「キュレーション」と「パクリ」と「メディア」について、DeNA騒ぎで考えてみた。
DeNAの医療情報サイト「Welq」がきっかけに引き起こされた、いわゆる「キュレーションメディア」の問題は、もうさんざんいろいろな人が、さまざまな記事で現状について述べています。
ここにもうわたしが口をはさむ必要はあまりないようですが、一連の騒ぎを読んでいるうちに、ムラムラと職業病ともいえる「この問題の根っこはどこにある?」という思いでいろいろ考えてしまいました。
すでに多くの方が述べているライターの問題、DeNAという会社の問題、あるいは延焼したその他の問題はそちらにおまかせして、この場で「キュレーション」「パクリ」「メディア」という言葉にこだわってここ数日考えたことをまとめておきます。
書いているうちに相当長くなってしまったので、読む方はそれぞれの段落だけ読んでくださっても結構です。
なお、今回の騒ぎについて「なにがあったの」「なにがポイントなの」という方は、まずこちらのサイトがポイント的に読みやすくまとまっていると思います(ただ個人的には、「勝者」「敗者」という分別にはあまり賛同しません)。
→「DeNA「WELQ」騒動、その「勝者」と「敗者」」
《キュレーションという新しい表現スタイルを隠れ蓑に、盗用まがいの明らかに一線を超えた行為が実行されていたことを浮き彫りにした、今回の騒動。ひとまず、落ち着きを取り戻しつつあるようだが、同じデジタルパブリッシングを生業をするものとしては、なんとも後味の悪さを拭い切れない。》
がっつりと書き手の側から俯瞰した記事としては、ものすごく長いですがこちらがお薦め。
→「炎上中のDeNAにサイバーエージェント、その根底に流れるモラル無きDNAとは」
●「キュレーション」って言葉はどこから来たの?
わたしは昔から写真作品を見たりするのが好きで、その結果、写真展の企画スタッフという立場でお仕事をしたこともあります。また、美術展や美術イベントで通訳・翻訳をするのも好きなので、そういう世界にわりと知り合いがいます。
わたしが初めて「キュレーター」あるいは「キュレーション」という言葉を聞いたのは、そんな美術の世界でした。その当時の日本でも、日頃から美術に関心のある人以外は、この言葉を聞いたこともないという人の方が多かったはずです。
その「キュレーション」という言葉が今のように普通に一般メディアに踊るようになったのは、ここ2年ほどではないでしょうか。
メディアの編集の世界に「キュレーション」という言葉を持ち込んで話題になったのは、佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」がきっかけだったと思います。これが5年前。
ただ、この本は話題にはなりましたが、その後しばらくは紹介されるときは一般にカッコ付きだったり、必ず説明がなされていたように記憶しています。それがだんだん「あ、なんか聞いたことあるよね」といったムードになってきたのが、いわゆる「キュレーションメディア」という言葉が出現した頃でした。
2014年7月にわたしがNewsPicks(以下、NP)編集部の立ち上げに参加し、オリジナル記事の準備を始めた頃が、その「キュレーションメディア」という言葉が一般化に向かう「過渡期」だったと記憶しています。NPは先行の「スマートニュース」や「グノシー」と比べられることが多く、その後ネット界隈で半年後には「キュレーションメディア」という言葉をぼんやりながらも理解している人が増えました。
ただ、今振り返ってみると、今回問題視されたDeNAの傘下サイトが展開していた「キュレーションメディア」は、佐々木俊尚さんが熱心に語っておられた「キュレーション」の意味からもう大きく遠ざかってしまっています。つまり、わたしが美術の世界で見聞きし、また今でも美術の世界で使われ続けている「キュレーション」という言葉とは、全く違うのが今の「キュレーションサイト」と言われるシロモノです。
ここでは、今回騒動のもととなった、①企業側がライターを募集し、②1文字1円あるいはそれ前後の低報酬で記事執筆をライターに依頼し、③企業側の編集者が記事の大まかな内容と方向性をライターに示し、④ライターにそれらの指示に沿って制限文字数内で「情報を探し」て執筆させる――という記事が大量に集められて発表される「キュレーションメディア」を、敢えて「なんちゃってキュレーション」と呼び、「なんキュレ」と略称します。
●なんキュレは「キュレーション」ではない
「キュレーション」の原点が美術だったというのは、たぶんわたしだけの話ではないと思います。なので、「キュレーション」が現場に馴染んでいる分野の美術関係者の知り合いに「キュレーション」の意味を尋ねてみました。実際にご自身もキュレーターを務められる立場にあり、また海外でのキュレーションもなさっている方の説明はこうでした。
《美術でいうところのキュレーションは展覧会をつくること、それをする人がキュレーターで、ごくごく一般的な言葉です。具体的にやることは、テーマを決める、テーマに沿った作品を集めて展覧会する、カタログにテキストを書く。》
《今、キュレーションとよく言われるのは、いろんなもの、ことを一つのテーマのもとに集めて、何らかの形で提示、提案することでしょうか。美術の世界では、展覧会をやること自体、なんとかできますが、アカデミックなところでのコンテキストを説明する能力が求められます。》
「テーマを決める」「テーマに沿った作品を集める」「テキストに書く」――もちろん、その過程はキュレーター1人だけでは完成できませんから、さまざまな助っ人が入ります。キュレーターはその作業チームの指揮者であり、展覧会を成り立たせる真髄と言っていいでしょう。
この理解でなんキュレのサイトを見直してみると、そこにはテーマ自体も、そのテーマを決めるはずの人も見当たりません。DeNAに至っては、記事の責任は書き手にあると明記していました。その書き手は自分でテーマを決めるわけではなく、なんキュレサイト側の編集者から「目的と方向性」をもらっていたわけです。
つまり、この場合、編集者がキュレーターで、書き手は助っ人でしかありません。なのに、DeNAは出来上がった(集めてきた)作品の責任を助っ人に押し付ける形を取っていたことになります。
明らかにおかしい。そういう意味でそれらは「キュレーションサイト」を名乗るほどのことすらしていなかったわけです。
佐々木俊尚さんが「キュレーション」を提起されたときは、佐々木さんのような一定の知名度を持つジャーナリストが、独自に記事を選定し、コメントを付け、時には疑問符を付けながら世に送り出すことをおっしゃっていたはずです。
実は同様のことを、わたしもYahoo! ニュースの個人アカウントでやっていました。そして、その延長を今、自分のメルマガ(及びnote)で続けています。そこで紹介しているのは、わたしが読者に対して、「知っておいたほうがいいですよ」というテーマに沿って選んだニュースです。
(余談ながら、「Yahoo! ニュース個人」のアカウントは2015年6月に一方的にぴらりと1枚の紙が送られてきて、同7月末にクローズされました。その紙には担当者の名前も、また問い合わせ先のメアド/電話番号も書かれていませんでした。「開設してほしい」と依頼されて開設したアカウントでしたが、「Yahoo! ニュース個人」編集部はわたしの中国記事キュレーションという手法が不満だったそうです。人を介して「ただの記事紹介翻訳じゃないか」というコメントをもらいました。Yahoo! ニュース個人編集部は「キュレーション」の意味を知らなかったようです。DeNA騒ぎを受けて今になってYahoo! でも一所懸命、掲載記事の見直しをしているという噂ですが、大変な皮肉ですね。)
わたしのキュレーションを受け入れるか否かは、わたしに対する読者の信頼、あるいは信用によると考えています。佐々木さんがツイッターアカウントで続けておられるニュースの紹介も、「佐々木さんのキュレーション」であることが読者にとっての信頼の基準になっているわけです。
そういう意味でいえば、今「キュレーションサイト」と呼んでいる/呼ばれているサイトやその記事は、一体誰がそれらの記事を読むべきだと考えているのでしょうか? そしてその基準は? どの「キュレーションサイト」が読む側が価値を見いだせる「軸」を提供しているでしょうか?
…ないと思います。どこもかしこも、大まかなジャンルで寄せ集めの情報を、「耳寄り情報!」といった風情で紹介しているところばかり。その中には明らかに企業とのタイアップを狙ってリンクを忍び込ませたり、直接PRサイトへと読者を誘導している。
つまり、今いわれている「キュレーションメディア」はただの「情報寄せ集めサイト」でかありません。そしてその寄せ集めには、前述したような①②③④の流れで書かれた記事が使われており、「未経験OK!」の言葉に誘われた書き手が、与えられたテーマに知見がないためにネットで検索してコピペする――という作業が繰り返されているわけです。
美術の世界では、キュレーターの顔の見えない「キュレーション」なんてありえません。キュレーターはたとえ無名であっても、その「キュレーション」の結果、「コイツはできるぞ」と認知されていくべきものなのです。間違っても、「DeNAという上場企業」がキュレーターになるなんてことはありえないわけです。
そういう意味で、メディアと契約してニュース流している「スマートニュース」や「グノシー」、さらにはわたしが在籍していた「NewsPicks」も「キュレーション」とは呼べません。彼らがやっているのは、契約先メディアの選別だけで、あとはそれらのメディアが垂れ流すRSSを取り込んでいるだけだからです。そこには誰がそれらを選別したのか、その「キュレーション」の「テーマ」すらなく、ただのニュースの寄せ集め、あるいは垂れ流しているだけなのですから。
つまり、根本的に今の日本メディアで使われている「キュレーションメディア」あるいは「キュレーションサイト」という言葉は完全に間違っていると言っていいと思います。
<参考になる記事>
→「1円ライターから見た、キュレーションサイト「炎上」の現場」:
《出版社でライターをしていた経験がある私は、すぐに仕事を取れるようになり、開始後1ヶ月で、某クラウドソーシングサイトの認定ランサーになりました。そのサイトで「上位20%の収入」を得られ、評価も高いと、認定ランサーの称号を得ることができます。その月の収入は、10万円にも達していませんでした。
「たった数万円で、このサイトの上位20%の月収なのか」》
→「キュレーション騒動に感じるライターという職業への根本的な勘違い」:
《件の記事の方は「筆力」があるから自分は高級ライターになれるんだ、と書いていましたが、これが勘違いなんですね。ライターに「筆力」は関係ありません。そもそもライターの仕事で、書くことは全体の工程の一割ほどしかありません。そのほかの9割は調べものをしたり、人に話を聞いたり、関係者の調整をしたりです。書くことは最後の最後だけです。》
●「パクリ」の概念
もう一つ、「パクリ」について、今回の騒ぎを通じて感じたことを書いておきます。
DeNAの騒ぎは、医療情報サイトにおける医学的な見地も持たない、いい加減な記事が掲載され、その多くに他サイトなどからの「パクリ」があったことも問題になっています。そして、次々とこうした「パクリ」に関する告発記事が出て、今ではサイバーエージェントなどのサイトでも記事が非公開になったことがニュースになりました。
この問題は根深いと思います。
わたし個人も過去、自分が苦労して中国語から翻訳して流したツイートをそのまんま、同業者にまるで自分が発見して翻訳したかのように紹介されたことがありました。中国語がわかれば誰が翻訳しても同じだろうと思いがちですが、そのツイートはわたしが小難しい中国語を苦労してコンパクトに日本語化したものをそのまま使っていたので、「パクリ」だとバレたのです。引用であることを書いてくれるだけでよかったのですが。
そのパクった人は今もライターとして記事を発表しています。そこにほかからの「パクリ」はないのか? 残念ながらわたしはその人の記事を100%信頼することができずにいます。
わたしの友人のフリーランスライター、きたもとゆうこさんも、過去なんども発表する記事の写真や内容をパクられており、今回こんなふうに自身の体験をまとめています。
→「【驚愕】9割パクられた記事をNAVERまとめに削除依頼したら送られてきたマニュアルはこれよ。。。」
前述のきたもとさんの記事を読んで一番驚いたのは、きたもとさんがその「パクリ」を抗議した相手が「転載を禁止する旨の記述を追加」するよう言ってきたことです。
出典も書かないのに「転載」というのも笑止千万ですが、平気でこういう言い方をするのはつまり、彼らが「ネットに転がっている記事は原則パクってもいいのに、ダメならお前がその旨書いておけ」と言っているのに等しい。やっぱりこの人たちは「パクリ」を前提に商売しているんだなぁ、と思わされる一文でした。
運営者側がこういう意識なのですから、当然①の書き手にもそれは伝わるはずです。そしてその運営側が提示した指示に基づいて「情報を集めて書く」ということは、知見のない書き手はどこかで情報をパクってくるしかないわけです。
実際にクラウドで募集される、こうした「ライター」のお仕事では、「ネットで調べて書くだけです!」と書かれています。これでは明らかに「パクリ」奨励でしょう。
つまり前述した「キュレーション」という観念のお粗末さ、そしてこうした「パクリ」への意識の薄さ。そうやってあちこちから情報を拾ってツギハギにされて出来上がった記事は、当然のことながら「ロジック」(なぜそうなるのか?)はありません。もちろん根拠を示すことすらできません。
逆に言えば、こうしたなんキュレサイトを読んでいる読者は、書き手も運営側もまったくその情報の価値について保証も保障もしない、「文字の羅列」を読まされているにすぎないわけです。DeNAの事件では、ご主人をがんの闘病の末亡くされたばかりの南場智子会長が、問題になったサイト「Welq」で「がん」と検索して出てきた結果に驚愕したと述べています。つまり、運営している当事者すら読もうと思わないような記事を、読者は読まされていたわけです。これはもう「パクリ」云々よりも、メディアという社会的公器を運営する立場としての姿勢にただひたすら呆れるしかありません。
●NewsPicksの「パクリ」疑惑とは
なお、NPには契約メディアの記事を流す以外に、ユーザーが目にした記事のURLを打ち込んで、他のユーザーに紹介する機能もあります。これはある意味、本当の意味での「ニュースキュレーション」に近いと思います。
しかし、そのNPもずっと「パクリ」の非難を受けてきました。NPは少なくともわたしが知っている範囲において、他社メディアの情報をコピペして発表したという事実はありません。どちらかというとNPへの「パクリ」指摘は、前述のユーザーによるURL打ち込みに対して起こっていました。
NPを使ったことのない方のために申し上げておきますが、NPでは特にその旨の契約を交わしたメディア、あるいはNP編集部が作ったオリジナル記事でない限り、ユーザーが記事を読むには必ず元サイトのページが表示されます。つまり、NPが窓口となってユーザーを元記事サイトに引き込み、アクセス数(広告販売などで大事な基礎資料になります)を「返上」しているわけで、わたしはこれのどこが「パクリ」なんだろう?とずっと不思議に思っていました。
つい最近になってやっと、そんな「パクリ」疑惑とは、「自社記事に対するコメントや討論は自社サイト上で行われるべきであって、NPはそれをNPサイトで行ってユーザーを増やしている」ということを言っているのではないか、と気が付きました。確かにニュースサイトではそこに書かれた記事が話題になってコメントや議論が盛り上がれば、それによってまたのぞきに来る人が増えるという、アクセス数ブースターの役割を果たします。そんなコメントや討論がNPのサイトで行われていることに、「他人のふんどし(=記事)で相撲を取っている」という意味で「パクリ」と呼んでいるのではないか、と。
(違っていたら、教えてください。)
ですが、古巣を擁護するつもりはありませんが(わたしがどんなにNPの現体制に批判的かはNPユーザーであればご存知のはずです)、他サイトの記事を持ち寄って盛り上がるのはツイッターやフェイスブック、あるいはmixi、さらには2ちゃんねるでも起こりますよね? そこに途中参加した人が、「なんだなんだ?」とURLを踏んで元記事を読みに行く。NPがやっているのはそれと同じことではないでしょうか?
(違っていたら、また教えてください。)
ツイッターや2ちゃんねるはオッケーで、NPはダメ、という言い方になるのなら、釈然としません。さらにはネットに慣れた人たちは、一旦ネット上で発表された記事や文章は常に他人の討論や批評のまな板に載せられるものだ、それが何人にとってもだ…と信じておられる人が多いはず。その原則に照らせば、やはり第三者が発表した記事がNPの俎上に載せられることを「パクリ」と呼ぶことに疑問があります。
●「メディア」の覚悟と責任
長くなってしまいましたが、もう一つ「メディア」についても書いておきます。
わたしはこれまでも何度か書いてきたように、特に新聞社や出版社、俗に言われるマスコミに勤めた経験をもちません。仕事として書く経験は香港にいたときに、偶然就職した編集プロダクションから始まりました。ただ、このプロダクションはオーストラリア人/イギリス人/アメリカ人が出資して作ったもので、わたしを雇うまでは日本語媒体を出していませんでしたつまり、日本の伝統的メディア業界においては、そんなわたしの経歴は出所不明の「どこの馬の骨」状態なのです。
まぁ、中国というレアなテーマで現地で書き始めた結果、少なからずの読者にわたしの記事を読んでいただける立場になれたのは、かなりラッキーだったと思っています。というのも、日本のメディアの現場ではもし媒体側があなたの名前を知らなくても、元いた出版社や新聞社の名前を出せば、ある程度のハードルを乗り越えられることができるからです。わたしの場合、それはゼロでした。
ただ、ラッキーなことに、だからこそ地べたに這いつくばって、日本のメディアの構造を下から眺めることができたと思います。人が超えていったハードルの下も眺めて、メディアの世界がどんなふうに記事を掲載しているのかを、誰の目にも見えない黒子的な立場から見ることができました。そして考えるチャンスをもらえたのはラッキーでした。
なので、ここでお話するのは、わたしが職場や業界の先輩から教えられた話ではなく、自分で仕事をしながら体験し考えたことのまとめです。
メディアが発する情報は、それを読んだ人に影響を与えます。それがその読者が求めていたことかどうかは別として、良くも悪くもその人(の判断)に影響を与えます。特にその人が直接触れることができない世界の情報は、その人にとって大きな影響を持つ。自分ではそれを是正する根拠がないからです。
そう考えると、メディアが社会に与える影響は絶大です。それこそDeNAの「Welq」の雇われライターが文字枠を埋めるために書いた一言が、ある読者にとって大きな意味を持っていたかもしれません。
メディアがちょっと文字を書き加えたり、別の言葉に書き換えたりするだけで、目の前の事実が違う形で伝わることになります。たとえば、今日目にした記事ですが、「「自衛隊機が妨害弾発射」 中国が重大な懸念伝達と発表」を読んで、NP上では「領空侵犯しておきながら、盗っ人猛々しい」的なコメントが並びました。しかし、あるユーザーが引用した産経新聞の記事では「領空侵犯はなし」と報道していました。
もちろん、前者の記事は読めばわかりますが、中国側の報道だけを伝えたもので、「領空侵犯があったかなかったか」については触れていません。ですが、後者の記事がなければ、多くの人が「領空侵犯」を前提にこの話題を論じ、記憶したことでしょう。
1つの情報、それもマスメディアと呼ばれる、一瞬にして多くの人に情報を届けられるメディアの影響力は絶大です。つまり、その役割が重要であればあるほど、責任もまた絶大なのです。
DeNA、あるいは「パクリ」を奨励してきたなんキュレにそれを引き受ける覚悟はあったのか?
「キュレーション」が悪いわけではありません。それが、あくまでも誰かがその責任と基準を持って紹介したのであれば。ですが、なんちゃってキュレーションサービスはまず、ライターから集めた記事が「事実に即しているかどうか」の検証を行ったわけではなかったことが、医療情報サイト「Welq」問題を通じて明らかになっています。その事態の深刻さはこちらの記事でご確認ください。
→「「医師監修」を、なめていらっしゃると思う」
医療情報ほど人命に関わる話題でないにしても、なんキュレではとにかく「パクってOK」なのですから、パクった元記事がどんなに立派なものであっても、なんキュレ側にはそれが記事になるまでにどこでどんなふうに事実と照らし合わされていたかはわからない。つまり、照らし合わせるソースがないのですから、事実上「ファクトチェック」は不可能です。
そんな記事を流しているところが「メディア」と呼ばれる。経営者ですら読もうと思わないような記事が大量に拡散されている。
そのことに戦慄を覚えます。
適当な記事で埋め尽くせば、人が読みに来てくれる。そうすればアクセス数が稼げる。アクセス数が稼げたら、企業タイアップや商業広告が集まってくる。そこからカネを儲けることができる。「メディアを運営する」ということが誰かがカネをフトコロに入れるためだけの、ツールになってしまっているわけです。
そんな意識で作られた「メディア」が、今日も人々に影響を与えている。それでいいのでしょうか。
「メディア」の社会的責任に対して覚悟も責任感もない人間が、メディアに手を出すべきではない。これははっきりと申し上げておきたいと思います。
<参考になる記事>
→「クラウドワークスでまともなライターにはなれないよ」:
《本てのは書き始めた頃に流行ってるものは遅いんだよ。これから流行るものについて書かなきゃナンないんだから。その点、向こうから「人工知能の本を書いてよ」と言ってきた伊藤くんはさすが慧眼である。泣く子も黙る週刊誌の編集長をやってるだけはある。
僕はいろんな編集者と付き合うようになってから、編集者を上手く選ばないと売れる本は書けないことを学んだ。》
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