異教徒にとっても断食月(ラマザン)はつらい……
今日で1ヶ月続いたイスラームの断食月が終わり(国によって多少ずれるみたいですが)、明日はここの国でいうラマザン・ハイート(アラビア語だとイード・アル=フィトル)の祝日です。
私はムスリムではありませんので周りの現地の人たちの話を聞いたり様子を見たりできる範囲でしか分からないのですが、1ヶ月のあいだ日の出から日の入りまでは何も食べず何も飲まないのが断食ですが逆に言えば日の入りから日の出までは飲食できますので、特に夕方の日没後の食事はみんなで楽しむもののようです。
イスラムの暦は少しずつ動いていくようで、今年はヨーロッパの暦で言うと4月頭から5月頭が断食月になり、この時季は私のいるこの国ではもう暑い季節になりかかっていて、日中、水が飲めないのは大変かもしれないなと思いました。
ただ、おそらくムスリムの人たちには理解してもらえないと思いますが、断食月につらいのは断食を守っているムスリムだけではないということです。
異教徒の私はもちろん断食をしませんのでいつもどおり、日中にふつうに水やお茶を飲みお昼ご飯も食べるわけですが、周囲がそうしない中でそれをするわけですからかなり遠慮してしまいますし強い疎外感を感じます。「踏み絵を踏まされている」、そんな感じすらあります。
宗教にはいろいろな側面があると思いますが、ひとつに共同体の宗教という役割があると思います。ひとつの共同体で同じ宗教を信仰することで、皆が同じ考え方を持ち、同じルールにしたがい、同じ行動をすることになり、共同体生活がスムーズになります。その一方で、そこに異教徒がいた場合は疎外されます。異教徒としては改宗して同じ共同体に入ってしまうか、あるいは自分と同じ宗教の人と集まって独立した共同体を作るのが、ふつうの自己防衛方法だと思います。
なのに私はムスリムになることもなく、かといって別の共同体に入ることもなく、ここではごく少数派の日本人でしかも他の日本人の人たちとも没交渉という、やや引きこもりな暮らしをしています(仕事はします)ので、断食月には自分の身の置き方を問われているようで、つらいです。ムスリムの人たちのつらさは肉体的に日中、水を飲んだり食事ができないというだけで、精神的なつらさはありませんが、断食月に精神的に追い詰められるという点では異教徒も、あるいは異教徒こそつらいと言えます。
実は、ここで働き始めた当初は、国が世俗的な政策を強くとっていたために断食を守る人が少数で、異教徒としては不自由を感じることがありませんでした。逆に言えばそのときに断食を守っていた人たちは強靭な信仰を持っていたのだと思います。それが今はイスラームの信仰が復活してきていて、ある意味流行のようになっていますので、皆こぞって断食しています。こうなると、異教徒のほうが以前に断食を守っていた人たちのような試練に置かれていることになり、何かとても皮肉に思えてしまいます。