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『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』国民国家の溶解



本書を読むまで私はイスラム国が数多くあるジハード集団のひとつだと勘違いしていた。今、中東でおきている出来事を理解する上で、間違いなく本書は読んでおくべき一冊だ。


まず驚かされることは、イスラム国は自爆テロ一件ごとの費用にいたるまで詳細に記録し、高度な会計技術を駆使した、収支報告書を作成しているという点だ。無論、過去にも「テロ」という行動を巧みに使い、経済的に成功してきた武装組織は存在する。PLOなどもそのひとつだろう。


しかし、彼らがこれらの武装組織と違う点は、シリア内戦の混乱を利用し巧みに経済的な自立を果たした点にあるという。多くのテロ組織は複雑な国際関係の中で、いずこかの国々から経済的な援助を受け、いわゆる代理戦争の「駒」として行動している。当初はイスラム国もそのような組織のひとつだったのだが、彼らは援助された資金を、援助国が望む勢力の攻撃に使用せず、自らの国家建設のために使用していたという。


彼らはシリアの正規軍との戦闘を避け、装備が貧弱なその他のジハード集団が支配する油田地帯を次々に攻撃、支配することにより、いち早く経済の自立に漕ぎつけている。アルカイダ系の組織も含め、多くのテロ組織がある種のロマンティシズムに酔って、代理戦争の駒として様々な国に利用されているのに対し、イスラム国は徹底的なリアリズムを行動原理にしているようだ。


アルカイダは中東からあまりにも遠い、アメリカを相手に第二戦線を開いたことが失敗だと著者はいう。一方で、イスラム国はスンニ派サラフィー主義による、カリフ制国家建設という行動目標を定め、明確な領土的野心を持ち、主敵をシーア派及び、彼らの主張に賛同しないその他のスンニ派組織に定めている。


ただし、厳格主義を標榜しつつも、彼らは、ただの狂信者ではないようだ。タリバンなどが狂信的なイスラム主義により、音楽やダンスといった娯楽まで禁止し、ポリオワクチンなどに懐疑的な意見を述べていたのに対し、イスラム国は支配地域の子供たちにポリオワクチンの接種を行うなど、近代技術の導入に積極的なのだ。また彼らは軍事部門と非軍事部門が明確に分かれ、支配地域のスンニ派住民のコンセンサスを得ようと、行政組織としても、うまく立ち回っているという。戦争や内戦で破壊され、復旧されることのなかったインフラが彼らの手で再建されているのである。


イラク、シリアのスンニ派住民は、長い混乱の中でついに頼もしい政治勢力が台頭してきたと感じているという。イスラム国が目指すカリフ制国家とはタリバンなどが夢見た、中世的な世界ではなく、近代国家たらんとする意志が感じられるというのである。


しかし、近代国家を目指す彼らが、なぜシーア派住民の虐殺を繰り返すのであろうか。そもそも彼の虐殺を正当化している理論に、タクフィール(背教者宣告)があるという。これは第三代正統カリフ、ウスマーン暗殺の前年、六五五年に勃発したムスリム同士の第一次内乱に端を発する。預言者の直系であるアリーを支持するシーア派が、スンニ派が支持するウスマーンを背教者とみなしたのだ。これ以来、彼らはお互いに背教者宣告を繰り返してきた。


物質世界と神秘的世界が不可分に絡み合うイスラムの世界では背教者であることは、政治的な攻撃材料となる。ただし、もともと背教者宣告は宗共同体から異教徒を排除するのが目的であり、必ずしも絶滅が目的ではない。タクフィールをシーア派の根絶という目的に再定義したのは初期の指導者アル・ザルカウィであるという。イスラム国は13世紀にモンゴル人により行われた、バクダット侵攻という歴史を巧みに利用している。実はモンゴル人を手引きしたのが、シーア派の高官であったのだ。アメリカ軍と手を組むシーア派をかつての歴史とダブらせることにより、シーア派を外国勢力と手を組む背教者として位置付けているのである。


これらのロジックを見ると宗教戦争のように思えるが、そうではないと著者はいう。実はこの背教者宣告はイラク、シリア、その他の中東で内戦を誘発する目的で使われているという。地域での宗教対立が深まれば、イスラム国はその隙間に入り込み、自身の領土と政治的地位を確立できるのだ。つまり現実的な政治闘争での戦略としての側面も持っている。また殺したシーア派の財産を兵士に分配できる上に、浄化された領土では宗教的な対立が緩和され、統治の安定にもつながるという理由もあるようだ。


彼らはかつて大規模な民族の抹殺を目指したナチスよりも柔軟だ。ナチスはユダヤ人をユダヤ人であるという理由で抹殺したが、イスラム国はスンニ派サラフィー主義に改宗する者は殺さないという。また、外国人もジズヤという、非ムスリムに課せられる人頭税や身代金を払えば解放される。国家建設という目標のために冷徹に計算された行動をとっているのだ。


このように本書の内容を読んでいくと、私たちはイスラム国の本当の脅威を見誤っている可能性を感じる。近代的な国民国家は、アーネスト・ゲルナーによれば、工業化された社会と工業化された社会を運用するために、施された画一的な教育の基に形成されたと論じている。もともと、それほど工業化されていない中東地域では、列強が持ち込んだ国民国家という概念を欧米の支援を受けた独裁者が力によって維持してきた側面があるように思う。それがいま、急速に溶解、または変容しているのではないか。先進諸国などでも、IT革命がもたらしたグローバリズムにより国民国家の存在にある種の揺らぎが見られる今、彼らは宗教共同体による、新しいタイプの近代国家を目指しているのだ。


だとすれば、これは歴史を創る行為なのかもしれない。たとえ、それが私たちの大義と相いれない物であったとしてもだ。若いムスリムたちが惹きつけられる点もここに存在するのではないか。彼らが成功するかどうかはわからない。しかし、スンニ派サラフィー主義さえ受け入れれば新国家の構成員になれるという概念には間違いなく普遍性が存在する(たとえ浄化という行為があったとしても)。イスラム国は揺らぐ欧米型の国民国家に対し、まったく新しい挑戦状を叩きつけているのかもしれない。私たちがこの疑似国家への対応を誤れば、大量の浄化という行為の果てに、本当に今までの国家間の理論の通用しない「国家」が誕生してしまうかもしれないのだ。もし、そうなれば、後に続こうとする者たちが、様々な地域で台頭してくるだろう。解決困難な難題がいま生まれつつある。


 

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