その男に特別目を引くなにかがあったわけではなかった。中年らしく中肉中背で、体に本来よりも一回りだけ余分な脂肪を蓄えているようには見えたものの、サングラスやバンダナをしていたわけでも髭を蓄えているわけでもなかった。ただ、強いてあげるなら、知らない街を歩く様子であるにも関わらず、街中のメーカー特化型の電器屋にふらりと入っていったこと、さらに見ていると突然一人暮らし用の冷蔵庫と旧式の大型扇風機を抱え、電器屋の軽トラックを運転し始めたことに不穏ななにかを察知し、俺はそのままその男が車を返しに戻ってくるのを斜め向かいのコンビニで待つことにしたのだった。
案の定軽トラックを返却しに来た男は、電器屋の店主にひと言礼を告げると歩き出した。軽トラックの鍵はどうやら車内に置きっぱなしのようだった。帰りの道中、夏の暑さから身を隠すためか陰から陰へ、男は足取りを弾ませながら進んでいき、それから住宅街に突然整備された駐車場、その入り口に設置された自動販売機で飲み物を購入しようとした。男の横に立ち、話し掛ける。
「よう兄弟、なんだか妙に浮かれた調子だな。一体全体どうしたんだい」
動揺とは別に警戒の色が顔に浮かび、瞳孔まで見えるほど瞠目した男は、僅かに口角を上げながら俺を見つめた。
「あんた、だれだ?」
俺はなにも応えなかった。茹だる熱気で駐車場に一台停められた車が僅かに歪んで見えた。一羽の蝉がヂヂヂと鳴き声を上げ、電柱から飛び立った。蝉の飛んだ先にある空は高く、果てのない群青を一面にたたえていた。
「ずっと、見てたのか?」
黙って頷くと、男は勝手に言葉を続けた。
「違うんだ、俺は教師で、あの女は教え子なんだよ。おっとだからってやましい関係なわけじゃない。ただ、両親が不在だし宿題を見て欲しいと頼まれて家に上げただけで……」
男の顔には粒状の汗が次々に浮かび、筋となって頬を流れた。それが暑さによるものなのか冷や汗なのか、いずれにしてもその量は異常で、男が嘘をついていることだけは手に取るように分かった。さっきまでの男の軽い足取りが思い出される。
「随分流暢に喋るんだな。隠すのならこっちにも考えがあるんだぜ。正直に話すのなら早い方が良い。なんなら今からその女のいるあんたの家にお邪魔したって良いんだぜ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくれ。分かった、分かったよ。良いよ、仲間に入れてやるさ。だからもうそうやって脅すのはやめてくれよ」
ハッタリをかましただけにも関わらず、男は観念した様子だった。俺はそのまま主導権を握り続けられるよう、ほとんど反射的に自動販売機で飲料を二本、続けて購入した。一本は自分、もう一本は強引に男に渡した。
「明日、同じ場所でこの時間に待ち合わせで構わねぇよ。ただし、来なかったら、分かってるよな」そう言って俺はその場を後にした。
しばらくしてから振り返ると、男が背中を丸めて歩く姿が見えた。俺は男からの死角を意識して、尾行を始めた。
昔ながらの街並みで、瓦屋根が強い日差しを艷やかな曲線で照り返している。夏休みが始まっているもののお盆まではまだ日がありあたりは閑散としているため、人影は自分たち以外には見当たらなかった。
男の後ろめたいものがなんなのか、察しはついていたものの、見当違いだった場合には改めて仕切り直さなければならなかったので、自分の今後の動きを決めるためにも尾行はどうしてもしなければならなかった。
海からは少し離れているこの街でも、湿気は異常なほど高く、熱気がまとわりつくので、ただ歩いているだけで汗が滴り落ちてくる。落ちた汗は、コンクリートの熱ですぐに渇いて消えてしまう。煙草に火をつける。男は相変わらず日陰から日陰へ、暑さを避けて移動していたけれど、ふいにその姿が塀の中に消え、男が脇道に入ったのが分かった。歩幅を広げて男の曲がった地点へ急ぐ。呼吸が深くなり、ニコチンが体内に一気に流れ込む。遠くの山並みの緑が夏の日差しを受けて山肌の緑を鮮やかに照らしていた。
脇道は奥の家に続く私道で、その先には家は一軒しかなかった。家の明かりが点いていることと通りを道行く人がいないことを確認し、その先へ分け入って進んでいく。
通りから姿が見えないように玄関扉の横に回り込んで座り、中の物音に耳を済ませると、中からは小さくない声量の、なにかを口に挟まれているに違いない女性の、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。女はかなり窓際に追い詰められているらしく、その振動からは腰をくねらせ逃げようとしているのに相手に体の自由を奪われて良いように蹂躪されている様が想像できた。この女が、先刻男がうっかり口を滑らせた教え子の女とやらに間違いなく、そうであればその発言が事実かどうかは別として、女は教え子でもおかしくないほど年が離れており、おそらくは十代なのだろうと推察された。
泣き叫ぶ悲鳴の間には不覚にも嬌声めいたものも入り混じっており、女は男に監禁された上で強姦されているので間違いなさそうだった。
中の様子を視覚で確認したかったけれど、立ち上がって覗く危険は犯せないので窓の下から覗き見る他ない。しかし窓ガラスは不透明で、人影をかろうじて見つけるのが精一杯だった。
俺は自分の強く硬い勃起を意識し、それと同時に湧き上がる怒りに手が震えていた。自分を落ち着かせるために深く深呼吸をする。いつまでもここにしゃがみ込んでいるわけにもいかず、しかしいままさに激しく山場を迎えようとしている室内の様子を耳にしながらここで立ち去ることはできなかった。頭では分かっていても、体が、耳がこの状況を貪欲に欲していた。足元を這うてんとう虫が飛び立ったらこの場を去るのだと自分に言い訳をし、目を閉じて屋内の様子に耳を澄ませる。
ことが終わり静かになった。目を開くと瞼に落ちた汗とそこに滲む夕日が瞳に差し込んだ。てんとう虫の姿はどこにもなかった。俺はかがんだ姿勢で男の家をあとにして、帰宅の途についた。
その夜は、明日自分が行うであろう行為に興奮し、なかなか寝付くことができなかった。
翌日、待ち合わせの時間にわざと少し遅れて例の自動販売機の前に行くと果たしてどうして、しっかり男はそこにおり、既に飲料の購入も済ませていた。
「こっちです」そう言って、昨日尾行したのと同じ道を、男は歩き始めた。そこには躊躇いも焦りもないように思われた。
「ずいぶん楽しんでいるんだろうな」
「そんなそんな、まだまだこれからっすよ。せっかくですし、複数人でのプレイも楽しみですよね」
男が、下卑た笑いをたるんだ頬に浮かべて言った。
「ここです」指さした先はやはり、昨日入ったのと同じ小径だった。
「すごい立派な家じゃないか」
「移住を検討しているからしばらく泊まりたいんですって申告したら、簡単に借りられましたよ。俺なんて徳島市出身なのに。ちょろいもんですね」
それから男は少しだけ待っててくれと言い残して家に入った。玄関前にあった柱に体を寄りかけて待っていると、女の悲鳴にも似た声が微かに聞こえ、それから男が顔を出した。
「すいません、あのアマ、家の中を汚しやがって。もう少し……」
まだなにかを説明しようとする男を押しのけて中に入ると、畳の上で裸の若い女がぐったりした様子で倒れていた。女の足元、畳が酸化したどす黒くドロリとした血で汚れていた。見ればそれはどうやら暴力によるものではなく、生理によるもののようだった。おそらくこの女と男の体液も混じっているのだろう、クーラーもなくただ昨日男の運び込んだ扇風機と冷蔵庫が一台ずつあるだけの部屋は音漏れを気にして締め切られていたようで、吐き気を催すほどの独特の臭気が充満していた。俺は背後に立つ男の腹を思い切り蹴飛ばして、喘ぎ悶える男に指示を出した。
「女の口にガムテープを貼るか、なければ濡れたタオルでも詰めて、とにかく部屋の掃除と換気だな。おまえは生理用品を買ってこい。こんなに臭くちゃあ、まるで動物園だ」
元々口実をつけて男を追い出すつもりだったので好都合だった。ガムテープもタオルもなかったので、女が着てきた服から下着を履かせた。上着は破って濡らし、それを女の口に詰めて、残りで手足を縛る。男はそれだけ見届けると薬局へと出掛けていった。女のいた和室の窓を開ける。換気をしても冷気など入ってこず、蒸し暑さも変わらなかったけれど、臭いだけは入れ替えることができた。
女の前に腰を下ろし胡座をかく。女は俺という存在の登場の意味を計りかねているようだった。しかし、パンツを履き、水分を含んだ衣服を口にしたことで、先程よりは意識はしっかりしているように見えた。貧相な胸と、腕に幾重にもつけられたリストカットの痕がここに至るまでの経緯を物語っていた。
「自殺志願者なんだよな。このまま犯されて続けてボロ雑巾のように死ぬのも、悪くないんじゃないか?」
女はうーうーと唸って泣いた。俺は女を起こし、顔を左右に軽く張った。
「泣いたって仕方ないだろ。そもそもわざわざこんな辺鄙な場所まで出てきた時点で訳ありのくせに、見知らぬ男に付いていったりするからだろう? あんたを助けてやったって良いが、当然あんたの命の所有者は俺になる。その覚悟は決まってるんだろうな?」
女は上目遣いに俺を睨み、涙をたたえながら、それでも小さく頷いた。女の髪を引っ張り上げながら、俺はその訴えに答えてやった。
「分かった。そしたら必ずあんたを連れ出してやるから、それまではどうにか自分で自分の身を守るんだな」
戻ってきた男の急所を思い切り蹴り上げ、これじゃあ今日はお預けじゃねぇかと毒づいて、俺は男と監禁されている女の住む家をあとにした。
小便小僧の前で、男の目隠しを解いてやる。真っ暗闇の中、岩場を打つ滝や流れる川の音、不気味な木々のざわめきや鳥の鳴き声が聞こえる。ほとんど絶壁の頼りない場所に放り出された男が尋ねた。
「ここはどこなんです?」
「祖谷渓だ」端的に質問に答える。
「服は車の中に置いておく。結束バンドが外せたらそこの柵に括りつけた鍵で車を開錠して着るんだな。喉が渇いてるだろう? 呑めよ」
男の口に無理矢理水を含ませる。
つい一時間前、寝込みを急襲し、女を救出した。
男の家をあとにするときに開けておいた窓から侵入し、男の腹に思い切り飛び乗り、それから手袋をした拳で腹を勢いよく殴った。身を守ろうと男は顔と足を丸めて身を屈めたけれども、それも構わずに二度、三度と殴打を続ける。男の喉の奥から吐しゃ物が逆流して床を汚した。そのまま一思いに殺してしまいたかったけれど、それでは俺もお縄を頂戴することになってしまう。手のひらを開き手刀の形にして首元を思い切り叩きつけ、完全に白目を向いた男の衣服を剥ぎ、目隠しをして手には結束バンドを付けた。
闇の中、そんな俺の動きを女の瞳はずっと捉えていた。女は別れたときより怪我が増えており、片目が腫れ、胸と脇の間には煙草を押し付けられた痕が付いていた。
剥いだ男の衣服の下着を女に渡す。
「どんなものだろうが、なにも着ないよりはましだろう?」
助手席に女を、後部座席に裸の男を転がして、祖谷渓まで車を走らせた。車は男が借りていた電器屋の軽トラックを拝借した。
車に戻ると女は練炭の準備をしていた。
「この期に及んでも自殺への覚悟が揺るがないのは恐れ入るよ」
「あの強姦男はどうなるの?」
「俺の獲物であるあんたを横取りしたからお仕置きはしているが、なに、結束バンドなんぞ本気になればすぐに外れるから、睡眠薬から目覚めて状況さえ整理できれば柵を越えてこちらにやってくるさ。今は観光シーズンの最盛期なわけでもないから、目を覚ましたらすぐ、明け方には服を取りに来るだろうよ」
そもそも、この女の自殺幇助をするとSNSでやり取りをしていたのは俺だった。それをあの男が突然現われて性欲に任せて女を監禁したのだった。女からのSNSを介してのSOSでおおよその場所を割り出し、不審な動きを見せる男に当たりをつけたら見事にビンゴだったというわけだ。目張りを手伝いながら話を続ける。
「俺はただ人の苦しむ姿や死んていく姿が見たいだけなんだ。あいつの邪魔には参ったが、おかげで罪は簡単になすりつけられそうだ。起きて車に入って服を着れば指紋もばっちりだし、なによりあんたを誘拐して犯している事実がある。後は警察が都合の良いストーリーを組み立ててくれるだろう。俺はあんたの死を見届けたら、ゆっくり歩いて下山するさ」
真夏の夜の祖谷渓は、蒸し暑さはそれほどでもなかったが、それでもあれこれと動いていると額に汗を感じた。
「本当にあなたって変態なのね。おかげで助かったけど」
「ところであんた、なんで自殺なんてしたいんだ? 死んでいく様を見るときにおかずとして思い浮かべたいからさ、差支えがなかったら教えてくれよ」トランクに手をかけ、最後に鍵をかける前に尋ねる。
「私は、息をしてるだけで男を誘惑しちゃうの。それは全部私が悪いんだって。父親から始まり、私を通過していく男たちは皆、私の耳元で私が悪いんだと囁きながら汚い体を押し付けてくるの。そうして堕胎を繰り返し、挙句、好きな人からはふしだらで穢らわしいと非難され嫌われるの。そんなの、死んだほうがマシだと思わない?」
俺はただ、へへへと、それだけを返し、トランクを締めた。崖の上で、男が眠気に襲われながらもふらふらと立ち上がった。俺はそれを眺めながら、車をロックし、鍵を柵に結わえた。