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『アウグストゥス』神の息子アウグストゥスと人間オクタウィアヌス



漆黒の闇の中にたたずむ軍装の男は、右手を掲げ何かを指さしている。自信に満ちた視線は男が指さす先に向けられている。男が何を指さし見つめているのか、今となっては知るすべがない。本書の表紙に写るアウグストゥスは二千年以上老いることも朽ちることもなく、この男の威厳を今に伝えている。この大理石の彫像はローマにあるバチカン美術館に収蔵されている。彼の妻が隠居していたプリマポルタのヴィッラ後から発掘されたため、プリマポルタのアウグストゥスと呼ばれている。


 


この表紙のシンプルなデザインが、アウグストゥスという人物の持つ、栄光と明晰な頭脳。そして、冷酷さと狡猾さとを見事に浮き彫りにしているように、私には思えた。彼の「陰」とでも表現したい雰囲気をうまく再現した装丁を眼にしたとき五千円を超える高額本と知っても、買わずにいられなかった。私にとってこれは、それほどの魅力ある装丁であった。


 


オクタウィアヌスはローマ帝国を語る上では外すことのできない重要な人物なのだが、ローマ文明が崩壊した現代ではどこか影の薄さを感じさせてしまう。カエサルの暗殺という悲劇により歴史の表舞台に引き出された彼は、まだ18歳の若者だった。彼は自身がカエサルから受け継いだ正当な権利を守るため、ささやかだが確固とした信念と、冷徹なまでの現実認識を持って政治闘争に乗り出していく。そして、気づけばカエサルが構想し、夢見ながらも成すことの出来なかった、「世界帝国」を築くことになる。


 


歴史は様々な視点で見ることができる。アナール学派のように経済学、統計学、人類学などを積極的に取り入れ、民衆の文化や社会全体の「集合記憶」のようなものに重点を置く歴史の見方もあれば、戦争や政治などの事件を中心に歴史を紐解いていくアプローチもある。説明の必要もないことだが、本書のような伝記は人間そのものにスポットを当てている。まさに人間を中心にしたドラマだ。


 


そして本書の主人公であるオクタウィアヌスはこの人間ドラマの主人公としてはうってつけの人物だ。彼は演劇を愛し、自宅の一室に俳優のフレスコ画を施していた。それだけではなく、伝わっている最期の言葉が、「人生という喜劇で、私は自分の役をうまく演じきれただろうか?」というものだ。彼は自らの人生を一つの喜劇として認識し、歴史という表舞台で、己に与えられた役目を積極的に演じてきたことが窺われる。それは彼が思いがけない遺言により、カエサルの後継者として、詐術と欲望とが渦巻く血塗られた政治闘争へと足を踏み込んだ、18歳の頃より感じ続けていた人生に対する実感であったのではないだろうか。


 


著者のアントニー・エヴァリットは本書を通して、人間オクタウィアヌスに焦点を当てて行きたいと、まえがきで述べている。そして、それはオクタウィアヌスの半生のライバルであった、アントニウスの人間性にも鋭く迫ることでもある。


 


 


 


“二人の人柄はまったくといっていいほど対照的だった。オクタウィアヌスはしばしば病気の発作に悩まされたのに対し、アントニウスは丈夫で文句のつけようのないほど健康だった。オクタウィアヌスは義務感が強くて節制を怠らなかったが、アントニウスは大酒飲みで、必要に迫られたときしか必死に働こうとはしなかった。 オクタウィアヌスは計画性があって物事を系統立てて進めたが、アントニウスは直観的に物事を処理した。オクタウィアヌスは自分に信頼を寄せる人々に非常に誠実だったが、アントニウスは簡単に人を裏切った。オクタウィアヌスは協定を破ることも多かったが、アントニウスは約束をはたした。”


 


 


 


オクタウィアヌスは身内に誠実であったが、必要ならば協定などあっさりと無視する。セクストゥス・ポンペイウスと三頭政治の同僚レピドゥスはオクタウィアヌスの協定違反により失脚し、または滅ぼされた。彼はアントニウスとの協定も幾度となく破る。アントニウスはそんなオクタウィアヌスに対しても協定はきっちりと守っている。だがアントニウスは同僚、部下などの個人的な関係では気まぐれなことが多く、簡単に人を裏切っている。二人の人柄を対比していくことで彼らの個性が浮き彫りになるだけではなく、心の奥に潜む複雑な人格のひだまでもが見えてくるような気がする。


 


二人は共通する性格も持ち合わせている。残酷さと冷酷さだ。彼らは敵に対しては、どこまでも残酷に容赦なく挑む事ができた。この本能に根差した冷酷な攻撃性があったからこそ、内戦の世で2人は生き残り、対決することになったのであろう。


 


一方でオクタウィアヌスは内戦に勝利し権力を掌握してからは、見事な変身をとげている。彼は政敵に融和政策をとり、言論の自由を保障し、批判者の口を権力によって塞ぐことはしなかった。彼は血塗られた政治闘争で発揮した攻撃性を、冷徹な理性によって抑えることのできる人物だ。本書の後半は、その理性が家族を政治の手駒として扱うという、極めて冷酷な行動へと転化していく記述が多くなる。苦しむ「神の家族」へと物語の軸足は移る。


 


伝記を書くことは、対象人物と会話を交わすことに他ならないだろう。膨大な資料に埋もれ、その中から対象人物やその周辺の人々の性格や人間性、思考などを読み解き理解しようとしたとき、作家はそれらの人物と、時間と空間を超え深く対話し、時には友と言える存在にまで、身近に彼らを引き寄せているのであろう。伝記作家が文章をタイプするとき、部屋の隅の暗がりに彼らが現れ、作家は歴史上の人物と静かに、だが激しい会話を交わす。そんな光景が目に浮かぶ。


 


とはいえ、伝記作品をどれほど読んでも私たち読者の前にオクタウィアヌスが現れることは無い。それは、読み込む資料の差であり、また、その中にどこまで没入できるかの違いであろう。伝記作品を読んで私たちが見る事が出来るのは、作家と歴史上の人物との会話にすぎない。だが、その会話は十分に耳を傾ける価値のあるものであり、そして歴史の彼方に消えた人々と対話をすることのできる、稀有な人種である伝記作家たちの存在に触れ、彼らのようになりたいと心躍らせる体験である。そこにこそ伝記の面白さがある。


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