ご自愛が苦手な私がご自愛について考えてみた
皆さんこんにちは!Wanna Be ME運営メンバーのひなたです!
今回は『ご自愛』について、私が今まで感じたり考えたりしてきたことを書いてみました。そうしたら独白のような何かが出来上がりました。
自愛とかよく分からんとか、ご自愛ご自愛うるさいな!とか、暇だし読んであげてもいいとかいう方がもしいらっしゃいましたら、どうか付き合ってやってください。
自愛との遭遇
皆さんはご自愛という言葉に親しみがありますか?
スーパー大辞林によると、『自愛』とは自分自身を大切にすること、だそうです。そこから転じて、自分の心身の健康を気遣うことを意味する言葉としても使われているのではないかな~と私は思っています。
私がご自愛という概念を認識したのは、大学に入り、ワナビーに入り、その後しばらく経った頃でした。ワナビーのミーティングや、メンバーが書いてくれるnoteの中で『ご自愛』という言葉がよく出てきたので、知らぬ間に脳に刷り込まれて認識するようになっていったような気がします笑
それまでは、自愛という言葉の意味は知っていても、それを自分事として捉えてはいませんでした。
他人がするご自愛に対しては、
良いね!自分を大切にできて素敵!
もっともっと自分をいたわってあげてほしいなぁ
と、好意的な感情が沸くのに、
自分のこととなるとなぜか、私が自分自身を大切にするということが、どうしても許せないと感じていました。
自分を大切にする意味も理由も必要性も大切さも、脳では理解していても、心では感じられない、というような感覚。
他人からその人自身、あるいは自分から他人、他人から他人への思いやりや慈しみは素敵だと思うのに、なぜ自分から自分へは許せないのだろう?
そう疑問に思って、あまり気は進みませんでしたが、この機会にとその理由をよく考えてみることにしました。
根比べしましょう
私は小さい頃から、友だちから根性あるねと言われてきたし、自分でも『耐える』ことへの耐性は人一倍あるかもな~と思っています。例えば、
どうしてもどうしてもどうしても心底絶対参加したくない行事が明日に迫り、でも誰にも相談できず、精神的に限界が来て39度の熱と全身から蕁麻疹が出たときも、結局そのまま行事に参加しました。
5年間、緊張からか毎朝学校に行く前に3回下痢をするのが日常になっていて、「実はそろそろ体力的にも精神的にもちょっとしんどいかもしれない」と友だちに言ったときは、「それはちょっとでもかもしれないでもなくて、普通にしんどいんだよ…!なんで病院行かないの?」と言われました。
この時、この程度の辛さなら病院へいっていいのか、というより行くべきなのか、と他人事のようにぼんやり思ったのを覚えています。
その程度じゃ根比べにならん!まだまだ序の口だろ!?という方もたくさんいらっしゃると思いますが、とにかく、私はどこまでが我慢すべき辛さで、どこからが我慢しないほうがいい辛さなのかという、自分の辛さの基準を自分で決めることができませんでした。
だから、以前は心身の不調をどこまでもどこまでも我慢していたように思います。主体性が無さ過ぎるって怖いですね…。
そうして我慢することに慣れていた中で自愛という概念に出会い、私は、
頭が痛いときは頭痛薬を飲んでも良い
熱が出たら学校を休んでもいい
精神的に苦しい時は誰かに相談してもいい
それらが当たり前に受け入れられる現実に気付いてしまいました。
その現実を素直に受け入れればいいのに、私は、
じゃあ今まで私が耐えてきた努力(ではないのでしょうが、適切な表現が見つかりませんでした…)はどうなるの?
あの辛さが、本当は経験しなくても良かったって、無駄だったって思いたくない…。
と思いました。とんだひねくれものですな。
要するに、私がご自愛に対して抱いている受け入れ難さは、私のくだらない意地っ張りに由来していたようです…。
自愛の種
ご自愛という概念を認識して以降、私は友だちの助言を受けつつ、
体調が悪いときは薬を飲んで部活を休ませてもらったり
下痢の問題を解決するために病院へ行ったり
生理で心身に不調が出たときは薬を飲んだり友だちに話を聞いてもらったり…
少しずつそういったことができるようになってきました。
長年の我慢癖がすぐに治るわけはないし、まだ自愛への抵抗もありますが、以前と比べれば、私は今、自分を大切にしている!!と感じる機会が増えました笑
この前、友だちと通話をしていてご自愛の話になりました。
「私は自愛が苦手で…どうすれば自愛になるのかまだあまり分からないし…そもそも私に自愛は必要なのかな?」
と私が言うと、友だちは
「うーん…自愛…多くの人ができればいいなとは思うけど、無理にすることでもないと思う。でも、例えば君が、君の大切な友だちや家族と些細なことを話して、それで癒されたり幸せを感じたりするなら、それが君にとっての自愛になっているのかもしれないよ?」
と答えてくれました。
ん?なんか今、とても良いことを言われたような…。この友だちの言葉を聞いて、私は心が大分軽くなりました。
自愛の定義は人それぞれ。自愛しようと意気込まなくても、気が付いていないだけで実は自然と『ご自愛』しているのかもしれない。そういう新しい視点が得られました。
このnoteを書きながら思うのは、自愛の種はどこに埋まっているか分からない、ということです。
それはあなたの友だちが持っているかもしれないし、近所の野良猫が咥えているかもしれないし、一杯のコーヒーの中に沈んでいるのかもしれません。
今、私は、自愛はみんながみんなしないといけないことだとは思わないし、私自身、別に無理にしたいとも思っていません。やっぱり『ご自愛』は苦手なままです。
それでも、『ご自愛』を実践してみて確かに生きやすくなったことは実感しています。
苦しいことが起きるのは、生きていればそれなりに当たり前のことなのでしょうけれど、その苦しさを軽減できるならそうした方が良いかもしれないな、と最近は少し思います。
だって、心も身体もボロボロの状態じゃ、何を見たって聞いたって、それが自愛の種かもしれないなんて気付ける余裕も無いですからね。