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生活保護日誌.95

快活クラブに流れる音楽を聴くとまるでこの世は夢も減ったくれもなく、死の間際、人生の終わり、終焉を温かい目で送り迎えてくれるそんな天使の歌声のごとく低調でゆっくりでやさしい声のようで、上り始める階段はゆっくりと自らの首を絞める断頭台に上がるかのようにでもそのわっかに自ら進んで首をささげるのが弱者たるもので、ファストフードなりファストファッションなり「ファスト」と名の付くサービスは、そのようなサービスにしか手を伸ばせない自分がファストで、使いつぶされてもいい既製品で、製品に包まれる紙やらプラスチックは物を運ぶために製品に傷がつかないために存在しているもので「物を運ぶ」という用を成して役目を終えたのならごみとなる。弱者たるものは自ら「ごみ」になることを進んで望んでいる。そう捉えることができるのであればこうして快活クラブなぞ一人の空間でいられるネットカフェ一つとってしてもそもそも友人なり恋人なり親しい存在が傍らにいればお金を出さずとも、というかそもそも人とのつながりを「お金」という言葉をもってして言い表す自分が何とも薄情だなと瞬時に思い直そうとするのだが、お金を持っていないのだから仕方がない。生活保護だから仕方がない。自分で選んだ人生なのだから仕方がない。そうして今ある境遇に不安や不満を持ちつつも何とか生きていけることによって日々「考えないようにしていること」がなんだかもったいないような気がして、でもこうして言葉を並べ立てたとしても掲示板に張り付けられた一片の紙に、誰が足を止めてみてくれようか。自分すらも他人の叫びに耳を傾けて聞こうとしないくせに、他者から発せられるメッセージを見て見ぬふりして本当は自分の都合を押してでも相手に身を砕くことによって信頼を勝ち得ることができて、「信頼を勝ち得ることができる」という言葉一つとってしても僕には損得で人を見ているのだなあと自動筆記のたまものであるけれどもこうして文章にして辛うじて本音みたいな一片の言葉を書きなぐっても直接言葉を発することから逃げているからこそ今の状況、この快活クラブでの自慰的書き連ねによってでしか自らのくぐもった感情を吐き出すことができない臆病者は、弱者から逃げることができずに、また自らの妄想にもまれてもまれて鏡を見ることすらも億劫になって傍らにしつらえられた長鏡に映る自分を見ると、自宅で見る姿と全く別人で「これが社会から見た自分の姿なのだな」とまたもや目を伏せてディスプレイに積みあがっていく自分にとって都合の良い言葉を、自分の身勝手さ汚さを分かってくれる幽霊の存在を欲してでもそれは承認欲求が成す寂しい人間の感情でしかなくて、想像の中にいる他人なぞ自分の醜い感情を慰めるだけの、自らの醜さを再確認する行動に他ならない。

「弱者」は他人ごとではなく自分事として捉えると、さすがに、身に堪える。調子の良い日だと現実を見なくてもどうにかしていられるが今は大層調子がよろしくない。誰もが調子が良くない時はあるのだけども、寒さが身に沁み、一人が身に沁み、自分勝手に生きてきた照明がこの狭い霊安室のような一畳分のスペースでしかないこの部屋に、逃げてきた。

寒かったら食べ物がいる。寒くても動かなければ代謝が悪くなって血流が滞って眠ることができない立ち上がることもできないなにより、布団から出ることが億劫である、たとえ布団から出られたとしてもそこにはせまい6畳間の空間しかなくて、隣人の気配に必要以上にびくびくする臆病者は壁際に物を置くことをとんと嫌う。ベッドを置ければいいのだがそれすらもしない。冬になれば万年床が生まれて、唯一の暖房器具たるエアコンの熱風が部屋を生ぬるくするものだからキノコが生えるなんて漫画でしか見たことがないがキノコがじゃないにせよ布団の下にカビが生えそうで気が気じゃない。

布団に入ることで意識を手放すことができる。その暖かさは誤解されそうなものいいで大変公然できるようなものではないが母親の子宮の中にいるようなものではないかと思うと、やっとの思いで布団から這い出たとしても今度は布団を畳まなければならない、窓を開けて空気の入れ替えをしなきゃいけない、布団から出たら今度は外出して部屋から出なければならないそうしなければ生きていけないというか本当は助けを求めて自分の自由を犠牲にすることで他者の協力を得ることができて、「他者」という言葉を使うと「お金」なり「信頼を勝ち得る」なり損得で考えてしまう僕というのは、つくづく冷たい人間なのだなとこのような過度な卑屈はナルシシズムに他ならず見ていて大変醜いもの、見ていて恥ずかしくなるもの何なら見たくもない。そんな見たくもない言葉の積み重ねを受け入れてくれる、というか言葉という体をもってして「受け入れてくれている」と感じる、それが自分にとって都合の良い言葉ばかりで傷つきたくないがために突き放す言い訳めいた言葉しか吐くことができなければそうすることでしか自らの思いをかろうじてSNSというサービス、インターネットを利用してディスプレイの向こうにいる人、そのような人々は脳内に潜む亡霊でしかないけれど(現に今ディスプレイの向こうにあるのは壁とPCのごちゃついた配線でしかないのだから)、愚痴を吐くにしてもくぐもった感情を吐き出すにしてもSNSの管理運営する会社が存在し、その会社自らが創作せずともユーザーの作品、記事をもってして利益を得ることができるのであればたとえユーザーの一人たる人間として無料でSNSを利用できたとしてその快適さや言葉を向かい入れてくれる「無料」という優しさを享受できたとしても、このケンモメン的感情はどうしても拭うことができない。我ながらにして大変生きにくい人間だろう。

習い事の一環として太極拳教室に行った時の話である。精神科病院、生活保護関連で市役所、あとは食べ物を買うために近所の店に入ることが社会に触れる機会でありでもそれはお客様という立場として国民としてでしかの扱いであり、目の前にいる人は人の皮を被った組織の一部なのである。組織に入れば人間関係が社会的立場がその者の体であり、肉体としての体とは別の扱いなのであれば社会と個人の扱い方は全くの別物であってその両方をその場の状況で取り回すのはASDである者にとっては大変困難を極める。この発達障害(神経発達症)たりうる立場だとしても「発達障害とは何なのか」と突き詰めて考えているわけでもなくYouTuberなり自己啓発者なりの立場に立って社会に赴くこともできず単なる免罪符として「私は障害者です」と言ったとしてもこの日本社会において障害者を出そうものなら腫物扱いされ、というか存在として認知されていないのだとして、社会的立場を免除してもらう人間関係のあれこれを省いて自由になるその「自由」というものは聞こえがいいものだが、こうして冬の寒さで逐一精神的に困窮極まり、独り言も自由に動くこともできないほどの囚われを相手にするためにインターネットカフェに身を投じたとしても、そこにも人の物音、換気扇の音がひっきりなしに生じて今まさにディスプレイを見ながら文章を打っているんだがそのディスプレイの明るさにも頭が痛くなってきた。調子が悪ければ運動なり家事なり食べ物を買ってくるなりしてまた食べ物でおなかを満たすなどして切り替えるのだが、今の状況を言えばだんだんと動けなくなってきてこの「動けなさ」というものは、今は体が自由に動く年齢(子供から見て僕は十分にお〇さんでしょうが、いまだに大人になり切れない僕はその「お〇さん」の言葉一つとってしても傷つく大変面倒くさい人間です)だけども、体が自由に動けない年齢になると今現に感じているこの情緒不安定さ身動きのとれなさが日常茶飯事で、それに加えて誰にも相手にされなくなった老いた姿では夢を見るにしても「イタイ人」と認知されて、そうして子供から大人になり切れない人間は段々と狂っていき、でもその狂い咲いたおかしさをもってして自分の世界に閉じこもることでかろうじて生きていけるのだとしたらおかしさも自分を守る盾であり、また大人になるということ誰かを、何かを守る立場になるということは、いやそもそも足場をつくって地に根を張るという状態は社会的立場を作るというのは敵を作ることに等しい。そんなもの、小学生でも中学生でも高校生でも分かることでしょう。30代になってから気付いた僕は本当に障害を持っているのだなと思う。

そんな当たり前のことを言語化します。そのための機会をください。

家族という立場をもって誰かを扶養する者、恋人を持つ者、愛する異性を持つ者(今はトランスジェンダーという言葉もありますから各々が自由に書き足して結構です)、守るべきものを持つということ。

(ここから意味不明な言葉になりますのでご承知の上お読みください)

養うにはお金がいる。お金がなくとも社会的立場にいなければ村八分になる。世間体、とりわけ日本だけの話でしょうけどもアメリカなり海外では文化や宗教が異なって話が変わっていくでしょうけどもまあ日本的なローカルルールがありますからこれと言って言い表せませんが、女性というのは納涼が発達してまあ社会的立場を重んじるというかそういった生き物だととらえている僕は耳年よりも異性とのかかわりも少ないからこその本なり動画なりで語られた言葉を聞きかじっただけですけども、まあそんなことはいいや。異質を排除することはご存じというか意味不明だったり何なら僕みたいな障碍者だったり、別にこの中で、僕は今インターネットカフェで一人孤独でキーボードを打っているだけですので頭の中に人がいるでしょうけどもそれは妄想でしかなくてこの場においては一人でしかいない。でもこの妄想は自らが作ったものであり相手のことをわからないという面においては意味不明な僕がいるからこそ相手も意味不明な存在でしかとらえることができなくて、だからこそ自分の恐怖を基にしたネガティブな思い込みによって人々を作り上げている。だからこそ外にも出られなくなり、太極拳教室のことはまだ書いていませんでしたね。太極拳教室は発達障害者当事者の買いを主催する女性の方の縁で言っています。当事者会だったら自らの発達障害など事情を理解してくれている下地がありますから「自分は発達障害です」と言葉を発することができてでも、太極拳教室はそういった事情を知る人のないいわゆる健常者の方がいる空間です。僕は生活保護という身で社会といっても医療なり福祉なり市役所亜也そういった障碍者関連でしか人と付き合っていません。だから健常者目線でその場に参加するといいましょうか。そういったことをここ何年間もしてきてなかったのであります。障碍者なりとりわけ精神障碍者は偏見がものすごいというかそれは僕が直接検証したわけでもなく単なる自分の思い込みに過ぎないのですけどもかろうじて僕の世界からいうのであればそりゃ「集団ストーカー」なりまあそういった人は統合失調症ということばをもってして医療に通じていればそれはそれで安心というか「そういった人」なり「安心というか」なりの言葉が自分の中に出てくるものなら自分の中でも障碍者に対する偏見があるということをもってして少なからず社会にいる人には障碍者に対する偏見が合うと思います。

調子が悪い、機嫌が悪い、意味不明な言動を公然とする人、この記事すらも見ていて感じの良いものでもなくこうしてインターネットカフェに入ること自体大げさな話で、本当は家でのんびりしたいでも隣人の気配が気になる、隣人がいるにせよいないにせよ「自分以外の存在」に対してびくびくしている。音を感じ取るという面でりんじんがいるにせよいないにせよ、そもそも隣人が隣にいないのかもしれない本来聞こえるはずのない音が聞こえていてそれを僕が聞いているのかもしれない、たとえ「隣人の音が聞こえていました」と言っても立証してくれる人がいないのだからそれは単なる妄想なのかもしれない。

もう病院に行けという案件です。でも最近は陰謀論が書かれているSNSをよく目にします。動けなくなるとつい脳内報酬系を刺激する読み物にふけってしまい自分にとって都合の良い言葉ばかり集めてしまいます。「ワクチン」だの「添加物」だの「社会保険料の値上がり」だの「裏金」だの僕の関心はもっぱら国に対する恨みつらみ。

僕の父親は行商の仕事をしていました。石破で仕入れてきた野菜や果物、魚をトラックに積み込んでは離島に行って買い物難民たる島に住んでいる人に買い物の機会を提供することが仕事でした。今はコープなりインターネットでの買い物で宅配の人が来たりなど父の仕事は続かなくなりました。でもこれから来る南海トラフ地震なり首都直下地震なりきたる自然災害においては、こうして地域に密着した個人事業主の力が頼りなのだと思います。便利さを享受することによってインターネットで注文したら望むものが手に入る便利な社会ですが未曽有の事態に陥れば、この便利な社会になり切ったら危険になるのは自分自身。というかまあ、そういった脅威があるからこそその悪に酔うことができる。政治が悪い、世の中が悪い、親が悪いなど他責施行に酔うことによって自分が正しいのだと自分が生きている存在があるのだと思うことができる。

今はお米の値段が上がったり物価が上がって社会保険料や税金が、僕が持っている偏った微々たる政治的知識なんでしょうけども、今の僕の思想たるものはこうしたものなのでしょうけども、この思想すらも誰かの受け入りでありそこには僕が存在しない。でも生きるためには食べなければならない、世の中にあふれる便利さは低賃金で働いている労働者で担われて、そんな脆弱な上でしかれている便利なシステムが地震なぞ未曾有な事態でいとも簡単に滅ぼされてしまう。という考えが絶対なるものだと思い込まされてしまうほどSNSで自分勝手に吐き捨てられた便所の落書きをもってして、妄想に取り囲まれてしまっている。

恋人なり家族なりをもってたとえ低賃金でも働いて、今となりにカップルの声が聞こえている。申し訳ないが僕も悪に徹させてもらおう。こうしてネットカフェでいちゃこらすることによってオキシトシンパワーでこの世のなにもかもどうでもよくする、僕がこうして記事を書くこともある意味では欲求不満を解消することですから受けて立ちましょう。

好きな異性と狭い空間でイチャコラする。そうすることで他者のぬくもりを得ながら別の空間に入ることができる。社会がどうであれ自分たちだけが幸せだったらいいのだまあきれいごとですけども、女性というものは生理的周期があり僕は女性になったわけじゃありませんから整理というのは人を不安定にさせるもの、また生殖可能年齢の女性であるのであれば周りにいる異性に性的な目で見られ、性的な目で見られなくても社会的立場を持たない女性は寡婦とされて別に女性じゃなくても社会的立場を持たなければ村八分にされる。村八分という単語がよく出ますが、世間体が絶対的ルールということになり日本の常識は世界の非常識といいましょうが偉い人の舞ルールが絶対的なものとなり日本は島国ですから、逃げられない。逃げられないし土地が狭い。道路を出るにしても歩道があり車道があり自転車道がありという形で分類されずにいっしょくたに道路があって、立場が全く異なる運転者、自転車、歩行者それぞれの信頼が頼りである。

話がまとまらないでもこのまとまらなさをもってしてこの空間を陣取ることができる。隣の声が止んだ、これから隣はいちゃこら世界をもってしてこの世から抜け出ることができている。どんどんという音が隣からする。僕はカチカチという音をもってして自分の中にくぐもったものを吐き出すこの没頭という別種の異空間転送装置をもってして、隣のカップルとシンフォニーを奏でさせてもらう。受けて立とうじゃないか。

話は戻る。僕の父親は行商をしていて今は林業をしている。雇われている立場だ。長男が結婚したことをもってして相手の家族に迷惑をかけないがために雇われる状況に入ったのではないかと。外部の圧力がなければ重い腰を上げることができないという面では甚だ苛立ちを感じえないが、僕も性格からして父親と同じようなものであり定職に就かず働き盛りの年齢なのにこうしてネットカフェにきて金にもならない文章をシコシコ、くぅー、隣のカップルとシンクロしているのであれば、文章しこしこという僕と、しこしこされているカップルの男のほう、ちくしょーうらやましいぜ。おなじしこしこでも僕も好きな異性にしこしこされたいぜ。もう頭がおかしいぜまったく。

話をまた戻そう。立正座の状態で文章にあたる。そういった離島で買い物難民を助けるという単純労働ではあるが未曽有の事態に直面したら、物流が滞るでしょうから、個人のほうがフットワークが軽い。農業もしかり。日本の職業自給率は36%ほど。体を構成しているのはほぼ外国の食べ物であり「外国人か」って突っ込みたくなる、自分の体に向かって。未曽有の事態になれば(どれだけ未曾有の事態を連発してんねん)食べることも事欠く状態になる。第一次産業を守ってくれない国、現場のことはわからないけどもSNSでこりかたまった我が陰謀論、くうー今は隣の部屋が静寂をきわめてお互いの体をむさぼりあっている最中で集中しているのか。陰毛を重ね合わせて陰毛論ってか。ちくしょう。しかめっつらになってしまうぜ。このネットカフェでこの不安定の状況を何とかしたいがために文章を書いている僕は、隣で陰毛論繰り広げているカップルが僕のこの没頭たる世界とシンクロするために、そのカップルの一つの作品が永遠なるものになるための当て馬にされたってわけか、ちくしょう。

話をまた戻そう。食べるために必要な農業だったり父親のような卸売りの個人事業主を助けろっていうわけですよ。でも、国は助けてくれない。いや、その助けてくれないという思い込みをもってして助けてくれないから僕は生活保護に甘んじてもいいというそういう言い訳にしているのかもしれない。

僕みたいな人間は不器用な人間です。社会的立場、自らの存在が仕事であり、黙っていても体を使って仕事をする、きこりなり、飛脚なり、職人なりそういった不器用な人間でも社会的立場があった。そうしてお金をもらえたりまたはお野菜など代わりにもらったりして、そのたち働きをもってして今の情報社会の中でコミュニケーションが主流の口がうまい人じゃなくても、人に認められた。少なくてもかけがえのない人間として社会に認められていた。昔は昔で大変なことがあったと思うけれども、僕は自然が恋しい。というか、神社というか神道というか「お祭り」というのは神社で行われるというか「燃えよ剣」という作品を漫画版を一話で見たのだけども、お祭りの後に乱交というか、大学生だったらパーティーをしてそのあとに狭い空間で男女が雑魚寝になってイチャコラするなんていうことを僕は空想上の出来事としてでしか(まあ大学生だったとしても学校に通うだけだったし)知らない。でも、そうして同じ空間に居続けられるというか、そういった神道的というか養老孟子さんの言葉を借りたら「あそこの田んぼは将来の君だよ」ということで体が自然の借りものであるということ。自然の借り物だからこそ「自分」という言葉にとらわれることなく、それが悠久なる、この肉体はその肉体の死をもってして終わりを迎えるのだけどもその肉体も煙になってウジ虫に食われて、今は火葬だから跡形もないか、でも分子の粒粒となって流転することができる。不安というものは「死」が怖いということ。そういう市に対する囚われがあるからこそ損したくない、痛い思いをしたくない、いつまでも若くありたい、老いが怖いなぞ、そういった不安をもとにビジネスが成り立ち、こうして暇だからこそネットカフェで一人ぼちぼちと文章を書くことに興じる僕ですけども、これも言葉にならない感情、思いがあるという前提で、過度に異性を恐れる、同性もしかり(群れで放つ野卑た乾いたヒッヒという声がとてつもなくぞくっとする。でもあれは、群れの中での空気の循環を滞らせたくないがためのその人の努力なのであるのだとしたら)。僕を見たらぞくっとする人もいることでしょう。一人で行動していますから。最近驚きました。一人で食事をしている人を見るとイライラするという人の文章をSNSで見ました。でも、僕と異なる価値観を持つ人もいるのでしょう。みんな違ってみんないい。知ったこっちゃない。お互い、生きていこうや。ストリーマーのたぬかなさんの切り抜き動画をちらっと見ました。発達障碍者の人を話題に取り上げていましたが、話が滞ること、女性から嫌われたら「あの人ないわー」と思われたらそこで終わり。僕は自分語りが100%です。自分語りオンリーです。「傾聴に徹せよ」と彼女はそう論じてましたが、僕が傾聴しても相手は僕の無言に耐えられるでしょうか。私の相手をしているの、私は一人だけでしゃべっていない?と不安にさせるに違いありません。というのも僕の勝手の思い込みであり生殖可能年齢たる青臭いチー牛ののたまいごとにすぎませんが、人間関係だったり彼女をつくるだったり他人とかかわることに世の中の人がとても努力していること、そんな努力をしていたらそりゃ、国のことに関心が昇りませんわなあ。

僕は太極拳教室で回りが異性ばかりといっても、生殖年齢をとうに過ぎた荒波と生理の波を乗り越え切った女傑ばかりです。僕一人が男。「あら若い男性。その若いを吸い取ってしまうかもしれないわ」と、それはその女性がその年齢でその立場で物事を言ったに過ぎない、姿かたちが変わったとしても、立場は変わったとしても「自分」というものは変わらない。その役割を演じているだけだと葬送のフリーレンの生臭坊主メガネの男が難民孤児たる女の子について語るときに(たしか4巻)言っていました。その太極拳教室で僕に冗談を言った女性も、ぷりぷりの生殖可能年齢たるその女性も、目の前にいる老練卓越とした女傑も同じだということ。自分というものがないからこそ社会的立場でものをいうことがその人であり、本当に僕はその人に精気を吸い取られているのかもしれません。太極拳には、素人の解釈ですが「気」というものがあります。気を遣う、気配り、気を張る、気付く、気を張り巡らせる、空気、気兼ね、気の置けない、気を付けるなど、気という言葉一つとってしても様々です。言葉というもので体を動かすことができるのだとしたら、「気がある」だったり「気の合う」だったりもあったなあ別にいいか、「気」が存在するというのは胡散臭い話です。「カルトか」と誤解されてしまうのも請け合いです。でも人は五感があり、脳裏を結ぶアイデアめいたもの、共感覚など六感もあるでしょうが、目に見えるものと見えないものがある。目に見えるは視覚、情報、情報は脳で処理なされる。目に見えないものは視覚以外のもの、触覚、味覚、聴覚、あー今うっすら自分の頭の皮脂のにおいが鼻をかすめてきた、嗅覚。そうした目に見えるものは手に触れることのできないもの、まあーこれが哲学でいう実存主義やらなんちゃらなんでしょうけども、学者じゃないのでワカリマセン。学者のように偉ぶりたいですが僕は偉ぶりたいだけの学者じゃない弱者です(やかましいわ)見えないものは実体を帯びている。だから、気を練るということは自分の肉体の感覚を大切にするということ、自分の命を大切にするということ、でも自分の肉体を大切にするということは自分勝手になるということ、他人の都合で物事を見るのは組織や共同幻想や物語や共感だったりして社会的立場なり存在しないものをよりしろにしないといけませんから。まあ、いちゃこらしたら異性とつながりあえて他者と肉体を通して自分の体に取り込むことができる。僕はヘテロセクシャルなので同性とはNG。でも同性は争いです戦争です。戦争をしないから平和的解決として協力したりでももとは争いの種をお互い持っているわけですから人にかしずくというものをもってして、仕事でいえば上司と部下がいて会社と労働者がいてそうして資源のある者に従うことによって果実を得ることができて、その果実をためたり友好的に活用して今度はのれん分けのようにして、今度は自分が組織をすべる立場になる。組織をすべる立場になれば自由が利きません。僕のようにほっつき歩く、ぼろきて近所をぶらぶら歩くことなぞできやしないでしょう。一社会人がそうするとたちまち世間での格好の噂の種になる、信用が失墜するでしょう。だから自分を守るために働く。このコンクリートの社会。自由に耕せる土地がない。土地は私有地として囲われている。でもそもそも自然に土地に値段をつける権利がどこにあるということか。自然に権利もルールもない。でもそうしたルールで縛らなければ略奪が起こったりしてそれこそ戦争になる。そうした脆弱たる世界の中で、僕は自然災害が怖い。寝る直前に地震が起きないか地震が起きないかといまきまかと怖くなって眠れなくなる。そうした恐怖を所属なり家族なり異性なりの力を借りてオキシトシンでもドーパミンでも借りて他者の力を自分のものにしたらそうした偏桃体の興奮なんて縁がないでしょうから、でも、自由に動くことができなくなる。社会的立場社会的信用は他者の承認を経て性欲を持て余したり思い通りにいかなかったとしても誰かが助けてくれる。そうした世界もありましょうし、僕みたいに天涯孤独な状態、今は近くに両親も兄弟もいませんから一人です。連絡を取ることによって彼らの存在を知ることができましょうが目の前にいません。両親も老いいずれは亡くなるそうしたらまったくもってかんぜんなる天涯孤独の身。だからこその自由がある。体を動かすことができる。僕は居合道みたいな動きができるようになりました。外を出た瞬間人を避けるゲーム、丹田を張り巡らせて頭を天につらされるくらい背筋をピーンと張って仏頂面で歩く。それは全部人が怖いからです。「人が怖い」という思い込み、不登校の経験や、学生時代異性と付き合うことができなかった拗らせ、働きもせずに生活保護を受給して生活保護は数千万円を運用した時のキャピタルゲイン?インカムゲインみたくお金がもらえる状態。でも、それは社会的信用というかそもそも人に自分の立場を言えるはずがない。

太極拳教室にしても周りは健常者の人ばかり。精気を吸い取られたからこそ僕は今日仏頂面で左手のこぶしに拳骨をにじませてこぶしに重心を与え続けなければ人や車が怖くて外に出られない。でもそうした窮状をもってして体が刃物のようにすっと早く動くことができる。でも社会から見たらゴキブリのような立場。同じ俊敏な動きでも意味不明さをまとった仏頂面の男はゴキブリが急に現れたかの如く「ヒエッ」とのどから蚊の鳴く声が出そう、というのも妄想のたまものであり実証できていませんから、相手が何を思っていたのかを知ることができないかってなる思い込み。

体を鍛えることができる。相手をかわすことができる。そんなもの、ただの臆病者です。バカボンド4巻でくわで田を耕す老人に出くわした武蔵が「お主の気は不細工じゃ」と老人に諭され「お前さんがどれだけ人を切ったか知らぬが、敵を作っているのはお前さん自身やぞ」と同時に武蔵は言われていました。バカボンド1巻の終わり耳に「これは娯楽ですのであしからず」と漫画を描いた人が言葉を言い残していました。娯楽を単なる自分事に引き寄せてしまうっていうのは、フィクションをフィクションととらえることができていないということはまあー、僕は実際に存在する他者と関わる機会が少ないものですから自分から他者とかかわることを避けて面倒くさいことをしないというメリットを同時に享受しているわけですから、弱者はかわいそう、でもそのかわいそうな人を助けるに値しない、無害だけども関わる価値もない、僕が街中でグループとすれ違う時に僕は相手の背後を常日頃から狙っているというか不意打ちというかたまにまったく僕の存在に気付かない人がいるくらいさっと動くことができてまあーそれはゴキブリみたいなものでねずみみたいなものでブルーハーツの「どぶねずみみたいに美しくありたい」という言葉は今では身に沁みます。でもこうしたどぶねずみみたいなびくびくした臆病者だからこそ感覚花瓶だからこそ自然の風合い、光のさし方、もろもろ花鳥風月を感じることができるという面ではとても楽しいことですが、それは一生孤独であるという、松尾芭蕉の奥の細道が始まってしまうではないでしょうか。

僕は今太極拳教室で精気を吸われつつ、でも僕は女性の扱い方を全く知らない、本来なら母親に尽くすことによって培われる力だったのでしょうが、僕は自分勝手で生きているだけで苦しかったりそれが甘えということになるでしょうが帝王切開で生まれてきた者としてはこの世に生まれ出ることに必死で抵抗してきたのであります。また、本来女の子が生まれるはずでした。そして、男の子が生まれました。上二人男で三人目が男です。母は切り替えの達人です。家事をこなし、仕事をし、ダメな父親、でもダメな父親というのもある意味ですくいなのかもしれません。母は病院に勤めていました。国家資格を取りでも病院が作ったカフェテリアで給仕を任されるようになりました。「これは私の役割じゃない」そう思って彼女は退職しました。僕はそのようにぼそっとつぶやいた母親の話をそう解釈しています。若い女性は会社の看板です。偏った考え方ですがお花です、テラー然りデパートの受付しかり、華やかに仕立てた女性はそれだけで注目の的というかそうして注目をもってして会社なり病院なり「またここに来たいな」という感情を誘発するものがあるのでしょう。まあー、話は飛びますがそうした女性だったら個人事業主たる父親とくっつかなければいいんです。カフェテリアの給仕を任されるくらいですから顔も整っているのでしょう、そうしたら安定的な職業に就いている男性と結婚したらよかったんです。まあー母親が自分の好きな男性と「この人と結婚したい」と言って実家に行っても母親の祖母に反対されて、それから父たる男性と見合い結婚で結ばれることになった。父が働けなくなって、というか個人事業たる自らの仕事に稼げなくなってもその場に身を置いて赤字続きで稼ぎもなくなったというのにもかかわらず母親はかたくなに離婚しませんでした。なぜかなと思うと、それは自ら生きる実感を欲していたといいましょうか、母親の過程はずいぶんと結束力があるというか母親の祖父が戦争での生き残りで帰ってきた人でその祖父の家で母親の親たる男女または母親の姉弟と暮らしていたわけですが、「家に帰ると知らない人が家にいる」という状態が多々あったようです。身寄りもなく働いてもいない根無し草のような人なんでしょう。母の生い立ちにはそういった社会不適合者を受け入れる土壌があった。とりわけ母の祖父は戦争での生き残りでしたから「人間は生きているだけでいい」というのがあったのではないでしょうか。また、母親は両親姉弟に尽くし年齢を重ねるごとによって家族たる親や兄弟が先立つ中で母のよりどころになるのは昔の風景。人が雑魚寝になって寝て、せわしなく近所の人なり見知らぬ人なりが往来し、今で言ったらぼくのような人は近所にいる紙芝居屋さんだったのかもしれません。昔は近所によくわからない人があふれていてその人がその自由な時間をもってして子供なり大人なりのこの世では消化しきれない哲学めいたものだったりを、話を聞いてあげる役目一緒に遊んであげる役目だったりしていてでしょうし、今はコンクリートの道ですが昔は土の道で山で遊んだり木に登ったりして、母親は山菜取り名人です。そういったお金にも代えられない知恵、人に尽くすこと地域に守られたこと自分が「誰かの役に立っているのだ」という見えない自然とのつながり地域とのつながりで得た自らの力は、やはり窮状に達しなければかき消えてしまう。母親は弱音を吐かずに家事なり仕事をしてきました。その今まで培った力、生きるための力、掃除をしたり、たまに河原でわらびをとることもありました。母親は貧乏に身を投じることによって昔に立ち返ることができたのです。また、立場のある男、社会的立場のある男性はやはりビジネスといいましょうか功利的に物事を見るというでしょうか、富むためにはいくらかは汚いこともしないといけません。自分にそぐわない仕事でも無理を押し通しても、睡眠時間が無くなるでしょうしその不満をぶつける相手なり部下を使役させたり女を買ったりするでしょうし、社会的立場を守ることによってお金を得ることができて富むことができる。僕の偏見で人生経験が全くない男ののたまいごとにすぎませんがああ、早くこの空間から出たい、そのような頭を切れる垢ぬけた男より世間に疎い不安定な社会的立場の男と、まあ本当は母親は恋愛結婚するはずが親に反対されたのですから見合い結婚で結ばれたといっても本意でも不本意でもまあー昔のことですし両親たる他人のことなので知ったこっちゃありませんから。父親は仕事をしていなかったとしてでも自らの親から引き継いだ仕事をしていました。時代が時代だったらまだお金を稼いでいたのかもしれませんがこの便利な社会で淘汰されたわけですから、でも未曾有な時代南海トラフ大地震が2038年までには怒るっていうわけですから、法人なり物流に依存した便利さなり、今度は隣が電話をし始めました。カップルとは別の部屋です。カップルは興ざめしたのでしょうね。意気消沈です。でも僕も仕方がなかった。それでいい。

まあーそうした人の命にかかわること農業、農業は言いっちゅーねん。僕は来年は自分で市民農園でも借りて今年は大層窮しましたしみそ汁とご飯だけで過ごすこともあって食べられない状態に免疫がついたというかだからこそコンビニ弁当なりは最近縁がありません。サツマイモのほうが腹持ちがいいですから。隣が電話をして外に出ました。友達と何か約束事をしたのでしょうね。ここから出るために。我ながら他人の詮索をしてこうして文章を書く気持ちの悪い人間です。でも人間というか僕にも気持ちの悪いところがあります。今年のクリスマス時期にコンビニで全裸で包丁を持ってトイレから出た人がいたというのは、僕は他人事というか笑い事では済まされないと思いました。その人がどうとかじゃありません。その人をそこまでにした社会というか、僕の勝手たる憶測にすぎませんが抑圧された人間、人をそこまで抑圧する社会があるということ、抽象的すぎますけどもまあ、僕も抑圧しがちな人間ですがその内向的な人間は見えないものというか空想というか大地に包まれた安心感というか。一人遊びができるというか一人遊びが得意というか時間をかけて人としての成熟をするタイプの人間がいるということ。もういいや、他人事や。僕はこうしてネットカフェでガチャガチャ人目をはばからずというかまあー来年は自給自足たる生活を目指して、こうして宣言しても本当にするかはわかりませんが、あー、ごっちゃになりますね。

疲れた。もうこれでいいですか自分。よし、これから朗読をいたしたいと思います。我ながらおかしな人間です。でもおかしさをもってして自分を守っているまともな人間だと思いたい。苦しい状況をやり過ごすことができた便所の落書きのタイル一面に僕の言葉の羅列。このトイレは大層呪詛がこもっています。でもその呪詛がこもっている部屋に閉じこもってひり出した。とても爽快です。さあ、このトイレは見るからにしてヒエッとなります。でもここを潜り抜けたらとても爽快になりました。覚悟のある人だけどうぞ。

このような機会をくださりありがとうございました。年末だろうが正月だろうが社会不適合者たる僕にとっては単なる日常にすぎません。でもその日常をぎゅっと詰め込んで窮状に瀕することつらきに身を投じ続けることによって生きている実感を甘受しているのであれば。孤独からとても甘い果実を得ているのであれば、僕は貧していながらもこの一時は富者であられた。いつか貧も冨も超えた世界に行ける時を願います。死んだら誰でもホトケになれますから僕は生きるをもってして軽やかな自殺たる日々に救われている。

自分でも何を言っているのかわかりません。

では失礼します。お疲れさまでした。

(お金がないのにネカフェで籠城。まったくの無駄。我ながら、最高です)

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