【ぶんぶくちゃいな】パリ五輪を通じて見えてきた、 両岸三地それぞれの「生態」系

7月26日に開幕したパリ五輪も本稿執筆時においてそろそろ終幕。2週間前には予想もしていなかったドラマやヒーローが次々に生まれ、新しいスポーツの話題や課題をもたらした。

そこで起きた出来事に口から泡を飛ばして激論した人もいたことだろうが、考えてみるとオリンピックとは政治的な表明は認められていないけれども、4年に1度のタイミングでこうして世相や課題を目の当たりにさせ、少なくともそこで提起された出来事に対して多くの人に考えるきっかけを与えるという意味で、なかなか興味深いイベントだな、と感じている。

今回は特に出だしから主催国のフランスが「かまして」くれた。低炭素排出と低予算にこだわった結果、エアコンなしの選手村運営などに試合前から戦々恐々の声が流れていた。

特に日本メディアでは「それに比べて3年前の東京五輪は……」といった表現が並んだが、具体的にその内容比較をデータや数値で示した例はなく、どれも日本人の主観的な論調である。日本人選手のみならず外国選手のコメントを併記したものもあったけれど、それも「東京を褒めたから採用した」と思えるふしがあった。というのも、中国語や英語メディアにはパリの不備に触れていても、だからといって東京を引き合いにして絶賛する記事を目にしなかったからだ。

一方で、日本ではあまりぴんとこなかったようにみえるのが、それ以上の大議論を巻き起こした開会式のLGBTQ演出だった。筆者は騒ぎを知って断片的にその様子をネットで観ただけだが、「ここでLGBTQを演出するとは」と、フランスのパンク精神、というか自由ぶりに感心した。LGBTQを「チラ見せ」ではなく徹底的に前面に押し出したのは、さすが文化や精神において「常に最先端」の気概を持つ国である。あるいは議論や大討論を恐れない社会というのはこういうことか、とも思った(但し、開会式の動画はその後公開されなくなったようで、その説明を待ちたいところだ)。

その表現の絵柄のモチーフがキリストと使徒を描いたダビンチ作「最後の晩餐」だ、キリスト教を冒涜する行為だとする批判に対して、演出側はキリスト教を揶揄する意図はなく、演出はオリンポスの神々の祭りを参考にしたものだったと釈明。

宗教、特にキリスト教文化に馴染んでいない日本社会にとって「ただの絵画じゃないか」と思ってしまうが、はからずも多くのキリスト教徒を抱えるフランスがそんな演出をし、さらには「(性別に保守的な)キリスト教」と「(もっと自由な発想の)オリンポスの神々」の対立という構図に落とし込まれてしまったことも、「ひょうたんからコマ」的なおもしろさだなと思った。

そういえば、選手村の設備問題で日本メディアが東京五輪と対比したように、今開幕式が「大激論」を巻き起こしたことに対して中国人が「(映画監督の)張芸謀が総指揮を担った北京五輪の一糸乱れぬ演出は最強だった」とべた褒めしていたのを目にして思わず笑ってしまった。「自国可愛さ」はどこも同じで悪いことではない。だが、日本人も中国人も、結局のところ自国文化の「コンフォートゾーン」を絶賛し、それを世界的視野で見ずに無批判に自画自賛してしまうのはそっくりだなと感じたからだった。

そんな各国の国民感情を同時に眺めることができるのもまた、4年に1度のオリンピックの面白さだろう。


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