朝のさざなみ読書会〜グループコーチングのような時間〜
2023年12月、福岡県糸島市の前原商店街にあるカフェSAZANAMiさんで、毎週火曜日に開催した「朝のさざなみ読書会」。好評につき、2024年1月に続編を開催することになりました。
前回の読書会の様子はこちらです。
「限りある時間の使い方」 PART2 幻想を手放す
さて、1月は3回にわたって「限りある時間の使い方」のPART2「幻想を手放す」を読んでいきます。
1月16日(火)は、第7章「時間と戦っても勝ち目はない」、第8章「人生には『今』しか存在しない」、第9章「失われた余暇を取り戻す」を取り上げました。その中で印象に残った部分を少し紹介したいと思います。
幾千もの異なる可能性の中で、偶然に生まれた自分
第7章「時間と戦っても勝ち目はない」では、フランスの思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉が引用されています。
どうしてそんなことに驚くのか、と思った方もいると思います。でも、確かに今、自分が生きているって奇跡的なことです。
私の誕生の前には両親の出会いがあり、両親は幼少期に怪我や事故もなく無事に大人になっていて、さらに、そこには連なる先祖の誕生と出会いがあります。遡っていくと、想像もできないくらい奇跡的な確率で自分が今ここに生きているという事実に気がつきます。そして、私はここに至るまでの出来事を何一つ選べなかったにも関わらず、今日まで生き延びたと考えると、それは驚きです。
この視点に立つと、「未来をコントロールしたい」という気持ちを少しだけ緩めることができそうです。
最近、私の友達もこんなことを言ってくれました。
「人との出会いは天に任せている。『ここに行けばこんな人に出会えるんじゃないか』ということは考えずに、出会うときは出会うんだと思っている。実際に、私が和音ちゃんと出会えたのは偶然だった。」
本当にそうですね。はじめから計画を立ててその通りに実行してきた結果、今にたどり着いたのではなく、説明できない多くの偶然によって想像もしていなかった今がある。その中には、嬉しいことや感謝していることもたくさんあるなと思います。
余暇を無駄にしない唯一の方法は、余暇を「無駄に」過ごすこと
古代の人たちにとって余暇が人生の中心で、仕事は不名誉なことだったそうです。(ちなみに、アリストテレスにとって真の余暇は、内省と哲学的思索を意味していたそうです。)今はそれが逆転して、まるで仕事が人生の中心のように感じます。余暇が”仕事の生産性を上げるためのもの”として語られることもあり、余暇の中にも生産性が持ち込まれています。
ここには歴史の流れもあるようです。本には、工業化が進み労働時間が長くなったとき、労働組合や労働改革推進者たちが「仕事以外にも教育や文化的な活動を通して自分自身を向上させる時間が必要だ」と主張することで余暇を勝ち取ったと書かれていました。これが皮肉にも余暇の道具化を進めてしまったと…。「余暇を意味のあることや自分を高めることに使わなねば」という奇妙なプレッシャーは、こんなところからきているなんて!
読書会の参加者からは「有給休暇をとるときに理由を聞かれるのって変だよね」という意見も出てきました。確かに、理由もなく有給休暇をとっても良いですよね。
本にはズバリこう書かれています。
何の役にも立たないことに時間を使い、その体験を純粋に楽しんでいるとき、生産性とは関係のない時間の中に自分を置くことができます。誰に見せるわけでもないのにやってしまうことや、「なぜやってるの?」と聞かれても理由がないものが、きっとそうですね。
「何のためでもないのにやっていることってあるだろうか。」
読書会の途中、この問いに対してすぐに答えが浮かばないと言っていた方も、他の参加者の声に耳を傾けているうちに、「そういえば自分にもそんな時間があったことを思い出した」と言っていました。
その"何のためでもないのにやっていること"を大事にしてほしい、と心から思います。
本来、人生の中心は余暇なのですから!
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