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『ブリングリング こうして僕たちはハリウッドセレブから300万ドルを盗んだ』セレブとヴァリーガール



ソフィア・コッポラ監督の最新映画『ブリングリング』の原作が本書である。この映画はカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門のオープニングを飾り、話題を呼んだという。ちなみにソフィア・コッポラ監督は、映画『ゴッドファーザー』などの監督を務めたフランシス・フォード・コッポラの娘だ。映画『ブリングリング』は2013年12月に、日本でも公開予定である。本書は2008年から2009年にかけてアメリカ全土で話題をさらった実在の盗賊団「ブリングリング」の少年、少女たちを取材したルポタージュだ。


[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=Cqk-K7YdI1Y[/youtube]


彼らはパリス・ヒルトン、オーランド・ブルーム、リンジー・ローハン、レイチェル・ビルソンなど、ハリウッドセレブの邸宅に次々と侵入し、日本円にして三億円相当の金品を盗んだとされている。彼らは、盗んだ物の多くを換金せず、自ら身に着け、着飾り、ハリウッドの高級クラブへと繰り出した。まるで自身がセレブであるかのように。


この事件の特徴は、中心メンバーの殆どが、貧困層出身の子供たちではなく、ハリウッド近郊で富裕層が多く住む、カラバサス出身の子供たちという点。もう一つは、主要メンバーがヴァリーガールに憧れる少女たちという点だ。なにひとつ不自由なく育った子供たちの非行。ただ、彼らの家庭は一部の富裕層に比べれば庶民側に位置する。彼らにとって、あと少しで手が届きそうで決して届かない憧れの世界が目の前に存在した。この事件自体はゴシップネタとして報道された。しかし、それだけではない何かが、犯人グループの行動の中に隠されているはずだ。


悩みや劣等感を共感しあえる二人のソウルメイト、ニック・プルーゴレイチェル・リーの何気ない思いつきから事件は始まる。二人はネットでパリス・ヒルトンの家を調べ、ツイッターでパリスの行動を把握し、留守宅に侵入するという計画をたて、ついには実行してしまう。


アメリカの所得格差は1970年代以降、ものすごい勢いで広がっている。70年代当時はトップ1%の高所得者層が稼いだ金額は、国民全体の10%だったが、現在ではその割合は全体の三分の一にまで増えているようだ。資産全体で考えると1%の富裕層が全体の40%の富を握り、残された99%の人々が残りの富を分け合いながら、テレビに映し出されるセレブの暮しに憧れ、それをまねようと借金を重ねていく。さらに富裕層の富が増え続けるなか、中間層の所得は減り続けている。


ブリングリングのメンバーは、家庭や精神的な面に問題を抱えた、落ちこぼれが通う高校の生徒たちだ。将来、親世代より豊かな生活ができる保証がないことに、彼らも気づいていたであろう。また、逮捕されたメンバーに、世論は意外なほど寛容であった。「まあ、盗まれたほうも、金持ちだから」そんな気分がアメリカ社会には存在する。


だが、たとえ被害者が金持ちでも、盗みを働いていいことにはならないはずだ。本書では裁判で証言台に立つ被害者セレブの言葉が載っている。パリスは先祖から受け継いだ、思い出深い宝石を盗まれたことにショックを受け、リンジーはプライベートな空間を汚されたことに対する恐怖を語り、オーランド・ブルームは関係者が犯行に関与したのではないかと、無実の知人を疑った自分に苦しんでいた。住居とはその人の、犯すべからぬ神聖な空間であり、物は所有者の思いが加わった時点で、単なる物ではなくなる。それは、金持ちだからといって変わることはない。


被害者に対する国民の冷めた視線は、貧富の格差だけではなく有名人と言われる人たちの質の変化にもあるのでは、と著者は分析する。一昔前まで、有名人、セレブと呼ばれる人たちは、才能と努力でなにかを成しとげた者であり、尊敬の対象になっていた。しかし現在、一部のセレブはリアリティショーなどで、名声と富を手にした人々であり、ゴシップと性のネタを大衆に与える娯楽商品、消耗品としての存在でしかないのではないかと問う。


実際、この事件から2年後、テレビやゴシップ誌は示し合わせたかのように、パリスを無視し始めた。彼女は大衆が求める、過激でお馬鹿でコケテッシュなキャラを演じ続けた。おそらく心に大きなダメージを受けながら。その結果、彼女は富と名声を手に入れたかもしれない。だが、どこまでも貪欲に過激さと醜聞と目新しさを求める大衆に、最後は消費しつくされたのではないだろうか。


民主主義において、大衆は尊重されるべき存在である。しかし、言論の自由が認められた社会では、大衆は巨大な権力を持ったモンスターとしての一面を持っているように思う。大衆はある個人に膨大な富と名声を与える事がある。だが、ちょっとした事がきっかけで、いとも簡単にすべての物を奪い去る。そして転げ落ちていく人々の人生を眺め、それを楽しむ。私自身も大衆を構成する一要素だ。それ故に、自らの言動に注意が必要だと感じる事がある。自らの考えが、本当に自分の思考から導きだされたものなのか。大勢に流されてはいないか。心の奥に燻る、嫉妬や憎しみ、そして猜疑心に何者かがアジテートという薪を投げ込み、情念の炎を燃え上がらせているのではいないかと。


セレブに憧れた、ブリングリングのメンバーには、プレイボーイ誌のモデル、テス・テイラー(不起訴)やリアリティ番組の主人公を演じる、アレクシス・ナイアーズなど芸能活動をしている者もいた。彼女たちは裁判の記録までリアリティ番組に収録させている。偽りのリアルを売りにし、ステレオタイプのヴァリーガールに憧れ演じる事で、自らの尊厳を貶め心を傷つけながら、それでもホットな存在でありたいと思う、現代の少女たちの痛ましい現実が見えてくる。犯罪の責任を、すべて社会に帰するつもりはない。しかし、少女たちを消耗品として扱う卑俗な側面が大衆文化には確かに存在し、それが彼女たちに大きな影響をあたえているという現実から、目を背けてはならないと思う。


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