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腕を焼かれたYさんと私。
「MARGINAL NOTE : 周辺から考えたこと」の補足として
腕を焼かれたYさんが私の務める会社に入って来たのは、私が2号機のラインリーダーをしていた時だ。Yさんはリフト通路を挟んだ向かい側のラインに配置された。細っそりとした体型で背が高く、ロン毛の髪型。普段はマスクをしている事が多く遠目からは20代前半に見えた。同じ班内とはいえ、ラインが違うことから、しばらく言葉を交わすことはなかった。
当時かなり過酷な労働環境だった私の会社では派遣社員の在籍日数が短く、若い彼が長く続くはずもないように思えた。それが会話をする気になれなかった要因のひとつでもある。ただ、職制の人が「久しぶりに仕事ができる日本人の派遣が入ってきた」と喜んでいたので「できる子なんだな」という印象はもっていた。
Yさんが入社してから半年ほどたった頃、私はある上司と喧嘩をした。無論、手は出していない。口論から怒鳴り合いになり、最後はこちらが一方的にまくしたてた。口論の内容は覚えていない。当時は常態化する長時間労働や、課せられる効率化のノルマなどで、社員全員がストレス過多の状態だった。ストレスは人を攻撃的にする。外に攻撃性を向けられない者は自分に、私の様に外に向ける事を厭わない者は外に。社内の空気はピリピリし、口論や喧嘩、うつ病や自傷行為が絶えなかった。
上司は大勢の部下の前で一方的に罵倒された事を根に持ったのだろう。私は作業者に降格された。さすがに一方的に罵倒した事は大人気ないと反省したが、元来、喧嘩っ早い性格なのだ。持って生まれた性格を変えるのは難しい。こうして私はYさんが配置されていたKラインの検査員として、翌日から働き始めた。
まず、驚いたのはYさんの年齢だ。若く見えていたが、実際は私とほとんど変わらなかった。そして気さくで話しやすく、ノリが良かった。年齢が近いこともあり、Yさんとは話しが合った。ライン作業は退屈な仕事で朝から晩まで同じ行動の繰り返しだ。経験した者なら分かると思うが、時間の流れが恐ろしいくらい遅くなる。1時間は経っただろうかと思い、時計を見ると15分しか進んでいない。そんな事の繰り返しだ。黙々と作業をこなしていると、拷問のようにすら感じられる。
そんな中で話し相手がいるのは救いになる。Yさんと話す事はたわいのない内容だ。まぁ、高校生の男達が話すような内容だったと思ってもらえればいい。好きな車、むかし乗っていたバイク、ナンパした女の子の話し、現役で不良だった頃のヤンチャ話などだ。
Yさんは頭の回転が早く、次々とテンポよく話しをチャカし、笑いを誘った。関西出身者らしく、ボケもうまかった。人は社交するよう進化した動物だ。話し相手がいるだけで、かなりライン作業の苦痛が軽減された。私は彼のお陰で随分と救われたと思う。
当時、私たちが作業していたKラインでは、カラクリと俗称で呼ばれる機械があり、これがたびたび故障した。Yさんの受け持つ作業場に設置されていたため、彼の作業が滞ることが多く、Yさんは職制に改善を何度も要求していた。先ほど記したように当時は社内にピリピリしたムードが流れており、職制もついついカッとなってしまったのであろう。Yさんに対し「そんなにうるさく言うのなら、直してなんかやんねーよ。派遣のくせに」と怒鳴り返してきた。Yさんは派遣社員ということもあり、黙りこんでしまったが、私はその失礼な物言いが我慢でなかった。そもそも、異常対応が彼らの仕事のメインであり、それを放棄するかのようなことを放言し、且つ非正規労働者という立場の人をあからさまに差別するような言い回しが許せなかったのだ。
今回ばかりはクビになるのを覚悟で、殴り合いの喧嘩をしてやろうと職制に詰め寄った。彼はマズいと思ったのか土下座せんばかりの勢いで平身低頭し平謝りの一手を打ってきた。気勢をそがれた私はとりあえず、いくつかの悪態をつくだけで矛を収めざる得なかった。しかし、その事件をきっかけにYさんと私はかなり打ち解けた関係になる。
Yさんは暑い夏でも常に長袖の作業着を着ていた。私の会社では刺青をしていてもOKなのだが、仕事中は見せないようにと指導される。腕に刺青をしている人は夏でも長袖を着用していた。私はYさんも腕に刺青を入れていると思い、見せてくれるように頼んだ。
Yさんはニコニコしながら袖をまくり「これ、刺青じゃないんですわ」と見せてくれた。その腕にはびっしりと火傷の跡があった。父親にライターで腕を焼かれたのだという。彼の父は気に食わないことがあるたびに、腹いせにYさんの腕をライターで炙った。Yさんは「最初の頃は泣いたけど、痛みにはすぐになれたよ」とニコニコという。ただ、治療してもらえなかったので傷が膿み、なかなか治らなかった。腕に膿んだ火傷が何か所もあれば、直ぐに虐待を疑われる。Yさんはそのために小学校に通わせてもらえなかった。それが一番つらかったと語っていたのが印象的だった。きっと孤独な少年時代を過ごしたのだろう。
いつも陽気なYさんであったが、会話が人生のこと、将来のこと、家族のこと、に及ぶと投げやりでネガティブな発言が増えた。彼の父はもう何十年も前に亡くなっているのだが「もし生きていたら、俺が刺殺しにいってたよ」とも言っていた。結婚する気もないし、家族もいらない、就職もしたくはないと言っていた。Yさは自分の人生に対し、投げやりというか、自暴自棄のような感情を抱いているようであった。
このようにYさんの心の奥にある深い闇を垣間見たような気分になることが時々あった。仲が良くなれば良くなるほどその頻度が増えていった。そんなある時、Yさんが出し抜けに「長居し過ぎたかもしれない」と呟いた。それからYさんはしばしば仕事を無断欠勤するようになった。ただ、慢性的な人手不足の状態だったのですぐにはクビにならなかった。
そうこうする内に、私はKラインとは反対側にある4号機のラインリーダーとなり、たまに出勤するYさんと顔を合わせ話をする機会も減っていった。しばらくして彼は無断欠勤が理由で解雇された。別れの挨拶を交わす事もなく。
明るく人懐っこい人ではあったが、そう振る舞うことは彼の防御反応だったのかもしれない。明るく陽気に振る舞うことで表面的な付き合いに徹し、他者を心の奥深くに寄せ付けないようにしていたのだろう。他ならぬ私も、他者を心象風景の奥深くに踏み込ませないようなところがあることを自覚している。
Yさんはもう10年以上派遣社員として各地を転々としてきた。今もどこかをさすらうように生きているのだろうか。私がもう少し他者の心の中に深く入り込む術を心得ていたなら、Yさんの心を開くことができたのだろうか。そうすれば、彼は今も共に働き、この地に根を下ろしていたのかもしれない。考えても仕方ないことだと分かっているが、時々そんな考えが頭をよぎる。