『神秘のクジラ イッカクを追う』
神話上の生き物でユニコーンと呼ばれる一角獣がいる。その神秘めいた存在は欧米社会を始め、世界中の多くの人々に今なお愛され続けている。
ユニコーンの存在は比較的最近まで信じられていた。実際に昔の科学者も実在の生き物として野生生物図鑑などに収録していた。その角には解毒の作用があるといわれ、王侯貴族の間で大変な高値で取引されていたという。その螺旋状に巻き上げられた、美しいまっすぐな一本の角の正体は、北極圏に生息する小型のクジラ、イッカクの左歯である。
Wikipediaより転載
イッカクの牙が初めてヨーロッパに持ち込まれたのは紀元後1000年ごろだという。長くの間、ユニコーンの存在の証拠とされてきた、イッカクの牙がどのような目的であのように長く伸びるかは今もって謎のままである。成長したオスのイッカクの牙は通常、1・8メートルから2・7メートルの長さまで伸びる。上あごの左側から水平に伸び、上唇を貫通し生えている。右の牙も存在するが、多くは唇を貫く長さに成長することは無いという。
実にバランスの悪い骨格だ。しかしこの牙こそが、イッカクの存在をより神秘的にしていることは間違いない。私も本書に掲載されている、イッカクの写真を見て、一目でその神秘的な牙を持つこのクジラに魅了されてしまった。そして、野生生物問題を専門に扱うライターである著者もその神秘的な姿に魅せられ、カナダ、グリーンランドのイッカクを追う旅に出る。
この牙の存在理由を巡っては様々な議論が繰り広げられている。イッカクは生涯を通して北極圏から出ることは無く、その生活の多くを氷が覆う海で過ごす。この牙を使い、氷を割っているのではないかという意見や、餌を調達するためにあるのではなど、様々な意見があるようだが、最も一般的なものしては動物の世界でよく見られる性的差異の強調、つまり性淘汰の結果生まれたものとする考えのようだ。
しかし、歯科医のヌウィアは歯科医という視点からまったく新しい事実を発見する。なんとイッカクの歯はもっとも固い部分、石灰化が進んだ部分が歯の歯髄部分にあり、弾力のあるある部分が外側にあるという。つまりイッカクの歯は我々多くの哺乳類とは歯の構造が逆になっているというのだ。さらに、パッフェンバーガー研究所のフレッド・アイヒミラーが高性能顕微鏡でイッカクの牙を観察した結果、イッカクの牙全体に微小細管が走っていることが発見されたという。つまり微小細管が露出していることになる。
微小細管は普通の哺乳類の場合、歯の途中までしか存在しない。固いエナメル質で覆われる事により、歯への刺激を和らげる。イッカクの牙は私たちの歯より、かなり刺激に対して敏感な可能性があるということだ。ヌウィアはこの研究成果を基に、イッカクの牙は感覚器官なのではないかという仮説をたて、調査ように捕獲されたイッカクの牙に塩を振りかけ心拍数を計測する実験を行う。すると明らかに、塩をかけられたイッカクの心拍数は上昇したという。ただ、ヌウィアの仮説と実験の結果は、イッカクの専門家の間ではあまり高い評価を受けていないようだ。
ヌウィアの説はマスコミで一時期大きく取り扱われたため、一般的には広く浸透しているようで、日本語版のウィキペディアにもイッカクの牙は感覚器官としての機能を持つことが記載されている。
近年の地球温暖化の影響は特に北極圏で顕著である事が、本書を読むとわかる。特に、イッカクに直接影響がある事のひとつに、温暖化の影響で、海流の流れなどが変化し、北極の海が氷で覆われる時期に変化が訪れていることだ。
温暖化の影響で海面が氷で覆われる時期が遅くなったため、イッカクが越冬地に移動するのが遅れている間に、急速に気温が下がり、海全体が氷に覆われ、大量のイッカクの群れが溺死するという事件が近年、頻発しているという。2008年と2009年にはイッカクの集団が氷に閉じ込められ、大量死するという事件が4件発生し、700頭以上のイッカクが死亡したという。しかも北極圏は人口が少ないため実際には目撃されている以上に同様の事件が発生している可能性がある。
またイヌイットの狩猟の問題も存在する。著者自身は生存のための捕鯨には真向から反対という立場ではないようだ。実際にグリーンランドの猟師と共に捕鯨にも参加している。グリーンランドではイヌイット自身の提案でイッカク猟には伝統的なカヤックと銛を使う事を義務づけ、これらの事が順守されている。だが、カナダのイヌイットはモーターボートと火器を使った猟が一般的に浸透しており、現在、生息数がはっきりとしていないイッカクが近代的な狩猟圧にどの程度、耐えられるのかよくわからないなどの問題がある。
さらに近年は欧米のマッチョ思考がイヌイットの若者の間でも浸透してきており、食糧としてのイッカク狩ではなく、牙、とりわけ大きな牙を目当てにした狩が問題になりつつある。生物学者ジェイムズ・フィンリーによるとカナディアンロッキーのオオツノヒツジは狩猟で大きな角を持ったオスばかりが殺されたことにより、近年、種全体の角サイズが小さくなってきているという。角の大きなオスばかりに狩猟圧がかかったため、種全体の遺伝子に大きな影響が出始めているのだ。フィンリーはイッカクにもいずれこのような影響が出るのでは懸念しているという。
北極圏はまだまだ人間にとっては未知の領域だ。この秘境に棲む野生動物について、私たちは多くの事を知らない。しかし、私たちが文明的と言われる生活を維持するために必要な活動が、地球温暖化という現象となって、真っ先にこの特異な環境の北極圏に押し寄せ、未知なる生態系にダメージを与えている。
しかもそのダメージがどれほどのものなのか、私たちには推し量るだけの十分なデータが存在しない。著者はそのような北極圏に自ら足を運び、そしてこの難問に立ち向かうべく日々奮闘する科学者たちに取材を重ねる。科学者たちへの丹念なインタビューによる科学的視点と、著者自身が体験した北極の素晴らしい自然のレポートという二つの視点が軽やかな文章により綴られた本書は、イッカクのみならず、北極圏に生きる動物たちと人間がどのように共存していけばよいのかという事を、静かにではあるが、確固たる決意を持って私たちに投げかけているのである。