今年の読書録④「魔の山」
高橋義孝氏訳による新潮文庫版、分厚い上下2巻。
作者はドイツの巨匠トーマス・マン。
舞台はほぼ一貫して、スイス山上の療養施設。
この地にむけて、主人公のハンスがひとり狭軌鉄道に揺られている場面から、長い小説は始まる。
この施設内での、あまり大きな起伏のない人間模様が、この小説のおおまかな内容といってさしつかえないと思う。
あまり起伏のない、とはやや控えめな表現であり、これを読んだことのある人なら一緒に頷いていただけると思うのだが、もっと直截に「退屈な内容」だと言って、ノーベル賞作家は怒るだろうか。
「私たちはこの物語を詳しく話すことにしよう、綿密かつ徹底的に。――というのも、物語のおもしろさや退屈さが、その物語の必要とする空間や時間によって左右されたことがはたしてあっただろうか。むしろ、私たちは、綿密すぎるというそしりをも恐れずに、徹底的なものこそほんとうにおもしろいのだという考えに賛成したい。」
まえがきに記された一文にも、「退屈」というワードがある。
また、「空間」「時間」は、作中に何度も出てくる単語であり、とりわけ「時間」こそ、この小説の最大のテーマ、むしろ裏の主人公といって過言ではない。
わたしに言わせれば、このまえがきで宣言されている通り、「退屈」は意図されたものであり、むしろこの作品は、極言すれば「徹底的に退屈を強いる小説」でもある。
これはすでに功なり名を遂げたマンが、自分の過去の実績を振り返りつつ、小説作りに抱いていたある不満——あるいは疑念——が原動力となってそのような志向となり、完成まで11年という歳月を費やすまでになったのではないか?
その不満、疑念とは、小説に限らずであるが、あらゆるドラマ作りに欠かすことの出来ない「時間の省略」である。
退屈を避け、面白さを際立たせるための「省略」。
あらゆる劇作家や小説家がこの手法を無反省に繰り返すが、作家として油の乗り切っていた時期にあっても、マンはそうではなかった。
物語にあって、現実と同じような時間の流れ——それは決して劇的でなく、まったく気の遠くなるようなゆったりさで、しかし振り返ればあっという間にも感じる人生——そのものを小説で表現できないか。
そのためには……病人たちが療養するサナトリウム、これはうってつけのロケーションではないか——とある日のマンはひらめいた——というのがわたしの想像で、とまあア、そのくらい長くて退屈な、「なかなか終わらない」小説であった。
イタリア紳士のセテムブリーニが、仰臥するハンスの部屋の電灯をつけるといった、とりわけドラマチックでもないシーンや、作中のヒロインともいえるクラウディアが扉の開け閉めに立てる大きな無作法な音など、なぜか反復されるイメージが、わたしには20世紀的で面白かった。
とにかくこの長さに耐えぬいて結末にたどり着いたすべての読者は、例えば「小説の面白さ」や「人生の喜び」といったありきたりの言葉について、少し慎重になるのではないか。