バーチャルな転生、人生のやりなおし、私は私を供養したい
※この記事は、書き直し・推敲を随時おこない変更されていく備忘録のようなものです。
デジタルタトゥーという概念をご存知の方も多いと思います。
いわゆる今でいうところのバカッターですとか、やらかし、中二病、黒歴史……そういったあらゆる「消し去りたい過去」は、物理的な現実ならば引っ越したり人間関係を整理することで比較的忘れ去られてくれますが、インターネットではそうはいかない。一度自分に刻まれた「やらかし」は、HNを変えてもアカウントを変えても、どうしてか器用に自分に付きまとわってきます。
これは「やらかし」だけに限らず、肩書ですとか学歴、職歴、性別、成してきた物事すべてが自分に完全にリンクされて、どう足掻いてもつきまとってくる、この感覚を私は「嫌だなあ」と時々感じます。
私は、人生のほとんどは「選んだ」のではなく「選ばされた」「偶然そうなった」もので構成されていると考えています。
生まれ得た肉体(性別、容姿、声etc)はもちろんのこと、よっぽど若い頃から人生設計を綿密に組み立てて遂行してきた人でなければ、学歴や職だって、100%自らの希望で選び取ったものだと言い切れる人は少ないのではないでしょうか?
人は、自ら選んだと自信をもって言えるものについては、どれだけ批判されても反論したり耐えることが出来ます。
しかし、自分で選んだとは強く宣言できない、「気づいたら自分がそうなっていた」ようなものに関しては、批判の目に晒された時に非常に不愉快・不快な気持ちが溢れてきて、ときに自分の心に刺さり、そのトゲがずっと抜けずに自分の中で傷口が化膿していくことがあると私は感じます。最たる例が、未だにネットで一大論争を巻き起こす「男は/女は」論争。そんなの、自分で選んだわけないじゃないですか。それなのに「お前は女だから/お前は男だから」で語られるとき、私は大きな不快感を覚えます。
性別に限らず「○○人は」とか「XX年生まれ世代は」とか、あらゆる大きな主語に共通して感じる、あのモヤモヤした居心地の悪さ……
時代は巡って、今、空前の(?)バーチャル黎明期を迎えていますよね。
バーチャルの素晴らしいところは、私は、「自分のすべてを選択できる」ことにあると感じています。
容姿、性別、…もしかすると性別すら無いモノにだってなれます。無機物でもいい、植物だっていい。自分で考えた抽象的なオブジェにだってなれます。能力だって制限がありません。早く走れる、空を飛べる、ワープだってできる。遠くが見える、聞こえる、手から炎だって出せる!
自らその姿を選び、「これが私だ」と胸を張って言えるとき、そのとき自分に投げかけられる批判や中傷は、ようやく「反撃可能」「我慢可能」なものになると、私は感じるのです。しかも、バーチャルな肉体は、本来変更が難しかった部分だって簡単に変更できてしまう。「男だから/女だから」の批判に晒されるたびに「そんな、自分で選べない/変えられないことで文句言われても……」と耐えるしかなかった苦痛だって、可変的です。逃げようと思えば簡単に逃げられる。自分ではどうしようもない問題で傷つき続ける必要はもうない世界なのです。
同時に、性別が自由選択になった世界である以上、「男だから/女だから」の議論は従来の意味を失いますよね。「アバターが男だから/女だから」「中身が男だから/女だから」になっていくはずです。後者は少し、従来と同じ議論を引きずっていますが、これだってやがてボイスチェンジャー等の精度が上がれば推論の域から出ない無駄な水掛け論になっていくわけです。
技術の進歩と共に、私(たち)は、逃げられなかった苦痛から逃げることができるようになっていく。これは退避や逃避ではなく、無駄のカットです。悩む精神的コスト、時間的コスト、あらゆる無駄な議論のカット。
私が夢見ているのは、ひとりの人間から、性別を、声を、美醜を、年齢を、ありとあらゆる肉体的・物質的制約を削ぎ落として、最後に残った、知識、技能、人間性、精神性……人間の「コア」の部分、そこで「私」を評価してもらえる世界です。
本来なら肉体を持っていても評価されるべき・評価されうる部分ではありますが、今はまだ肉体が少し邪魔をしているように感じます。この評価の目を万人が持つことを期待するよりも、私はバーチャルのちからを借りてその世界が実現する方が簡単だと思っています。
(起承転結もなく締めも無いですが、とりあえず思考の備忘録として)
2018/4/15
メモ:まだ主に声や触覚という点において、完全な新しい肉体を手に入れるのは難しい。
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