日本が環境後進国になってしまった本当の理由
「日本は遅れている」「日本人は意識が低い」「環境先進国を見習うべきだ」
気候変動や環境問題の話になると、最近はこんなのばかり。海外と比べて日本はダメだ、そんな声をたくさん見かけます。
たしかに、取り組みの成果だけを見れば、遅れているのだと思います。数値目標や政策からも明らかで、プラスチックの消費量が圧倒的に多かったりと、私たちの生活のなかでも差はついています。
でもこの遅れって、単に「劣っている」ということなのかな?実は日本人がとても本質的な考えを持ち、すばらしい価値観をしているからなんじゃないのかな?
ずっと前から私は「自然観の違い」に着目しています。私たち日本人の根底に流れる、深い深いところにあるマインドを見ていくと、ヒントがあるような気がするのです。
日本独自の風土からなる自然観 ─庭園の対比から─
日本は、豊かな自然に恵まれた島国です。私たち日本人は、古来より自然を崇拝し、自然に逆らうこともコントロールすることも望まず、偉大な力に寄り添うように文明を築いてきました。人間と自然は一体で在るべきという根本的な思想があります。
一方でわかりやすく西洋と対比すると、まったく異なる自然観のもとに発展を遂げてきたことがわかります。大陸に住む西洋人は、自然による脅威はできるかぎり制御して、コントロールしていくべきという考え方です。神のもとに人間が作られ、その人間はさらに下層の自然を支配する使命がある。そうキリスト教の教えにも反映されています。
この自然観の違いは、宗教、建築、食文化、芸術などあらゆる分野に散りばめられ現代へと受け継がれているのですが、一秒で伝えるために私がいつも好んで話す「庭園」の対比があるので聞いてください。
日本庭園は、自然のありのままの姿を表現するスタイルです。
池を中心に、岩を山に見立てたり草木を使って地形を再現したり、流れるような左右非対称の空間が好まれます。砂や小石を使って波紋を表す枯山水のように、本物の自然の中にあるような曲線を使って表現されるのも特徴です。
一方で西洋庭園は、自然に大胆に手を加えた人工的な空間であることが美とされます。
木はきっちりと切り揃えられ、規則正しく花が植えられ、噴水や石像などの人工物が中央に据えられていることも多いです。自然界ではまず見られない直線がふんだんに取り入れられ、左右が完全に対称的な「シンメトリー」であることは、格式高い西洋庭園の大きな要素のひとつです。
このように、日本と西洋では、同じ人類とは思えないほど異なる「自然観」を古来から受け継いできています。日本は地形的に地震・洪水などが頻繁に起こる災害大国でもあり、自然をコントロールしようとか思いのままに造り変えようという発想が昔からほとんどありませんでした。
しかし、気候変動や環境問題への向き合い方の話のなかで、この両極端ともいえる「自然観」の違いが議論に上がることはあまりないように思います。とても大きく影響しているはずなのだけど。
人間が自然を動かせるとは思っていない日本人
世界ではこの数年のうちに一気に環境に対するムーブメントが盛り上がりましたが、その多くは主に西洋発で起こっています。グレタさんの演説やヨーロッパの街中でのデモの様子も記憶に新しいですよね。
自然を思いのままにコントロールしてきた文化のもとでは、「人間の行動により気候変動が抑えられる」という理屈がすんなりなじみ、心から成果を信じて行動する人が表れます。刻み込まれた自然観がそうさせるのです。
日本にも声を上げる人たちは出てきましたが、多くの日本人はまだ心の奥の奥では、「頑張っても変わるはずがない」と思っているのではないでしょうか。一部のアクティビストたちの発信はどんどん先へ進んでいくけれど、世論はどこか置いていかれているような感じがあります。
これは意識の低さでも知識の欠如でもなく、根本的な「自然観」の違いを考えれば何も不思議なことではないと私は考えています。
少し古いデータですが、2015年に開催されたWorld Wide Views on Climate and Energy 世界市民会議「気候変動とエネルギー」の報告のなかに、世界と日本の気候変動対策に対する意識調査がありました。
その結果で、世界では66%の人が気候変動対策により「生活の質が高まる」と答えているのに対し、日本はたった17%しかおらず、逆に60%もの人が「生活の質が脅かされる」と答えています。
世界とは対象的に、日本人の多くは「気候変動対策をするには生活の質を落とし我慢しなければならない」と考えているようです。この結果からも、日本人がいかに改善した未来を諦め、目先の不利益を恐れてしまっているかが見て取れます。
いま地球で起きている気候変動やそれに伴う災害が、「私たち人間がしてきたことの結果」であることは日本人もみんな理解しています。だけど、一度変わってしまった自然を復元したり変化を止めたりできるのかと言われれば、本能で「無理」と思うのが私たちの文化。遺伝子レベルで刻み込まれた、ごくごくナチュラルな自然観であると考えてもよさそうです。
ガラパゴスな日本社会では、違う伝え方をすべきかもしれない
誰も大きな声では言えないけれど、私たちは本音では「ひとりひとりの行動で気候変動が抑えられる」とは信じきれていないのだと思います。
根本思想がまったく違うところに西洋的なアプローチをそのまま輸入してしまうと、しっくりこないどころか、拒否反応が出てしまうこともあります。気候変動は嘘と考える陰謀論が出回ったり、レジ袋廃止のような初歩的な施策でも屁理屈を並べて反対する人が出てきてしまったりするのも、根本思想を軽視しすぎた結果とは考えられないでしょうか。
自然に対して長いこと素晴らしいスタンスを取ってきた日本だからこそ、いま急激な世界の動きに乗っかれないという皮肉。この独特な自然観、個人的には大好きなので、なんとかしてこれを守りつつ別の方向からアプローチができないのかなと思っています。
最終的に取っていくべき行動は、科学に準拠して明らかにされているので、グローバルスタンダードと同じものでいいはず。だけど、その行動につながるマインド面やコミュニケーションは、思いっきりガラパゴス化すべきなのかもしれません。
「一人ひとりの心がけで地球を守ろう!」「今すぐ対策すれば間に合う!」と西洋と同じアプローチで叫ぶだけでは、嫌悪感や拒否感と隣合わせになってしまう状況からは抜け出せません。日本人に刺さるコミュニケーションが大切です。
自然を愛でて共生する、暮らし最優先のアプローチ
タイトルにした「日本が環境後進国になってしまった本当の理由」に端的にアンサーするとすれば、「日本に合ったアプローチ、コミュニケーションが必要なのに、それを誰も考えずに世界に倣おうとしてしまったから」となります。
地球を救おう!というアプローチでは日本はダメになるばかりだと、私は10年も前からずっと感じてきたのですが、何も変えられないまま本当にダメになってきてしまいました。力不足でとても不甲斐なく思っています。
実は日本人は、自然を愛でて共に生きていく心地よい暮らし方を古来から実践してきているという点では、どの国よりも優れているのではないかと私は思います。それはこの国の地方、とくに自然との距離が近い地域に多くあり、今もちゃんと残っています。
そういう暮らしの素晴らしさを全員が体験して、頭ではなく心で感じて納得して、誰に強制されるでもなく自ずとサステナブルな暮らしに向かえるようなマインドを磨くことこそが、日本では一番すんなり受け入れられるアプローチのような気がするのです。
マインドが変われば、ひとつひとつのアクションも「辛い我慢」ではなく「快適な選択」になります。せっかくリモートワークなどの追い風もある中なので、ローカルの価値を再発見し、自然との接点を増やしてライフスタイルの見直しから考えられる人が増えたらいいなと。人口集中や地方のサステナビリティの問題も、一気に解決していけるのではと思ったりします。
こういう考えに至ったのも、昨年までオーストラリアに住んでオーストラリア独自のアプローチを体感できたことが大きいです。
うまく言語化できないのですが、オーストラリアで起こっている環境系のムーブメントや人々のライフスタイルに滲み出る環境意識の高さは、世界や西洋のそれとは少し違うように感じました。なんというか、「自然への愛」がまず一番にきていて、それをベースに「現在」と「自分や家族」が軸にある感じなんです。西洋は愛とかではなくもっとロジカルで、「未来」の「まだ見ぬ誰か」にフォーカスしている気がします(あくまで私の主観)。
この話も、深めればアボリジニの思想などにも通ずる、永遠に話し続けられるトピックなので、このへんで。オーストラリアの環境対策はかなり進んでいますが、そこに至るまでのアプローチというかコミュニケーションの方法に、国民性に合わせたオリジナリティを感じたんですよね。
最近は、日本で環境について声を上げる人が増えれば増えるほど、私のなかの違和感が膨らんでいくばかりでした。「地球のために」と我慢する生活なんて誰もしたくないし、自分や家族を犠牲にする消費が持続可能であるとは思えません。それはまた新しい不毛な消費循環を生むだけで、早くもグリーンウォッシュのような形で表れはじめています。
人間はエゴでしか動けない生き物なので、自分が楽しくハッピーだからとした選択が、結果的に地球にもよいことになるように、行動の源泉となるマインドから変えていけたらいいですよね。
単純にグローバルに倣えばいいわけではないのが日本文化の難しく愛しいところです。ネガティブ排除ではなくポジティブ増幅の精神で、今からでも方向転換していけるよう、私も微力ながらやっていきたいと思います。