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夢中がつくる学び

研究授業を参観した。
講師の先生がおっしゃっていた「学習課題が子供達にとって、いかに考えたいと思えるか、知りたいと心から思えるか、という切実感をもっと大切にしていく必要がある」と柔らかに指導されていた。ポジ出しの文化の中で、講師という立場から、きちんと言うべきことは言うスタンスも大切にされているのだなと思えた。(それが全体の場で言うべきことかは、さておき)
「子どもたちに必要感や切実感のある課題」という言葉は、よく耳にする。学習指導要領や教科書で、ある程度学ぶべきことが決まっている中、どのように必要感や切実感を持たせていくかは、なかなかに難しいことだと感じる。そういえば、吉田先生の本があったなあと思い、読み直してみた。

吉田先生は、夢中になっている状態について

これは私の感覚ですが、夢中になっている時、人間の頭の中では次のページの図のように「インプット」と「アウトプット」が短いスパンで次々に繰り返されているイメージが思い浮かびます。
「やりながら次に何をしたらよいか、どんどん浮かんでくる感じ」というのでしょうか。アイデアが止まらない感じです。

P23

と述べている。
次ページにはリフティングを例にした図が載っており、あれをやってみよう、やってみたらこうだった、ここがうまくいかなかった、じゃあ次はこうしてみよう、とトライアルアンドエラーが繰り返されている状態が書かれている。
本の中ではそうした夢中を生み出すために、日常の授業で教師が意識するべきことやマインド、具体的な授業の中で使える技術や手立て、図工や国語、道徳などにおける実際の授業実践に触れられている。

個人的にこの状態は、チクセントミハイの「フロー状態」なのかなとも感じる。ミハイはフローに至る条件について明らかにしているため、吉田先生は、その理論を参照しているのか、それとも現場での経験をもとに生み出してきているのか、そのあたりが気になった。

自分自身の授業で、子どもたちが夢中になっているかと聞かれたら、「はい、なっています」と堂々と答える自信は全くない。というか、なってないのかもしれない。もしかしたら教師である私自身が、子どもたちが夢中になることよりも、学ぶべき指導事項に重きを置いていたかもしれない、夢中になる前にやることやってねという気持ちがあることも否めない、いや、やることやるのに夢中になってねだったかもしれない。児童にとっては学習計画を手渡されることによって学ぶことが作業的になっていたかもしれないし、やるべきことをこなすのに精一杯だったかもしれない。次々と「夢中じゃない」状態が自分の中に浮かんでくる。

ここで書かれる夢中は、いわゆる主体性ともニアイコールでいいんだろうか。子どもたちの声を聞きながら、授業についてどう感じているのか、考えているのか。自分の学級を丁寧に振り返っていく必要があるなと改めて考えさせられた。

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