エロティック東三河物語②

「アレ」の正体

 以来、私は「アレ」のことを頻繁に考えるようになる。仕事中も、家に帰っても、何をしていても「アレ」のことが脳裏から離れない。まるで恋に悩む少年(もとい、おっさん)のようだった。

 愛知県の東端部に「東三河」と呼ばれる地域がある。この地域は8つの市町村の集合体で、人口約37万人の豊橋市を中心に、南に田原市、西に蒲郡市、そして、北には豊川市、新城市、さらに最北部に東栄町、豊根村、そして設楽町を有する。

 「東三河」と呼ぶからには当然「西三河」も存在する。西三河は豊田市、岡崎市などを中心に10の市町村で構成されている。さらに西へ向かうと名古屋市を中心とした「尾張」となる。

 興味深いことに、同じ「三河」でありながら、「東三河」と「西三河」の間には経済的な繋がりも含め、人々の交流はあまり活発でない。その理由には様々な見方があるようだが、直感的にはこういうことだと思う。西三河の人々は西隣する名古屋経済圏に関心が高く、一方、東三河の人々は東隣する浜松市(静岡県)を入り口に関東方面の経済圏に関心が高く、互いに向いている方向が違う。

 そして、もう一つ大事なポイントがある。

 それは「川」。

 東三河の最北部エリアを地元では「奥三河」と呼んでいる。三河の奥だから奥三河。一般的には新城市、設楽町、東栄町、豊根村の4町村を指すことが多いが、現豊田市の稲武町など西三河の最北部地区を含めることもある。

 余談ではあるが、勝手な個人的の感覚としては、新城市を「奥三河」と呼ぶことに少し違和感を覚えている。新城市に統合される前の鳳来町や作手村(いずれも新城市最北部)などは位置関係からして「奥」だから奥三河でよいが、新城市自体は南部の豊川市や豊橋市と隣接しているため「奥」と呼ぶには「手前過ぎる」という印象が拭えない。現に、60年以上新城市に住んでいる知人は、私が設楽町に勤めていることを「奥で働く」と表現する。「奥の人」が「奥の人」に対して「奥で働く」と表現するのはおかしい。旧新城市の住人は自分たちの住む町を「奥三河」と思っていない証拠である。それくらい「奥三河」の定義は曖昧であり、興味深い。

 話を「川」に戻す。

 東三河には南北を縦断する「豊川(とよがわ)」と呼ばれるシンボリックな河川が存在する。延長約77km、流域面積約724km2の大きな川だ。地質学的にも面白い川で、日本列島を真っ二つに分断する巨大な活断層「中央構造線」が中下流域を走っている。新城市の桜淵公園はその観察に相応しい場所として有名で、最近では「ジオツアー」と称した観光客向けの旅行プランが人気らしい。

 川は我々が生きるために必要な「水」を提供してくれる。そして、経済を潤す源である。古来より東三河の人々は豊川の恩恵を受けながら生活の糧を育んできた。

 一方、西三河にも「命の川」は存在する。矢作川だ。つまり、豊川を中心として発展した東三河と、矢作川を中心として発展した西三河とではやはり人々の交流も限定的なものとなる。それが東西の微妙な文化の違いを生み出す一つの要因となっていることは間違いないだろう。だから三河地方は面白いわけだが。

 さて、東三河を南北に流れる「豊川」には「ありがたい面」ばかりでなく、当然ながら「困った」面もある。今も昔も、水は生き物の命を育む大切な資源としての一面と、洪水などによって甚大な被害をもたらす「悪者」としての一面がある。

 古来より、豊川は特に大きな蛇行が見られる中下流域で度々洪水が発生し、その都度人々の安定した生活を脅かしてきたという歴史を持つ。そのため、下流域には霞堤(かすみてい)と呼ばれる「堤防の切れた部分」をあえて作り、そこから意図的に溢れた水を逃がし、本流の水量を調整するという手段が取られている。当然、溢れた水はその周辺地区に洪水をもたらすわけだが、下流域に存在する吉田城を水災から守るため、途中で「水抜き」の機能を持たせたということだ。今でも、豊橋市内に数か所の霞堤が残っている。現在は「豊川放水路」と呼ばれる人工河川を増設したことで昔ほどは頻繁に洪水が発生していないという。

つづく

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