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誰かの願いが届くとき 48 ネガとポジとその間

「痛いっ!」

 帆乃の訴える声で、冬は正気を取り戻した。

 あまりにリアルな感覚だったので、身体が硬直して直ぐに反応できない。

 帆乃が振り返って冬を見ると、驚いた顔で目を見開き呆然としている。


「どうしたの?

 舞島くん、大丈夫?」


 我に返った冬は、帆乃の手を無意識に強く握り締めていたことに気がついた。


 慌てて帆乃の手をさすりながら


「ごめん!帆乃ちゃん!

 痛くして。

 手、痛めてない?大丈夫?

 本当にごめん、、ごめんね、、」


狼狽えて不安げに何度も謝る冬に


「、、大丈夫、だと思う。

痛かっただけ。

 どうしたの?

 顔色が、、」


 帆乃に心配をさせまいと、冬はそっと立ち上がる。


「大丈夫だよ、本当にごめんね、、

 ちょっと顔洗ってくる」 


 そう言って洗面所に向かう冬を、帆乃は訝しげに見ていた。


 洗面所で鏡を見ながら、今のは何だったんだと考える。


 最初は良かった。


 いかにも帆乃の世界といった、可愛くて優しくて温かな美しい帆乃自身だった。


 でも、出口のない寒々しい樹海に慎重に隠された檻。

 あの、おどろおどろしい獣は何?


 しかも冬の顔だった。


 帆乃の心の奥にしまい込んで、ひた隠しに閉じ込めているもの。


 あんな荒んだ場所で、あんなものと帆乃は戦ってきたのかと思うと、冬は涙が溢れるほど辛くなった。


 何とかして助けたいのに、獣は自分の顔をしている。


 どうして?

 帆乃の側にいてはいけないの?

 苦しめることになるのか?


 冬は凄まじい不安と後悔、焦りに 囚われ始め、自分を見失いそうになる。


 違う、、


 これは巧妙に仕掛けられた只の妄想の罠だ。


 自分が今考え出した不安や焦りは、獣に火と油を注ぎ、猛烈な勢いで、冬を飲み込もうとしている。


 冬は顔を洗い、自分を強く睨み返した。


 絶対にふたりの邪魔をさせない、、

 幾度、襲いかかってこようとも負けない。

 来るなら来い、、

やれるもんならやって見ろ!


 帆乃が生み出したものならば、絶対にそれを解き放つ力強さがあるはず、と冬は信じた。


 冬が落ち着きを取り戻し、洗面所から出てくると、帆乃は貰ってきたスープとベーグルで朝ごはんを用意していた。


「舞島くん、大丈夫?

 ごはん食べる?

 これ全部、千里さんの手作りだよ。

 凄いよね、とーってもいい匂いする」


 普通に会話する帆乃を見て、冬はホッとした。

 今朝も衝撃が強すぎて、後の予定をすっかり忘れていた。


「ありがとう、食べるよ。

 千里さんの作る食べ物は、大体凄く美味しいんだ。

 直輝さんも料理得意だけど。

 帆乃ちゃん、今日の予定は?

 オレは午後からレッスンと、夜にバッシーと熊飼教授の自宅にご挨拶が、、

 帆乃一人で大丈夫かな、、

 ひとりでお留守番、出来るかな?

良かったら一緒に行く?」


 自分に対してどうも心配症を患っている冬を見下すように


「、、もう何言ってんの。

いい加減に放っといてってば!

 帆乃は自分のやる事沢山あるの!!

 who youのこと早くいっぱい知らなきゃだし、それで脚本も早く変更しなきゃだし、、

 舞島くんも、ちゃんと自分のすることやって!

 いっぱいあるでしょう?

 あ、お昼に千里さんと、沙織さんの家の双子ちゃんを見にいく約束してるんだった!」


そう言って帆乃は食事に集中し、話は終わった。


 お願いだから少しでも自分のことに興味を示して好きになってと、冬は言えず、目下の使命を突きつけられた。

 帆乃は食事を終えると、冬に目もくれず外出の用意をし終えて


「舞島くん、私の荷物が昼頃届くと思うんだけど、居たら受け取ってね!

 それからテレビはやっぱり要らないや。

 直輝さん家に立派なホームシアターあったから、それで見させてもらうよ。

 また夜にね。

 じゃ、行ってきまーす!」


 飛んで行こうとする帆乃に、車や自転車に気をつけて、迷子になったら直ぐ自分に連絡するように、知らない人についていかないように、暗くなったら外に出ないようになどと、しつこく追い縋る冬だったが、華麗に振り切って帆乃は出て行った。

 冬が心配しながら見送ると、案の定、帆乃はこの家の鍵を忘れているし、冬は帆乃のスマホのアドレスさえ知らせてもらってなかった。

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