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【住む】ワンシーン

その街を詳しく知りたければ、その街にある飲食店に通うべき。…どこの誰の発言かは忘れてしまったが、未知の街を訪ねるとき、そして、これからお世話になる街を知りたいとき、この教えを頭に入れながら行動している。
僕は今、東急東横線沿線のとある街に住んでいる。横浜市の真ん中あたりにあるこの街は、駅を降りると片方は住宅街が延々と広がるベッドタウンであり、もう片方は商店街と大学(✳以下J大学と表記する)がある学生街となっている。

住まいを構えているのは前者のエリアなのだが、買い物だったり外食をするときはもっぱら後者のエリアにお世話になっている。そこに行きつけの中華料理屋がある。改札を降りて左に曲がり、さらにだらだらと坂道を下っていき、その終点にある小さな雑居ビルの1階に、この店は鎮座している。
会社の同期にJ大学に通っているヤツがいた。ちょうど引っ越す前、彼に相談したところ「この店の定食が…」というアドバイスを貰った。それは大変有益な情報だった。あっという間に、この店の常連に僕はなってしまった。

昨年の10月某日夜。翌日は仕事で重要なプレゼンがある。なるべく早めに床について、翌日に備えておきたい。故に、夕飯を外で済ませ、時間と労力を少しだけ削ろうと考えた。
この店の良いところは2つある。
ひとつは、この店の定食が美味しいことである。850円で提供される日替わり定食は2種類あり、どちらもボリューム満点だ。残業続きで、もう自炊する心の余裕がないとき、または、翌日の戦闘に備えてパワーを蓄えたいとき。僕はこの店へ足を運ぶ。いわゆる勝負飯の一種なのかもしれない。
この日は麻婆茄子定食にした。サラダとスープと唐揚げ(大きいのが3つ!)もついてくる。もちろん、ライスは山盛りである。

この店を気に入ったもうひとつの理由。それはこの店はスポーツとの縁がある店だからだ。
店内にはその痕跡が残されている。部員を募集するアメフト部のポスター、プラウドブルーのタオルマフラー、少年ジャンプと同じ棚に並べられている、関東大学サッカーリーグの選手名鑑…。
そう、この店はJ大学に通う運動部の学生たちが、憩いの場としているのだ。

今日もおかみさんと大柄な学生が、やんややんやと会話を交わしている。それを眺めているのが好きだった。話している内容だなんて、第3者的にはすぐ忘れる程度の重要性しかない会話だ。でも、それが耳に入ってくることが大事なのだ。平凡な学生街を舞台にした青春ドラマのワンシーン。そのエキストラとして、僕は静かに麻婆茄子を食している。

ただ、お店の雰囲気が少しずつ変化している点に、僕は気がついていた。ある選手が店に占める割合が、徐々に増えているのだ。
それは一昨年の冬だったか、新しめのサインボールがひとつ、カウンターに置かれていた。僕のようなコアな野球ファンならすぐわかるが、一般客にとっては「誰?」と思うようなボールだ。サインの片隅にある「26」という数字が初々しかった。
やがて季節が移ろうと、壁には選手名の入ったマフラーが掲げられた。その選手のプロ入り初勝利を祝してつくられたものだった。そして、そのマフラーを取り囲むように、いくつかのグッズが増えていった。彼の活躍が多くの野球ファンに知れ渡っていくのと同じように、そのグッズが放つオーラは増していった。

肉味噌の甘辛さがたまらない麻婆茄子を、ようやく食べ終えた。今日も手強いボリュームだった。これならすぐに眠れそうだ。
会計を済ませようとレジで待っているそのとき、僕はふと思い出した。スマホを取りだし、スポーツニュースを確認する。そうだ、そういえばそうだった。
店内は僕と、少しくたびれたサラリーマンと、中国語で会話するカップルしかいない夜10時すぎ。僕はおかみさんに、今気がついたことを、お節介ながら伝えないといけないと思った。そのタイミングは、お釣りを受け取ったあとにした。

明日の先発、濱口ですね。

「大丈夫、彼ならやってくれるから」

翌日、真っ赤に観客席が染まった野球場で、彼は快刀乱麻のピッチングを見せた。この試合をきっかけに、新進気鋭の野球チームは更なる高みへと登っていく……。
そんなシンデレラストーリーのどこかに、この街の中華料理屋にて、大盛りの定食に舌鼓を打っていたワンシーンがある。そう考えると、通い続けているだけの僕も何だか嬉しくなってしまうのだった

どうもです。このサポートの力を僕の馬券術でウン倍にしてやるぜ(してやるとは言っていない)