誰かの願いが届くとき 67 蜜月
10月になり、頬をすり抜ける風は心地よく爽やかで、見上げる空の青さも一層深く感じられた。
この頃には1年の終わりが近づくのを感じて、なんだか名残惜しい気分になり始める。
帆乃と冬の映画は、皆んなの沢山の情熱と愛と優しさを詰め込んで無事にクランクアップした。
それが終わると、次はショパンのピアノコンチェルトのコンサートが近づく。
このコンサートの開催と無料の動画配信は、映画と続く大規模なコンサートツアーのプロモーションを兼ねていて、重要な意味を持っている。
起きている時間の大半を、冬は舞台のリハーサルと練習に当てていた。
演じる冬は、帆乃がそばにいる事で満ち足りて、自分の感覚が以前よりもずっと豊かになり、降りて来るインスピレーションの導きに驚くほどだった。
彼女を見つめていると、心惹かれるもの全てに愛の眼差しを注ぎ、感じるものを自分の内面に染み込ませ、小さな新しい発見に日々心を躍らせて楽しそうにしている。
帆乃は、この現実世界で誰にも邪魔されずに、気の向くままに、歌ったり踊ったり、物語やお絵描きを楽しんで、笑ったり怒ったり、喜んだり悲しんだりして、ひとり楽しく遊び続ける子供だった。
冬はそんな帆乃に惹かれ続け、たまらなく愛おしくて怖くなる。
長いと思われた映画制作も終盤に差し掛かかり、残りの過程は冬のピアノコンチェルトと編集作業のみとなった。
周囲の盛り上がりや慌ただしさとは関係なく、季節は当たり前のように巡り、冬と帆乃が再会して一年近く経とうとしている。
編集されたものをチェックする以外、帆乃は空いている時間は本を読んだり、千里とお料理したり散歩したりして自由にしていた。
この映画を創ることになってからの、人との出会いや出来事は、自分の安全な小さい殻を破ってみて経験できた、新しい発見や感動の連続だった。
世界はこんなに自分に優しくて、素敵な人たちを用意してくれていた事が信じられないほどだった。
大宇宙に一滴落とされた願いの波紋が大きく広がるように、冬と帆乃は今まさに黄金色をした実りの豊かな時間の輪の中で、全てを味わい尽くしている。
それでも冬は早く2人の間を特別な形にして、より確かなものにしたかった。
ハッキリと言葉には出せなくても、充分に自分の意思は帆乃に伝え続けた。
それを何も気付かない事にし続ける帆乃に満足出来ず、ちょっかいを出すと、帆乃は冬をあしらい距離を取る。
「帆乃、、
どうしてキスしたらダメなの?
、、もっと帆乃のこと知りたい、、」
安っぽいセリフで甘く冬がアプローチをすると、せっかく気持ちよく冬にもたれて夢想していた帆乃はムッとした。
冬の頬をムギュっとつねり、抱いていたウサギのぬいぐるみを冬の口に押し付ける。
「そんなに知りたいならウサギちゃんとどうぞ。
冬はすぐ暴走するから。
気がついたら、帆乃はムシャムシャ頭から食べられてるよ。
帆乃はそんなの嫌。
今のまま、、
このままが一番いいの」
そう言ってサッと立ち上がり、お茶を淹れに行った。
ポツンと置かれ、ウサギを抱いた冬はやるせなくなり、どうしてなのか、自分に何の落ち度があるのかと悲しくなる。
どう心を尽くしても、帆乃は冬に全てを委ねて任せる事を拒んでいる。
帆乃の意志を尊重して必死に耐えていたが、生命の本能の声を無視し続けるのにも限界を感じてきた。
冬の奥底に巣食う獣はどんどん欲深くなり、目を離すともっともっとと暴れ出しそうだ。
飛ぶように日は過ぎて、映画が完成したら、ふたりはどうなるのだろう。
もう二度と、絶対に手放したくない、、
執着心という獣は、冬の気がつかないうちに、再び冬を支配していた。