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生活保護日誌.92

(UnsplashClay Banksが撮影した写真を使用しました。Thank you! Clay.)

今その場に居るのであれば今成すことは限られているのでしょうね。文章書き衒った態度を取ってみても過ぎたるは猶及ばざるが如し。

どうも二足の草鞋です。

天気を当てにしていても「本当に涼しいのか(暑いのか)」なんて分からなくなるというか天気予報やら気温、「空から水が降ったらそれは雨である」だの定型的にその現象やらを信じていても思い通りにならないのであれば「空から水が降ったらそれは晴れである」と言葉という体裁を持たない意味不明な言葉を使うことによって、気候すらも文化すらも人あるいや自分の考え方すらも放り投げて、でも今ここに居ますからここにいることを以てして辛うじて生きているのであれば、「生きる」ことは手放さずに今から玄米でも炊いて体に燃料を投じて午前の時間をスキップ出来たらいいなと思う。

「頭がおかしい」は、そのおかしさを装備することで正常を保っている。社会的文脈に即してなくても、例えば、道を歩くにしても日中歩き回るよく分からない人は「あの人働いてないのかしら」と社会性のある人たちはそう言うのかもしれないと僕は思う。

でも僕は外を歩きたいから歩いている。食べ物を買いに行きたいから外出している。社会性のある人たちはその意味不明さをネタにしてその場の時間を潰すことができる。

社会性のある人はそれなりの身分を持っている。働いている人、主婦、男、女、子供、高齢者etc。別に僕が言っていることは正しくもなく単なる暇つぶしである。同じジャンルにいる人たち、社会不適合者。たとえ自分と同じ社会不適合者だとしてもその人と仲よくしようとは思わない。

僕は意図的に「仲良くしよう」とは思わない。巡る巡るしてたまたま出会った機会によってたまたま鉢合わせた者同士が結果的に「仲良くなった」だったらいいけれど、でもそれ以上同じ空間に居たら各々が各々の社会的役割としてでしかお互い関われなくなるとしたら、そうすることで僕にも社会的役割が積み重なって外を自由に歩けなくなるのだとしたら。

僕は誰とも仲良くしようとはせずただ動いて何らかの機会、縁を待つのみである。後はただその人の幸せを祈るだけです。祈るとしても、僕は特定の宗派なり政治団体、新興宗教団体に所属していませんが、つまりそういうことなのでしょう、宗教的なものがとても近いといいますか思想家の内田樹さんの影響を受けていて武道的なものが近いといいますか(内田樹さんの影響を受けていたとしても別に彼が言っていることが正しいわけじゃありませんし、彼と一緒になっても仲良くというか、お互いサッと距離を取ると思います)まあ何というか、僕は何らかの意図を含んで関わられるのが苦手でありまして自分勝手で、他人の顔に泥を平気で塗る、というのは語弊がありますが、人と瞬時に距離を取ったり体がぞわっとしたら問答無用でその場から離れたり本当は他人のそばによって「あれこれこういうことだから僕はこういう行動を取っています」と言えば誤解が晴れると思いますが、まあこげな文章を書いてよく分からない的を射ない自分語りばかりなので話を聞いてくれる人もいませんし、そもそも僕がそんなに話を聞くタイプじゃない、話を聞くにしても体を持ってしてただ相槌を打つ。

「本当に話を聞いてくれているのですか」と言われても、身体の熱量をもってして体の震えから来る情報と他人の社会的地位、情報に傷をつけずに論理的に解決策やら妥協案やらを返すこと。「話」一つとってもそれが共感なのか共振なのか、それとも本当にその人が困難から脱出したいかの論理を展開することなのか。

僕には無理です。

僕は正論さえあれば、正しいことを言いさえすればいいと思っていた時期があって今でも時折そうしたい気持ちもあるのですが「正論では汲みつくせない」存在も大切にしたい気持ちも芽生えた。それが、身体の感覚だったり良いこともあれば悪いこともあるの陰陽の連環だったりああ、こげな文章書いても金にも腹の足しにもならん、単なる暇潰しや。

僕はな(ちょっと喧嘩腰になってきちょるしゃーない)、「暇」っていう言葉が苦手やねん。引きこもっていた時に誰とは言わんけど「あんたは暇でいいよな。時間をちょうだいな、そんな暇だったら」的なことを言われたことがあって、その通りやな、仕事なり家事なり人のためになることをやっている人は時間が無くなって当たり前で、願うならば、時間を誰かに受け継がせることができたら時間がない人の時間が増えていっぱい時間がある人は誰かに時間を使ってもらって社会貢献ができる。

まあ、そうやな。ていうか今の僕は「時間」なんて存在しない生活。もちろん時計見たら時間が分かるし人との約束事に待ち合わせの時間を設定する時は時間と関わりあるけども、それは「時計」「時刻」やから、僕にとっての時間は、時計の黒の目盛りと目盛りの間の白い部分を時間と思っていて、「時」は一点で「時間」は「時」の「間」と書いて『時間』やから(何哲学者みたいなこと言うてんねん。別にええやろ)その空白の部分と人との待ち合わせや約束事に使うのは「時刻」やから、まあ面倒臭い人間というのはこうして文章を書いて誰でも見れるようにして各々が考えられる暇を与えること。どうしても、コミュニケーションするんやったら勝手な偏見だけども大手お笑い事務所から端を発した劣化版バラエティー番組のような会話をせなあかんから猿山のボスを筆頭にテレビは尺があってひな壇芸人やゲストがその範囲内で言葉紡いでいかんといけんから、どうしても「自分はこういうことを言いたい」っていう間だったり言葉遣いだったり、時には休憩挟んだりして他者にどう自分の考え方を伝えたらいいのか、また立つ、座る、歩くの基本動作から、またまた自分の領域(パーソナルスペースって言った方が分かりやすいかな)はどのくらいあって発声するためにはこう言った体の使い方をするからこれくらいの距離がいる、だったり息を整えて吐き出すから声が出るのであって「息を整える時間を要するために間をください」というのが本音や。

椅子だったり机があるところがデフォルトで、しかも椅子がぎゅうぎゅうで全然「人体」だの「体の動かし方」だの考慮された空間じゃない。

別にこげなことは専門家だったり先人が言った言葉を現代生きる僕がただなぞっただけだから「僕が初めて紡いだ概念」ちゃうし、でも僕が感じた色合いをもってして既知の出来事をさも第一発見者のごとく言いたい。本当なら誰かの言葉を引用しさえすれば人に思いを伝える時にものの数秒で分かるし、でも僕はその人が実際にこの世に存在していてその人がどんな人でどういう息遣いをしていてとか分からずに、歴史上の人物は文章なり映像でしか分からないから想像するしかないんやけども、「知識がいっぱいあれば偉い、頭がいい」というインテリじみた考えというか答えを知っているからすごい人なんやというのがな、どうしても苦手やねん。学歴コンプレックスかもしれへんしその場でもう終わった出来事に対して自信たっぷりに述べる人が大層苦手やねん。

でも「もう終わった出来事」、ここでいうのは歴史上のことだけどもう、言葉っていうのは面倒くさいことやな。「じゃあ「もう終わった出来事」として自然災害や争いが起きたところがあって、そこの人たちは自分の生活に何ら関わり合いはないけども放っておいてええんかいな」って言われたら、それがいややねん。同じ「もう終わった出来事」という言葉でも場所が変わったら意味が変わってくる。

戦争やら災害やら自らの居場所を無くして困っている人がいる。でも僕は自分を守ることで精いっぱいで、たとえ火事場の馬鹿力的なことを発動させてその場でたとえ人を救ったとしても、自分を端に端に追いやった結末は後ろ暗いというか、これも誰かが言っていて使い古されたたとえやけども、ライフセーバーが水難事故でおぼれた人を助ける時は、まずは自分の命を優先してそれから溺れた人を助ける。じゃないと人を助ける前に自分が沈んで共倒れや。

人のために何かをしたい。そういう気持ちもある。やってみないと分からへんし自分の思わぬところで出会いがあってよく分からへん結末になるかもしれへんけど、やっぱり僕は自分が助かりたい。「人のために何かをしたい」という優しさというものが本当に、優しさなのかや。罪悪感に駆られて、その罪悪感から逃げたいがために、目をつぶってその場を後にしたことを他人に見られることで「あの人は冷たい人や」と思われたくないがために、いいや、偽善でもええんやと思う。実際に自分の力で人を助けられたらその人が喜んでいたら、それは形上は目的が成されたということでいいことや。

でも思ったことと実際に行動できることは違う。インターネットでグーグルアースで海外を見れてもそこまでいくには時間がかかるしお金もかかるし画面で視れる景色は2次元でしかなくて3次元、人の考え方なり偶然起こった出来事なりが重なって4次元、5次元なり倍々に膨らむから、もう知るかよと思うけれども、だからこそやってみないと分からないし結局のところ自分が傷つかずして命を落とす危険性がないという状況では、何もできない。

生活保護受給者。これだけ見たら「なんや、社会的弱者かいな」と思う。「見たら」の話や。でも僕は毎日淡々に歩いてきた。自分にできることだけやってきた。こんなことキャンパスノートに書いたらいいだけやないか、なんや、かまってちゃんか?と言われても直接は言い返せない。だからこうして敵前逃亡するかのように、でも自分の時間を注いで金にも腹の足しにもならん、そうや僕はかまってちゃんや仕方ないやろ、一人で生活して寂しいんやから。じゃあ、人と関わればええやないか。その関わり方っていうのが、単に誰かがやったことをなぞって(具体的じゃない。でも抽象的でいい)これもまぁ偏見だけども劣化版バラエティーなり自分の感動からせり上がってきた言葉じゃない、社会的役割社会的地位によってでしか発言権がない、文章書いてよく分からへんなってきたけども、こうしてnoteに書いてもnoteさんのコンテンツとして肥しとしてただ働きさせられているっていう見方もできるし「じゃあ文句があるんなら肉なり焼くなり出るなり好きにどうぞ」と言われたらぐうの音も出えへんし、また自分でサイトを作ってブログでもしようかなと思う。

てな感じで、「生活保護家計簿.3」てきな意味合いで今週の家計簿というかお金の使い方をパッと書き記す。社協の金銭預かりサービスで今週分の一万円を受け取ったけども、早々に使ってでもこれはほぼ食費やらに使ったから、「お金いっぱい使いたかったら働けや」と言われても今は働きたくありません。若干「働かないとな」とは思う時もあって僕が歯の矯正やらインプラントやらした時に母親から借金したお金なり今のアパートに引っ越した時に借りたお金なりを返済しなきゃいけない、という罪悪感があって働いてお金を稼いで借金を返していかないとなと思っても、今の時期は大きな行動に出たくない。これから寒くなって熊やらウサギやらは冬眠の時期であまり動かない方がいいっていうか、てか季節ってどないやねん。春は暖かくなって頭がぼーっとしてお祭り騒ぎしたくなってハトやら猫やら発情して人間は理性があるからそこら辺ポッポ出来やせんし昔はそこら辺でポッポできるような寛容さがあったかもしれんけど今はスマートフォンてな銃があるから、ポッポできずとも余計なことはできない。

だから僕は社会的地位を持たん。世捨て人や。人一人なら食べればある程度は持つ。寿命は短いかもしれんけど長生きしても管に繋がれてまで生きたいんやろうか、ていうか長生きできるほどで何不自由なくっていうことはないけども富める人、余裕がある人(僕の偏見)っていうのはそれなりに悪いことをしとると思う(僕もまったく善人てなわけじゃない)

資本家なり裕福な人が自分の子供に自分の仕事を見せる時に、たとえその仕事が誇らしげに語れるようなものでも、人を物のように扱う。人一人一人尊厳あるものとして扱ったら時間がかかるしお金もかかるしコストもかかる。

囲いに、檻に入れられた人に向かって

「ねえねえお父さん(またはお母さん)、あの人苦しそうだよ。出してあげようよ」

と子供が言おうものなら

「いいや、あれは人じゃないんだよ。人に似ているけどね。だから苦しそうにしていても平気なのだよ」

と笑いながら父親然として威厳をもってして子供にそう問いかける。

「そうか、人じゃないんだ。だったら、多少無理させても平気なんだね」

と子供も親の姿を見て学習する。

という物語が浮かんできようものなら、僕は自分がもう世間とは遠い遠いところにいってしもうたんやなと、思った。もちろん、僕も鳥やら豚やら牛やら、野菜だとしても殺虫剤で虫やら微生物やらを殺める。だから、善人じゃないけども善人だと思いたいし、

「私は善人です。私はあなたたちに害のあるにんげんじゃありません」

と今までの人生の中でそう思っとったんかもしれへんから、ムラ社会・ルールになじめずに、もちろん学校にも馴染めなかった。いじめられたし「これっていじめじゃないでしょ、いじりだよ、からかいだよ本気にするなよ」と言われるものなら「僕は本当にいじめられているのだろうか、本当は「いじめている」彼彼女たちの方が正しいのではないのだろうか」と思い詰めて、本当は、自分自身がルールを破りクラスや組織のために自分の思いを封じ込めて(自分のすべての言葉を吐き出すのが正解とは言っていない)、この()かっこで内心を吐露する、訂正をするということもどこかの発達障害のインフルエンサーの人がしていることを真似しているだけで、僕は彼じゃないから単なる模倣です。いちいち言わないといけない説かないといけない、

「一人の人間にはこれだけの質量の思い、感情がある」

とわざわざ文章にして小難しい言葉を駆使して、でも言っていることは物の数行で言い表すことができて「なんでこんなに曲がりくどい言い方するんや、はっきり言えやはっきり」言われるものなら、その人が言っていることは正しいことやけども、自分にとっての正しさは、自分を守ろうとしてあくせく世間から遠く離れたところで動いた経験から出てくる言葉というものは、これだけ曲がりくどい言い回しになるんや。

貴方は時間がなかろう。だったら、僕の話なんて聞かんでええし、お金や、時間や、貴方の時間を十二分に注げる存在があったのだとしたらそりゃ「時間がない時間がない」って焦るんやろうけども僕も母親から時間を注いでもらってだからこそ自分生きられて自分の生命を維持できたから、「時間がない時間がない」っていう人の気持ちというか、そうでもして誰かに自分の時間を注いで他者を生きながらえさせることの尊さ、でもそういう人から見たら、自分の時間を自分にだけ注ぐ暇人のことを疎ましく思うことも今ならよく分かるというか、「分かる」ことは一生できなくても理解はできた。

でも、人やから孤独だと本能的に死の危険性というか警報音が鳴り響く。だから独りがいいといいながら、こうしてSNSに文章を書いてかまってちゃん繰り広げさせてもらっとる。本当なら「かまってちゃん」っていうのを人にいじってもらって「いじる」というのは遠回しの愛情表現というのも理解できるけど、いややねん。

言葉には意味よりも先に音が来る。意味は視覚、情報。音は距離、空間、視覚以外の言語化できない感覚。

たとえ信頼を込めて汚い言葉を投げかけられようものなら、その汚い言葉の音をもってして僕は全身が震え立つ。文脈、タイミング、相手の表情がたとえ害のないものだったとしても、僕はそこに少しでも「害が含まれるのではないのか」と身構える。

お猿さんのなのかもしれん。「人間」と定義できる存在じゃないかもしれん、僕という存在は。

でも、言語化できない自分の体を持ってして物事を判断する。

だから障害者でも、社会不適合者だとしても、孤立したとしても、僕は僕の身体の熱量をもってして言葉を紡ぎあげたい。

本当は自分の顔を晒したり、自分の体の動きをもってして表現すれば簡単に非言語的な命のほとばしりをバーチャルの世界でお届けできるかもしれんけど、そこまではようしきれへんから堪忍な。近所、学校の同級生に知られたくない臆病な部分は依然として今もまだあるから。

ご飯炊こうとしたけど文章書いていたらご飯炊けずじまいで、でも今キーボードから手を離すと集中力が切れてしまうから、続けます。

今の僕は引っ越しを検討しています。どうやら生活保護を受給していても、障害やら病気やらを持っている世帯主がその住居で病気に何らかの支障をきたす場合、お金が出るようです(僕はテキストを見るのが苦手なので、一気にその生活保護のルールなり規定なりを見るのはできないので歩きながら人と関わりながら頭をまとめていきたいので、今は詳しいことは分からない)

引っ越しを生活福祉課のケースワーカーの職員の人に相談しました。別に公務員だからといってその人たちのことを悪く言いたくありませんし、その人たちはその人たちの生活があって(他人のことをとやかく言うのはおこがましいですが、「他人にどう思われているのか」だったり「他人にどれくらい自分が害を及ぼしているのか」を悩み上げることが習い性の僕なので仕方がないです)、というか一介の公僕(言い方がぶっきらぼうですが)に持てる裁量なんてたかが知れている(知らへんけど)、そもそも制度を作る上の人、上には上がいて上の上の人が国民が暮らしやすい制度を作ってわざわざ足を運ばなくても、マイナンバーとか使いにくいシステムじゃなくて僕みたいに、僕みたいな障害者に(自分のことを「障害者」とは言いたくないです。でも、障害は社会が作り出したものだと思いますしその人がおかしいわけじゃない社会が不寛容だからこそ「障害」をもってして守ってもらっているから、僕は自分の意見を言うために自分のことを「障害者」と言います。認めたくないですけどね)、人と関わることに困難をきたす人も世の中にもいる、だからシステムが間に入って、社会的弱者を行政サービスにつなげやすくして少しでもたとえ贅沢はできなくとも命だけは助ける。

対面で関わることにどれだけの努力がいるか、死ぬ思いをするか。こちとらブルースリーの「死亡遊戯」超えてますよ。外から出た瞬間に、車やら人やら街の地政学に則った物の流れやらすべて感覚に入ってきて、それらを予測してベクトルが気配で分かるようになったというか自分の体をプログラミングして僕的には体にプログラミングする、条件付けすることが「宗教」ってことなのかなと思って歩くことだったり顔を洗ったりする体にアプローチする頭の切り替えの手法が「宗教儀礼」というか、まあ内田樹さんの著書に影響されてますけども、僕は、単なる生活保護受給者で何も社会的地位を持たない塵芥の吹けば無くなる天涯孤独な身ですけども、

自分の体を守るためには毎日あくせく否応なく動きました。

もう、気配で人の動きを予測します。予測できなかったら諦めます。諦めてその場からサッと逃げます。見るからにしてアンドロイドっていうかロボットみたいなものです。

相手の判断や逡巡の隙を見逃さない。自分が強いと思われたいと思う時もありますが、僕は逃げることしかできません。ジムで体を鍛えて図体でかくしてアクロバットなりボクシングなり格闘技なりの人はそれはそれで魅力のある人だと思いますが、僕はそもそも人に近付かない。人がいる気配を感じるものなら(たとえそれが勘違いでもあろうと逃げる)。

危険が発生する前に、いいや外に出る前に自分の脳裏に浮かぶイメージでもう判断する。嫌なイメージだったら外に出ない、たとえ良いイメージだとしても、良いことの後には必ず嫌なことがあるはずだと慎重になる。

そんな生活だったら、アパートの隣人の音すらも敏感になる。本当我ながらにモンスター隣人ですよ(でもこれが僕の生き方です。人に強要はしません。その場から立ち去ります)

隣人の洗濯機の音が障害のせいにしたらいけませんが、身体を突き刺すようにまた船酔いにも似た酩酊感を持って体が熱くなる、自分の体が熱いのか寒いのかが分からなくなる(これは言い過ぎですけども)

「引っ越しをしたいです」と言った。そしたら、生活福祉課のケースワーカーの人が「病院から意見書をもらってきてください」と言った。彼らは単に公僕として上からの指示に従って行動している。

ああ、分かったよ、意見書をもらいに行けばいいんだね。

意見書もらいのクエストが始まる。病院に行くと「薬を飲んでください」と言う。「まず今できることからしましょう。薬を飲んでから考えましょう」なり「引っ越したとしても洗濯機の音は引っ越し先でも変わらないかもしれませんよ」と言う、その通りだ。

彼らは正しいことを言っている。でも「医師」であるその人が言っていて医師たるものは「医療」を主としてその膨大な医療のアーカイブにアクセスできる人、法律によって医療人としての権限を与えられている人であって、「医師」という記号を取り去ったその人自身が偉くもなんともない。

僕はたとえ誰かが正しいことを言っていたとしても、自分がこれまで生きてきた体験は僕自身が一番詳しい。でも独りよがりで考えることは危ないし知識なり情報なり他人の意見を聞き入れることもしたい。障害ゆえにこだわって固執して自分の考えに袋小路にはまることは多々あるけども。

僕はたとえ誰かが正しいことを言っていたとしても、正しさじゃなく僕の価値観を主としたい。鬼滅の刃の煉獄さんじゃないけども、正しさがあふれだす情報社会において、医者や政治家や親やコメンテーターや専門家や神秘家etcの「上から物を言う人だから」というので無条件に肯定するのは怖いから、僕の身体も食物からできていて言ってみれば自然からの借り物だから、僕の考えすらも分からないしだからと言って体が傷つくと痛いし、痛いのは嫌だしで「正解はないけれど生きている体験をもってして直感をもってして選び取ることに少なからず僕は納得できる」という価値観を、これからまた病院なり市役所なりはたまた当事者会なり行って、少しずつ少しずつ動きながら妥協できる納得できる結末へと持って行けたら嬉しいと思う。

薬は飲みたくありません。なぜなら、僕の感覚があやふやになって生きている実感がなくなるから。「感覚」を薬で抑えることで社会生活を安定的に過ごすことは理にかなっている。僕が持っている鋭すぎる感覚、感受性ゆえに社会で困難を抱えて暮らしている。薬を飲むことは至極ごもっとも。

でも、僕は薬は飲みたくありません。僕が持っている感覚は、僕が持っている本来の体を薬で縛り付けるのは(言い方が極端ですが)、身体の中にある「内なる自分」(もう宗教家的な神秘家的なアブナイ人です)に対する冒涜だ。もちろん、社会で生きていくにあたってルールは守らないといけないし本能的にあれこれ自分の思い通りにすることはできない。

でも、お茶を飲む時の体の透き通り、食事をする時も箸を持ってその箸が腕の延長、指と繋がったようにかかる感覚は「食事を食べるというゲーム」をしているようで、日常生活、日常動作そのもの、お金がかからずとも日々行っている何気ない行動がすべて遊びとなり生きている実感を起点として、僕は自分の人生を生きている、おそらく「自分」というものはないのであろうが動いているその一瞬一瞬はまぎれもなく生きている、「生きている」と文章や言葉で表すのではなく非言語的な体の動きとして今そこにある至近距離で感ずることができる「今」を手にしている。

買い物に行くのにも一苦労。外に出たらそのつど死ぬ思いをしています。でも歩くときの一歩一歩の感触や風の風合い、自転車の時もハンドルのなめらかさだったりブレーキをするにしても音を立てずにシュルルルとタコメーターを細かく刻んで速度を落とすような感覚は、自転車に乗りながらまるでレーサーになった気分。

それは薬で体を鈍磨させたら味わえない感覚です。

もちろん僕にも至らないことはあります。横断歩道がない信号もない道路を横切ることもあります。その時に遠くに車が人が自転車がいるかどうか、道路の形状は線は看板は何車線でどこからが反対車線になるのかを瞬時に判断して渡り切る。危ないです。でも、歩道が狭い、自転車レーンが狭いあるところでは自転車レーンがない所もある。

もちろん日本は狭いですから、すでに立っている建物のことを考慮したら道路を広くする自転車レーンを広くするにも限りがある。

でも、外を歩くにしても息切れがする。「外を歩きたくなければ宅配なりで食べ物なり生活用品なりをネットで買ったらいいじゃないか」と言われても、プライベートの空間に人が訪れる事、本当自分でも文章にしたら「厄介な人間」とほとほと思いますが、その自分が厄介な人間であることを自覚して、そこから自分にできることを毎日生活体験を通して少しずつ少しずつ増やしていくこと身に着けていくこと習慣にしていくこと。

厄介な人間だからこそ、使い古された言葉ですが、人を変えるのではなく自分を変える事。人を助けるのではなく、自分を自分で助けてその居心地の良いたたずまいから僕に関わった人が非言語的な刺激をもってして人間の本能、原始的な太古の記憶(もうヤバい人です僕は)を呼び覚ますきっかけとして作用して、

「僕は僕にできることをします。だから、貴方はあなたにできることを自分で考えて行動なさってください」

と声なき行動で体現するしかできないし、僕は自分の発言や社会的役割で人が変わるなんて思ってもいないし、そんなに偉い人になりたくないし(この言葉たちが本当は真逆で本音を言うと真逆のことを思いたがっているのかもしれない)

人々が肌の感覚だったり耳の聞こえやすさだったり視覚以外の感覚によって暮らしていた時代があったとしたら、それが宗教観なり自然観なり生命観なりが補完的に人々の生活を支えていたのだとしたら。

それが昔の日本の人々だったとしたら。僕はどえらいところに生まれてきてしまったのだなと思いますし、発達障害、神経発達症、この広汎性発達障害、自閉症的な人々は、みな、能力者で超能力者でテレパシー使いだった。

自分の感覚を依り代にして他人を見る。自分が痛いと思えば他人も痛いであろう。そうでなければ謙虚に身を引いて諦める。

その行いがどんどん生活をするによって研ぎ澄まされて、研ぎ澄まされるってことは耐えなければいけないってことですけども、それは人知を超えたものを想像によって補完して、その想像力をもってして浮かんで来た景色をもとに明日のことを考える。吉凶を占う。それがだめなら諦める。頭で諦めるのではなく「身体が無理だ」と思ったらそれが諦めたということ。

僕は四六時中散歩をしていた時期がありました。今もたまにそうしたくなる時があります。限界を超えるだったり鍛錬するだったり脳みそ筋肉マッチョなこととは一線を画したいですが、歩いて疲れてダメなら帰る。たとえ疲れても歩いてしまえば帰らないといけない。行ってみよう、でも、帰らないとをセットでしないと自分の身を自分で守れたことにはならないし、自分の身分相応な体の動かし方、身体からつながる考え方(頭)を、僕は散歩によって学んでいったのだなと今思えばそう感じます。

無言でも通じ合えた時代がある。「黙って『察せよ』と思っていそうでむかつく」と言われるものなら、それもあるのだけども本当に体が良く響くのであれば相手の所作、息遣いが共振して浮かび上がる像がある(と僕は思っている)

この力は阻害してはいけない。薬によって阻害してはいけない。僕は薬を飲みたくない。駄々をこねても飲みたくない。

僕のような感覚過敏の人間の生きやすい世界は前時代的なお侍さんがいる世界だと思います。自然豊かで着物というか体に受け付けない化繊より木綿や絹なりの自然由来の素材を用いた着物。今はどこもコンクリートで今僕が住んでいる場所もコンクリートを打ち付けた狭い狭いワンルーム。生活保護だから仕方がありません。でもコンクリートじゃなくて傍に自然があるところの方が体にとっては居心地の良い環境。

そういった前時代的な人間、お猿さんのような本能的な人間。

もちろん当時の世の中は法もへったくれもなく今より危険な世の中。僕なんてものの数秒であの世行き。異世界転生はものがたりだからこそそれでいいんです。まあ、僕は逆異世界転生みたいなもので武士が現代にタイムスリップしてきたみたいですが(道端を歩いていると「武士や」って学生に言われたことがあります。勘違いかもしれませんが)

てな冗談が出たくらいなので今日はこの辺にしときます。

薬が飲みたくないこと。病院に行きました。病院でこのようなことがありました。そう再度生活福祉課に行って担当ケースワーカーに話をすること。「なぜ薬を飲みたくないか」を病院の心理士のカウンセリングで考えを深めていくこと、あとこれは反省しなきゃいけないことですが心理士のカウンセリングの後に必ず医者の診察をしないといけない病院のルールというか法律で決まっているのでしょうが、僕は飲みたくもない薬を処方される前に医者に対して「薬は飲みたくないので処方は結構です」と意思表示するべきでした。生活保護は市民の税金から成り立つもので、捨てる薬はそのまま税金をどぶに捨てることです。僕にとっては痛くもかゆくもないですが、捨てられる税金のその捨てた手が自分であることに良心の呵責、「あって当たり前だ」という精神を持つのはその癖によって生活を営むことは僕の良心に反する。だからと言って僕は完全たる善人じゃないし善人と思われたいしこのくだりは少々うっとうしくもなって、今度からは「薬は要りません」と意思表示をする。

でも薬に頼らないといけない時が来るのかもしれない。それまでは生活療法的なものとして、散歩をしたり運動をしたり、食事を気を付けたり早寝早起きをして、またこうして文章をつくったり趣味たる創作を通じて(本当は自分がなすことに「趣味」という言葉を使いたくありません。真剣にやっていますから)、自閉症側の人間なのでハッキリ物を言えない気質があるので自分の溜まった思いを昇華することで、何とか今だけでいいので乗り切れられたらと思います。

これからご飯を炊いて昼食にします。

では、お疲れさまでした。失礼します。





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