スマートフォンで倫道とやり取りをし、葉月ともうろこの制作を開始していたのでアリバイは完璧なはずだった。警察の捜査状況が知りたかったけれど、事情聴取すらされていなかったので身動きが取れなかった。
 いずれにしても、依然倫道は行方不明のままで、彩音はひどく気落ちしているようだった。
 解体された龍に火矢を放つ。
 火矢は先端に布が巻かれており、そこに油を染み込ませてから着火しているので、練習で使っているものよりも重心がずいぶん前に偏っている。腕は当然のことながら、肩甲骨や背中、太ももに至るまで全身の筋肉を緊張させ、合図と共に、安土にかけられた的に矢を射るときよりも意識的に上に向かって放つ。これまでにこれほど一本の矢に徹底的に集中したことはなかった。矢を放つ瞬間には、練習はもとより大会でも感じたことのなかった確信があり、放った際に身体に走った衝撃には、射精をする時のような恍惚感があった。
 仲間たちの放った矢の何本かがグラウンドに落ちてしまう中、僕の放った矢は見事に銀の龍の残骸に飛び込んだ。
 龍は一気に燃え上がりはせず、しばらくぐずぐずと燻っていた。一度消火されているせいで、龍の木に水気が多く含まれているのだろうか。
慌てて追加された火矢を、部員たちで次々に龍に放つ。
 ようやく炎が広がり空へと昇天し始めた龍を、学校中の生徒が見守っていた。
 龍が煙と灰になって空に昇っていく様を見届ける儀式が終わると、後夜祭のスタートとなった。後夜祭では、燃えかすとなった龍を中心に、校庭に水がまかれ続け、皆が泥だらけになりながら踊り狂う。
 校庭に続く階段の上に彩音の姿を認め、僕は後夜祭の輪から外れた。
「彩音」呼びかけると、彩音がおびえた目を僕に向けた。
「なにも怖がることはないよ。僕はずっと彩音の傍にいるから。母さんがいなくなり、それから僕らの関係を見とがめ邪魔しようとした父さんと、おまえを僕から奪おうとした倫道がいなくなった。それが本物の愛はどこにあるのかを物語っているじゃないか」
「今夜もたっぷり愛してあげるからな」
 後夜祭は曲が変わり、次なるプログラム、告白タイムに移ろうとしていた。
 僕は彩音の腕を引き、弓道場へといざなう。そして彩音が十歳の誕生日を迎えたその日から彩音が落ち込み悲しんでいる時には必ずそうしてきたように、ゆっくりと彩音の衣服を脱がし、いつもと変わらぬ開始の合図を告げるため、彩音の薄いアンダーヘアーからのぞく割れ目に優しく舌を這わせた。彩音が強く目を瞑る。
「彩音が一番好きなのはだれ?」
 彩音は目を瞑ったまま、僕のことを指さした。
 なにかの崩れる音がして道場の先を見ると、ホースが外れて以来行われていなかったせいですっかり乾いてしまった安土の一部が崩落していた。
僕は陶器のようにつややかな肌の彩音に優しく触れ、その体の隅々に至るまでを丁寧に愛撫した。

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