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紫陽花に「こらこら、なにをわかった気になっているのだ」と思わされた話
一駅分を歩いている今日この頃。
紫陽花の花が目に留まる。そういえば、そんな季節だよな。と。
目に留まった紫陽花はどこか自分の知っている紫陽花と違う。
「ほー、そうか、周りのから花が咲きだして、それから満開になるのか。今はその途中で。花も咲くまでにプロセスがあるものな」と感慨深く思う。
そう思いつつ、「そういえば、”プロセス”を見落としているよな」と普段の自分自身を省みる。『咲いた』、だけを見るのでなく、『咲くまで』、をついつい忘れがちになってしまう。
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最近、そんなことを思っていますとシェアしたのは先週末の早朝マインドフルネスグループでの出来事。そこでズーム越しの参加者の方から、紫陽花にもいろいろな種類がありますよねと。
へー、そうなんですね、と答えた。が。
ん?待てよ。紫陽花にもいろいろな種類があるですって。
そう、案の定、自分が見かけた紫陽花と自分が知っている紫陽花は種類が違うよう。
紫陽花は一つの種類しか知らず、それが紫陽花の全てだと思っていた自分には晴天の霹靂。
あぁ、そうか。こんなことを普段からやっているだろうな。
育児やら仕事やら普段の何気ない会話やら。
知らなかったり、知っているつもりになっていたり、での思い違い。
咲き方は一つしかないと思っている自分には、「知らない紫陽花」のその在り様は咲くまでのプロセスだと写っていた。
ちょうど会社での人事評価の時期も重なった時期。
結果やゴール(つまりは咲き方)は一つと、そう決めつけている自分にも刺さる。
「咲き方は一つ」と決めつけることで、それに違う咲き方は「咲いていない」とにみなしてしまう怖さ。咲くに向かっているプロセスなのだと肯定しているようで実は今の在り様を否定している怖さ。
結果は一つ、それはそれで秩序やら公平性やらとメリットはあるのだろうけど、せめて人との関わり合いの中では、そこは手放したいなと思った、そんなお話。
紫陽花から「こらこら、なにをわかった気になっているのだい」と声が聴こえてきそう。
だって、ほら、もうこんなにもきれいに咲いているのだもの。
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