見出し画像

『レックス』人と犬の絆


以前に『世界の軍用犬の物語』という本のレビューを書いた。この本を読んでいて気づいたのだが、現代の軍用犬は地雷探知犬や爆発物探知犬、または捜索犬などが中心であり、軍用犬と軍犬兵(ハンドラー)は軍隊という殺戮を主目的にした組織において、人命を救うことに主眼が置かれた兵科だということだ。特にイラク戦争のように無統制な武装勢力やテロリストが暗躍する戦場では、軍用犬は兵士の命を救うに止まらず、多くの市民の命を救っているのである。戦場で自らの肉体と命を盾にして人命を救う軍犬兵と軍犬の知られざる実態を本書で知ることができる。


現在では数年間にわたって続いた、イラク、アフガニスタンでの経験から軍用犬部隊の重要性が再認識され、部隊の増設や能力の向上などが世界中の軍隊で行われている。だが、本書の著者にして元海兵隊の軍犬兵だったマイク・ダウリング伍長がイラクの地に降り立った2004年当時はアメリカの軍用犬チームが最前線に派遣されるのはベトナム戦争以来という状況であった。


ベトナム戦争で培われた、実戦時の軍犬の運用方法などはすべて失われていた。ベトナム以降、初の前線任務を背負わされたダウリング伍長たちは実戦向けの訓練も運用システムもないまま、「モルモット」として戦場に向かうことになる。


ダウリング伍長と相棒レックスが赴任した部隊は第二海兵隊師団第二大隊。担当地域は当時もっとも危険地域とされていたマハモウディア、別名「死の三角地帯」だ。マハモウディア基地では指揮官以下、誰もが軍用犬を前線でどのように使用していいのか理解できず、ダウリング伍長とレックスに与えられた仕事は検問所での歩哨のみであった。


これは簡易爆弾という卑劣な手段で失われる、マリーン(海兵隊員)と大勢のイラク市民の命を救いたという情熱に突き動かされ、末期がんの父の最期を看取りたいという個人的な思いすらもねじ伏せて、イラク派兵に志願した彼には耐えられない状況だ。彼は直接の上官をすっ飛ばし、司令部付の下士官にパトロール任務の同行を依頼し、自ら任務を作り出していく。その姿勢には信念をもって仕事に挑む者の姿を見る事ができる。


パトロール任務の過酷さは本書の一番の読みどころだ。ベトナム以来、初の前線任務である。マニュアルや作業手順は存在しない。初のパトロールでダウリングは最初の一歩が踏み出せなかった。爆発物を探す軍用犬は、その犬独特のしぐさや、表情で軍犬兵にシグナルを送る。レックスからの微かなシグナルをも見逃さないために、ダウリング伍長は犬に全神経を集中させなければならない。


周囲をイラク人の群衆が取り囲む。群衆に紛れ込んだテロリストは電話をかけて爆弾を起爆させるタイミングを図っている。また狙撃等の攻撃からいち早く身を守るためには群衆にも目を向けねばならない。敵意と好奇の眼差しにさらされ、疑心暗鬼のダウリング伍長は身動きが取れなくなる。だが、マリーン数人が、背後から彼を援護してくれることになり、彼は進む勇気を取り戻す。簡易爆弾とそれに続く一撃離脱の待ち伏せという、見えざる敵との戦いに苦しむアメリカの姿を、ダウリング伍長の目を通して再確認させられる。


爆弾や狙撃の恐怖以外にも、現地でなければ知りえない様々な問題が存在する。イラクの日中は気温が摂氏50度以上になる。毛皮に覆われ、足の裏と舌からしか発汗できない犬には過酷な環境だ。注意を怠れば、犬は熱中症で死んでしまう。また、野犬の存在が常に悩みの種だったことがわかる。野犬は縄張りによそ者が入り込むと群れで襲ってくる。彼とレックスが経験したこれらの戦闘報告が後の軍用犬運用に大きく役立てられることになる。


レックスは銃撃音や爆発音に過敏な性格だ。ダウリングは銃撃戦の際にレックスがパニックに陥り制御不能になることを恐れた。何度も経験することになる銃撃戦でダウリングはレックスを傍らに引き寄せ、耳の後ろを撫でながら、「大丈夫だ!」と励まし、防弾チョッキを着用した自身の体を盾にレックスを庇い続ける。その思いを察し、不安に慄いた眼差しを向けながらも、耐え抜くレックス。


そんなレックスが爆弾捜索のときは、自信に満ち溢れた眼差しを向ける。その瞳が爆死の恐怖のため、胃が焼けるようにムカつき、足が竦むダウリングを任務へと駆り立てる。軍犬兵と軍用犬の絆の強さはお互いの命を預けあうほどに深い。彼らは、揺るぎないパートナーとの信頼関係を武器に、驚くような成果をあげることができたのだ。


戦場経験を描いたノンフクションには人間の善悪美醜、様々な物語が織り込まれている。イスラム教徒は犬を不浄の動物として嫌う。だが、レックスを見て目を輝かせるイラクの子供たちは好奇心に溢れ、どこまでも純真だ。銃撃戦の後のささくれ立った兵士の心をレックスが癒し、大隊とレックスの間に信頼関係が生まれていく。生物は種さえも超えて、信頼を築くことができる。それを人同士の戦争で発見する皮肉。アメリカとイラクの懸け橋になろうという志も持ち、米軍に協力したイラク人が過激派により殺されていく現実。イデオロギーとはどこまでも純粋で排他的でそして残酷だ。胃が焼け付き、恐怖心が汗の玉となって吹き出る爆弾捜索と無慈悲な銃撃戦。その中で人々が見せる、勇気と怒りと恐怖心。


本書はこれらの出来事を決して重くない文章で描いている。それがより戦場の日々を現実的にしている。また臨場感ある訳も素晴らしい。翻訳者の加藤喬の来歴を見て納得した。彼は元アメリカ陸軍の大尉で湾岸戦争にも参加していたという。軍という組織と戦場というものを自らの問題として実感できる者による訳だ。本書は名軍用犬、レックス。有能な軍犬兵、ダウリング伍長。そして元アメリカ陸軍大尉の翻訳者、二人と一匹の相乗効果により紡がれた、優れたノンフィクションだ。







いいなと思ったら応援しよう!