【後編】マーブルケーキ
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午後1時半、外の暑さがピークに達する時間帯。パドックにいる人たちはみんな汗をかいている。新聞を片手に頭をひねったり、カメラを持ってにやにやしていたりしながら。でも、視線はみんな馬を見ている。
パドックは割と落ち着ける場所だった。まず、場内の中で最も女性比率が高い。カメラを持った女性は、間違いなくここにやってくる。男ばかりの場所はやはり落ち着かない。
なにより、色々な馬を、ずーっと眺めていることができるのが楽しい。馬の顔はみんな穏やかで、かつ愛おしさを喚起させる。
その時、私は気がついた。さっきのレースよりも、なんだか人が多い気がする。そんなにスゴいレースをするんだろうか?
みんなの視線の先を追ってみる。理由はすぐにわかった。パドックに一頭、変な馬がいる。白い。正確に言うと、うっすらと茶色い斑点もある。ダルメシアンみたいでもある。でも、やっぱり白い。ひょっとして、これが俗にいう「白馬」っていうヤツなんだろうか? 周りの馬は茶色や黒や灰色だから、やっぱり目立つなあ。
大型ビジョンで名前を確かめる。5番の馬、名前は「マーブルケーキ」。4歳の女の子。白の部分が生地で、黒の部分がチョコレートなのかな。でも、ケーキの生地って肌色だよね……。あと、今の天気ならケーキよりもアイスクリームがいいな。バニラとチョコのミックスが食べたい。
見つめ続けているうちに、だんだん彼女のことで頭が埋め尽くされていった。みんなは普通なのに、マーブルケーキだけ変な感じ。変な感じだから、みんなにからかわれたりするのかな? 自分でも白いこと気にしているのかな?
もしかしたら、私と同じような境遇なのかな? みんな同じなのに、自分だけ違う。いや、私とマーブルケーキは違う。私は誰からも注目されないのに、彼女はみんなから注目されている。
透明と白って、似たような感じじゃないのかなあ?
◇
彼女を見ているうちに、意外な欲求が湧きだしていった。
マーブルケーキの馬券を買ってみたい。応援したい。
彼女は私と同じく、異端な雰囲気を漂わせる。仲間なんだ。仲間だからこそ、応援する気概を見せなきゃいけないのだ!
同じように見えて何かが違う気もしていたけれど、それは頭の片隅に置いといた。今は馬券を買うことのみ考える。
とは言え、私も一般的な常識を兼ね備えた高校生だ。未成年は馬券を購入しちゃいけない。それくらい知っている。バレたらどうなるんだろう。逮捕されるんだろうか。詳しいことはよくわからない。
それくらいのことは一通り考えた。でも、今日は一線を越えても怖くなかった。もう模試は終わってしまった。あとは野となれ山となれ。もう一線越えればいいのだ。
「ビギナーズガイド」と書かれたパンフレットを読みながら、マークシートを塗りつぶす。今日はセンター試験の模試だった。こんなところでマークの練習をするとは。そういえば、おばあちゃんは赤いサインペンを使っていたなあ。でも、ペンケースに赤ペンは無い。何色でもいいよね? 側面に「合格祈願」と彫られた鉛筆を握りしめる。
コースは「福島」。レースは「8」。番号は「5」。馬券の種類は「がんばれ」と書いてあるのがいいな。それは「単勝+複勝」なのね……。お金はぱーっと……それぞれ100円ずつ。今日はトータルで2000円と小銭しか持ってきてないし。
さて、問題はどう買うかだ。年上に見られがちではあるので、堂々と買っても良いかもしれない。でも、バレたときが怖い。ここは安全策を打つに越したことはない。私は大きく息を吸い込んだ。
ガラス戸を見つめる。悪いことをする前の人間の表情は……予想通り、わからなかった。
◇
ずらっと一列に並んだ発券機。数十名のおじさんたちが、淡々とお金を支払って紙切れを手に入れている。これがお金に化ける人は、果たして何人いるんだろう?
しかしまあ、どの発券機にも人がいる。透明人間とは言え、無人の機械から馬券が出てくるところは見られたくない。締め切り時間が迫っている。やばい。
ようやく誰も並んでいないところを見つけた。周囲の人間は頭上の画面に映る別のレースに夢中で、誰も正面を見ていない。チャンスだ!
すっと近づく。まずは投票カードを入れる……いや、入らない。あれっ? 買えない? どういうこと?
いや、落ち着け落ち着け。お金の投入口が緑色に点滅しているじゃないか。そうか、先にお金を入れるのね。飲み物の自動販売機と一緒じゃん。危ない、危ない。
お金を支払わねば。鞄から財布を出す。小銭は10円玉ばかりだった。全くスマートでは無い買い方だ。こんなところで時間を失いたくはないのに。
お金を入れ終えて、投票用紙も流し込む。画面が切り替わった。発券機からすーっと、白い紙切れが出てきら。
これが馬券か……。すごく綺麗な紙に見える。本来ならば人間の欲望が詰まっているはずなのに。
馬券の端と端を両手で大切に触ってみる。それを眺める私は明らかににやにやしていた。
さあ、早くここから立ち去りましょう。くるっと振り返ると、おじさんが慌てた表情で近づいていることに気がついた。おじさんは私がさっき買った発券機に入った。
「おーい、お嬢ちゃん!」
んっ? お嬢ちゃん??
思わず振り返った。周囲にお嬢ちゃんと呼べる人は居なかった。
そして、気がついてしまった。今、私は自分自身を認識することができる。服も身体も、自分の目で見ることができる。
私とおじさんの目が合った。目を合わせると、おじさんはおそるおそる、少し強ばった表情で語りかけた。
「あっ、いた。お嬢ちゃん、君の……」
なにかを言い終える前に、私は通路を全速力で走り抜けていた。
嘘でしょ。なんで。私は誰からも見えなかったはずなのに!
トイレに逃げ込み、慌てて個室の鍵を締める。鞄から手鏡を取り出し、自分の表情を見た。頬を湿らす汗は、声をかけられた時に出たものか、それとも走った反動か。
私はいつのまにか、透明ではなくなっていた。
太陽が燦々と照りつける競馬場。最後の直線周辺となると、人も多い。ゴール前から少し離れたところ、あの標識は「2」って書いてあるから、200メートルくらい前なのかな。そんなところにいた。
何とかあの場は逃げ切った。でも、これから逃げきれる保証は何一つ無い。
とりあえず、ここでレースを見届けよう。それだけは決めた。本当はレースなんて見る気はなかったんだけど。
このまま長い時間、競馬場にいてはいけない。そう思った私は、出口の前までには辿り着いてはいた。でも、その時に大きな過ちに気がついたのだ。
あれっ? 財布が無い!
私はいつの間にか無一文になっていた。どこで落としたんだろう? あまりにも慌てて逃げたのが仇になった。手がかりを探してみようと、逃げた道を渋々戻っていった。トイレの中も探した。でも、見つからなかった。どこにもない。
あの発券機周辺には行けなかった。おじさんは私の存在を認識していた。少なくとも、私はみんなから見えていた。周囲にいた人たちは年季の入った競馬ファン。あの子、未成年っぽいよね? そう悟られてしまったのだろうか。
実際に買ったのがバレたらどうなるんだろう。どうしよう、捕まったらどうしよう。とにかく、あのおじさんに見つかったら、私はどうなってしまうのかわからない。色々な意味で終わってしまう。
この場所から逃げ出したい。でも、財布を無くした今、お金がない。競馬場から家まで歩いて帰れる距離じゃない。そして、財布を無くしただなんて、誰にも言えない。
こんな時こそ、私は透明になりたかった。でも、透明になれなかった。ずっと緊張状態が続いて、呼吸を整えようとしても失敗に終わった。
結局いたずらに時間が過ぎていき、このゴール前に到着したわけだ。
どうしようと考え続けている中、あることに気がついた。ポケットの中に紙切れが1枚あった。マーブルケーキの馬券! これだ! これが当たればお金になるんだ! 当たれば家に帰るためのお金が手に入るかもしれない!
良かった、まだ私にはチャンスがあるんだ。
大丈夫だよ。だって、おばあちゃんはギャンブルに強い。そういう家系だもん。奇跡が起こるはず。それに、マーブルケーキなら、彼女なら私の気持ちに応えてくれるはず。
◇
ファンファーレが鳴り響き、遂にレースがスタートする。この結果次第で、私がこの場所から無傷で出られるかどうかが決まる。ああ、私って今、ギャンブルに身を投じているんだな、って改めて思い知らされる。周囲では微笑む大人たちは、そして記憶の中のおばあちゃんは、本当に毎回こんな気分になりながら競馬しているんだろうか? それとも、私だけ?
太陽から発せられる熱気は、空の上からだけではなく、地面からも私を締め付けようとしている。ますます体が痛くなってきた。
ガシャン、という乾いた音と共にゲートは開かれた。16頭の馬たちが足音を響かせながら、私の前を一瞬で通り過ぎていった。舞い上がる白い砂埃。マーブルケーキは2番目だった。調子良いんじゃない?
実況の声はよく聞こえなかったので、大型ビジョンの映像を注視する。マーブルケーキは順調に走っている。さすが白馬だ。どの娘よりも発見しやすい。この調子、この調子で……。群れた馬たちは大きく崩れることなく、集団で淡々とコースを巡る。本当に、競馬のレースって1分そこらで終わるのだろうか。暑さは私の時間感覚も狂わせてしまっている。
待ちに待った第4コーナーを通り過ぎ、遂に直線でマーブルケーキは先頭に立った。そして、どんどん私のところに近づいていく。でも、内側からも外側からも、別の馬が追いかけている。あと少し。あと少しなんだから、お願い!
突然、周りの時間がゆっくりと流れ始めた。
マーブルケーキと他の馬たちも、ゆっくりと私に近づいている。
驚いた。もっと驚いたのは周囲を確認した時だ。右隣に、見覚えのある老婆がいる。4年ぶりの再会だ。
私の存在に気がつくと、ニヤりと笑って馬券を見せてくれた。全く同じ内容だった。
「次は一緒の馬券を買いたいね。……なんて話をしたね」
あっ、そうだ。でも、ごめんなさい。ちょっとズルして買っちゃった。
「なあに、大丈夫。明里はもう大丈夫だよ」
えっ? それはどういうこと?
「一人で生きるのが無理だって、もう気がついているからだよ」
……私は今、一人じゃないの?
「ほら、目の前にいるじゃないか」
指差す方に視線を向ける。
白馬が今、私と交わろうとしている──
いけーーーーーーーーーー!!!
お腹の底から一本の芯ができて、私の体を貫くかのような感覚だった。そして、その芯は体の中をより熱くさせた。
ほんと、久々に絶叫した気がする。
先頭の馬がゴールを通り過ぎた瞬間、安心して一気に力が抜けた。思わず座り込む。色々なものが溢れだしてきた。私自身の力でそれを止めることができない。どうすればいいんだろう。
「おーい、そこにいたのかー!」
なんだか呼ばれた気がしたので振り向くと、さっきのおじさんが呼んでいた。隣には緑色の服を着たおばさんがいる。職員っぽい。もう、別の意味で立ち上がれなくなってしまった。
◇
クーラーが効いた室内はやっぱり居心地がいい。ベンチに座りながらただただぼけーっと人が行き来する様子を見ていた。でも、鼓動が止まらない。さっきのレースからずーっと。真っ赤な血は間違いなく、私の体をぐるぐる巡っている。
財布は発券機の隅に置きっぱなしにしていた。気がついたおじさんが声をかけてくれたんだけど、急に逃げ出すもんだから……と。近くにいた職員のおばさんとずっとレース中探してくれて、どういう理由かわからないけれどヘタレ込んでいた私を発見したんだって。
私が未成年であるかどうかは、一言も指摘してくれなかった。
ずっと握りしめていた右手をパーにする。「がんばれ」と書かれた馬券はくしゃくしゃになっていた。当たったんだからいくらなんだろう? 気になる。でも、どうやってお金に替えるかがよくわからない……。
この馬券を買って、手に触れた瞬間から、ずっと透明になることができていない。さっきまで体に染み着いていた感覚は、どこかへ消えてしまった。
全てはあの白い馬のせいだ。あの白い馬のせいで、私にも色が付着してしまったんだ。
でも、なんでだろう。もう透明になれないことに、安心している私もいる。
発券機の前をうろうろしている人たちは、次第に小さな集団となって街頭テレビを眺めはじめた。せわしなくレースは続いている。
馬券を天にかざしながら、私は今なんで、この場所にいるんだろう? と考える。焦点が馬名に合っていった。すると、不思議なことに、紙切れが走り去っていった彼女の姿に見えてきた。思わず大きく息を飲む。落ち着いてきた鼓動と引き換えに、頭の中がだんだん白く染まっていった。
<了>