今年の読書録⑤ 「大いなる遺産」
この長い物語は、イギリスの片田舎の墓場から始まる。
東京屈指の墓地の町、府中市紅葉丘に生まれ育ったわたしにとって、これはなかなかそそられる冒頭である。
ただ、子供のころの多磨霊園がいつも陽光にあふれ、常に乾いた風が吹いていたのに対し、主人公の少年の故郷であるテムズ川下流のこの墓地は、ひどくじめじめして、薄暗く、もの寂しい場所であった。
英国の文豪ディケンズによるこの小説は「教養小説(ビルドゥングス・ロマン)」とカテゴライズされるようだ。はからずも直前に読了したトーマス・マンの「魔の山」もこれに類するようであるが、作家のお国柄や発表年を度外視したとしても、構成も肌触りもずいぶんと違う。
そこは置いておいて、二つの小説の共通する部分を思い付くまま箇条書きにしてみれば、
・主人公が男である
・物語の中心は就労前のエピソードに占めらる
・恋は成就しない
とまあ、こんなところであるが、もう一つ、
・結末で、人生の新たな一歩を踏み始める
というポイントが挙げられる。
以上をもって「ビルドゥングス・ロマン」とする、とはむろん言えないのだろうが、意外にいいセンいっているのではないか? という気がしないでもない。
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分類ということにこだわれば、この小説はかなりマンガチックである。
物語の端緒、少年は墓場でひとりでいるところを見知らぬ男に乱暴に捕らえられる。
この男は脱獄囚で、少年を脅迫し、恐怖を植えつけ、食料とヤスリ(足枷を外すため)を持ってくることを約束させる。少年は家に帰り、命じられたものをこっそり盗み出し、苦労してこの脱獄囚の与えるものの……、と話は続く。
まるで低俗な低予算のアメリカ映画か、週刊誌の連載マンガのような話ではないか。
サーヴィス過剰気味で、作者は読者の興味を引くことと、物語を長く引っ張ることしか念頭にないのではないかと訝しくなる。
この少年の家は貧しく、母親代わりの姉というのが強烈な暴君で、もしこの貴重な食料の紛失に気付いたならば、どのような災厄が少年に降りかかるか分かったものではない。
物語作者はここで、さらに面白いお膳立てを企てる。この日をクリスマスという設定にし、この食卓にさまざまな、個性豊かな客人を揃えるのだ。
場面として面白くならないはずはなく、楽しい混乱を予期する読者にとってのワクワクは、高まるばかりである。
これはどちらかというとマンガ的というよりは、さすがイギリス、まさに演劇的とわたしは唸った。
エンターテイナーの面目躍如、時代を超越した流行作家、これぞ英国代表C・ディケンズの真骨頂だろう。
登場人物の多くも類型的で、主要人物のひとりである大金持ちの老婆は、豪壮な屋敷に花嫁衣裳を着たまま暮らしている。これなんかまったくマンガ的表現で、ディケンズが現代日本に生まれていたら小説なんか書かずに、マンガ家になっていたのではないか?
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怪奇趣味、ミステリー風の筋運び、跳梁する悪漢、素朴と善、冷たい美女、貧困の悲惨、莫大な遺産のゆくえ、泣けるせりふ、スリリングな展開、隠された血縁、どんでん返し。
そもそも、子供が主人公であること。
エンターテイメントとしての要素に満ち満ちているが、それでもこの小説を小説たらしめている最大の要因は、一人称によるストーリーテリングという点であろう。
私たちの故郷はくねくねと流れるテムズ川の下流の湿地帯で、海まで三十キロほどあった。生まれて初めて物事のあり方を幅広く認識いあたのは、忘れられないほどひどい天気の、ある夕方だったと思う。(加賀山卓朗氏・訳)
この主人公による自分語りというスタイルによって、少年期の郷愁、または青年期の悔恨といった心の痛みが、その口調に微妙に見え隠れし、大きな魅力になっていると思う。また、随所に光るロンドンや田舎町の風景描写など、エンターテイメント性とはまた別の楽しい側面も捨てがたい味である。
そして大きな痛みを経ぬ成長はあり得ないとばかりに、物語は苦い結末をもって終わる。
故郷から始まるすべての物語は、かくあるものなのかも知れない。
(了)
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