見出し画像

『ナポレオンに背いた「黒い将軍」』革命に咲いた黒い薔薇



18世紀、有色人種とりわけ黒人がその肌の色のみで差別され、奴隷として働かされていた時代に、ヨーロッパで一兵卒から将軍にまで上り詰めた有色人の男がいた。180センチを超える体躯(当時としてはかなり大きい)とハンサムな容貌の持ち主であったという。そして、その美しい肉体の中には常人では及ぶことの出来ない勇敢さと情熱を、また公正で高潔な精神を宿していた。男は自らをアレックス・デュマと名乗っていた。本名はトマ=アレクサンドル・ダビィ・ド・ラ・パイユトリ-という。 



彼はフランス人貴族と黒人奴隷の女性との間にできたムラートであった。自由、平等、友愛を謳うフランス革命に共感し革命の擁護者として、その軍事的才能を発揮し敵であるオーストリア兵からは「黒い悪魔」として恐れられた。


デュマは人種的差別が公然と行われていたヨーロッパで白人将兵の指揮をとり、彼らから信頼と尊敬の念を勝ち取っていた。祖国フランスが、肌の色で人間を評価するのではなく、その精神と能力で評価する時代が来ることを求めて彼は闘った。しかし、革命という激流は彼を忘却の彼方へと押し流してしまった。


アレックス・デュマは1762年にフランスの植民地サン=ドマング(現ハイチ)に生まれた。父は貴族の息子であったのだが、砂糖のプランテーションで成功し、大富豪となっていた弟とのいざこざなどで身分を偽ることを余儀なくされ、サン=ドマングの高地に隠れて暮していたという。


植民地のプランテーションでの黒人奴隷の悲惨な生活については様々な本などで読むことが出来るのでここでは省くが、当時のサン=ドマングでは黒人にも希望が持てる法律が存在していた。「黒人法典」がそれだ。


当時のヨーロッパの多くで黒人が法の枠外の存在だったのに対し、フランスでは黒人を法制度の中に取り入れる試みをしていた。これは黒人奴隷の権利と人権を保護することは出来なかったが、白人との混血児に僅かな希望を与える法律であった。


この法律では白人と黒人との内縁関係を禁止し、内縁関係によって生まれた混血児を奴隷身分とする条項が盛り込まれているが、免責事項として、内縁者が独身かつ、その後教会法に基づき婚姻関係を成立させた場合、2人の間に生まれた子を自由で嫡出としてみとめる、としている。サン=ドマングでは、これらの混血児が急速に富裕化していったという。サン=ドマングでは裕福なムラートの知識人階級が誕生しつつあったのだ。


父はフランスに帰国し爵位を相続する際の渡航費を工面するため、一時的にデュマを奴隷として売り払う。その後、買い戻されフランスに渡る。父は遺産の多くと多額の借金を注ぎ込んで、デュマに優雅な生活をさせ、高等教育を施していく。


しかし、父が若い女と再婚したのをきっかけに、親子の中は疎遠になり、デュマは父方の貴族の名前を捨て、母の姓であるデュマ姓を名乗るようになる。そして、兵卒として竜騎兵隊に入隊するという道を選ぶ。たとえ有色人であっても貴族の子弟が、士官にならないことは当時として異例な事であったという。


フランス革命の混乱の中で数々の武勲を立てたデュマは、わずか一年で伍長から将軍へとのし上がっていく。ただし革命の中で将官として生きるのは非常に危険な事でもあった。兵士たちは旧来の身分が急速に崩れるのを目の当たりにし、士官たちに対し恐ろしいほど反抗的になっていた。兵士に殺害される士官も多々いたという



また当時はジャコバン派が幅を利かせ、公安委員という機関が中央から各方面軍に派遣委員と呼ばれる男たちを派遣し、将官を監視し、軍を統制していた。「恐怖政治の大天使」と呼ばれたサン=ジュストのような男たちが、敗北した将官を次々にギロチン送りにしていた。デュマは公安委員と衝突を繰り返いしながらも、心からの革命への情熱と誠実な人柄で、委員会から派遣された男と友情関係を構築し、巧みに恐怖政治を生き延びた。しかし、英雄的な戦果と名声に包まれた彼も、やがては全てを失う事になる。ナポレオンの台頭によって。 


同じく革命の混乱に乗じてのし上がったナポレオンはやがて自らの存在を、ただの将軍以上のものへと変貌させようとした。配下の将軍たちに個人的な忠誠を誓わせようとするナポレオンにデュマは公然と不快感をあらわにした。


二人の仲は急速に悪化し、エジプト遠征中に修復不能なまでになる。デュマはナポレオンと袂を分かち、エジプトから引き上げる。だがその際に運悪く、ナポリ王国で捕虜となってしまった。デュマは二年の虜囚生活で健康を害してしまう。彼がナポリから解放され、愛する妻が待つ祖国に帰ったとき、彼を迎えた祖国は別物になっていた。デュマは全ての公職から退けられる。ナポレオンは彼の名前を口にする事さえも禁じた。


ナポレオンは黒人及び有色人の権利を次々に奪い、有色人の議員は力を失っていた。デュマの故郷サン=ドマングはナポレオンの軍により蹂躙された。サン=ドマングは革命の中でも、本格的に独立することなく、自らをフランス共和国であると位置付けていた。しかし、有色人の革命家トゥサン=ルヴェルチェールにより奴隷制度が廃止されていたのだ。ナポレオンはその状況を許さなかった。


膨大な富を生むこの島に再び奴隷制を復活させようとしたナポレオンはトゥサン率いる軍と熾烈な戦闘を行う。各植民地で多くの黒人や有色人が殺され、生き延びた者は奴隷として売られた。逃げ延びた人々は、いま一度、頸木に繋がれるくらいならと自死を選んだ。その中にはかつてのデュマの部下もいた。人種差別に基づく奴隷制を撤廃する実験は失敗に終わった。


苦難と希望の予感に満ちた少年時代を送り、華やかな社交界で過ごした青年時代を経て、革命の混乱の中、白人女性と恋をし結ばれ、革命に身を焦がし、希望へと突き進み、栄光と自由と権利を勝ち得たデュマの人生は、その伝記を読む者の胸中をも燃え上がらせる。


しかし、後半の顛末はデュマの生き様が大きく胸に響いた故に、より一層寂しさを感じさせる。本書を読むだけでさえそうなのだ、渦中のデュマ本人や家族はなおさらであったろう。デュマの息子は長じて、父の無念を名作『モンテ・クリスト伯』の中で見事に再現しているという。そう、作家アレクサンドル・デュマはアレックス・デュマの息子なのだ。


彼は忘れ去られた男だ。少なくとも、『三銃士』、『モンテ・クリスト伯』などを著した息子のアレクサンドル・デュマや『椿姫』を書いた孫のデュマ・フィスより知られていない。そのため彼の足跡をたどる事は容易でなかったようだ。著者は資料収集のために訪れた、デュマの妻の故郷ヴェレル・コトレで、官僚組織の弊害により開かずの金庫になってしまった博物館の金庫をかなり苦労しながらも開けさせる事に成功する。本書は忘却という名の扉をこじ開け、革命の中で花開いた一人の男の人生に、いま一度、脚光を当てようとした意欲的な伝記である。







 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?