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間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬、最上徳内、高田屋嘉兵衛たちがいた。すべて幕府隠密(忍者)

色気のある人は、60代、70代、80代のお手本を持っています

(※1576年に家康に殺された水野忠重の兄である)水野信元の方が、すり替わった家康(世良田元信)よりも格が上の信長の忍者部隊の隊長だった(中略)水野(宗兵衛)忠重は、「変」のあった1582年に、家康が織田信忠(信長の長男)の元に、ピタリと寄り添わせて派遣していた情報部員(スパイ)である。明らかに忍者である。信長が爆死して、そのあと京都の二条御所で長男の信忠も爆殺された。 このときに、忠重はこの二条御所での戦いを生き延びている(中略)ほとんど生存者がいないはずの二条御所から脱出している。そして家康の居城岡崎まで疾走して6月9日には帰り付いている。そして家康にすべてを報告した。家康は有名な 〝伊賀越え〟(わずか2泊3日)をして、「変」からたった二日後の6月4日には、伊勢湾を船で渡って岡崎城に帰り着いていた(中略)水野忠重は、6月10日には、再び京都に走った。そして今度は、光秀の軍の中に入った(中略)水野忠重は、(山崎の合戦6月13日から6日後の)6月19日に再び家康の陣に帰ってきている。おそらくこの時、忠重は(死んだはずの)光秀を連れて来た(中略)家康はこのあと陣を退いて岡崎に帰っていった(中略)変があった6月2日の夜のうちに、信長の死を知って秀吉は自分と周りの者だけで備中高松城への包囲陣からさっさと抜け出して、もぬけの殻にしただろう。だから6月5日には、嵐の中を尼崎城に着いている(中略)水野忠重の兄の水の信元が本当は重要な人物(中略)山岡宗八の大作『徳川家康』(全26巻)の第1巻は、この水野信元(藤五)と父忠政とのやり取りから始まっている。現在判明している史実に合わないことがたくさん書かれている。信元の弟の水野忠重の息子、勝成(1564〜1651)も諸国を渡り歩いていろいろの大名の下で戦闘に参加するという不思議な生き方をしている。忠重の死後、刈谷城主を継いでいる。水野家の家系はずっと続いて、幕末の1841(天保12)年に、老中水野忠邦が登場して天保の改革を始めた(中略)この忠邦が任命した大目付の鳥居忠耀(耀蔵)が、いかにも公儀隠密の元締め、即ち徳川忍者の頭目である。その配下に間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬、最上徳内、高田屋嘉兵衛たちがいた。すべて幕府隠密(忍者)(※数十億の資産を持っていた伊能忠敬は惣庄屋という十数ヵ村をまとめて支配した村役人の最上位の者)(中略)刈谷城主の水野家は〝家康誕生〟の時から秘密を背負っている重要で不思議な一族である。家康(世良田元信)の実の生母であるお大(のちの伝通院)は前出した水野忠政の女(むすめ)ということに歴史が偽造されている。お大は摩り替わられた松平元康の母親ではない。合わない辻褄を無理やり合わせるために、家康の実の祖母の華陽院(お富)まで水野家の奥様であったと創作している。ドロ縄の経歴詐称に、『徳川実記』を書いた学者までが大動員された(中略)ここで気になることは、二条御所に信忠が500人ほどで避難する前に、二条御所に里村紹巴がいた、ということだ。そして誠仁親王を御所に逃がしている、という事実だ。何か不思議な感じがする。二条御所には抜け穴があった。※引用者加筆.

1572年12月、浜松の北の三方ヶ原の戦いでは、家康は、武田信玄から酷く攻められて大敗して、本人も命からがら逃げている。三方原で負けて、家康は浜松城に逃げ帰って堅い守りをして守り切った、と今も書かれている。ウソである。信玄軍は浜松城も攻め落として徳川勢を皆殺しにしている(中略)信玄の甲州軍勢は、ムカデ、ジグモ軍団と呼ばれた恐ろしく残忍な軍隊だった。家康は、お供の者数人だけ連れて城を出て南に逃げ延びて、掛塚という天竜門の河口の港町に隠れた(中略)ここに鍛冶屋の平太という男がいた。この本名、服部平太(夫)は忍者である。伊賀者(中略)この掛塚の港は、新家康が頭の酒井常光坊の下で9歳から育てられ、今川義元と信長の二重スパイ(間諜)をやっていたとき以来の、駿府(静岡市)と尾張(中心が清洲城)の中間点であり、浜松(遠々江の中心)という重要な中間地点における根城である。遠々江とは近江(=大湖=琵琶湖)の先の遠い所にある別の湖である浜名湖のこと(中略)家康(世良田元信)が若い頃から動き回って、駿府(静岡市)の大崩れの用宗の港と、この掛塚港と、三河湾のあちこちに家康の伝承(痕跡)が残っている(中略)伊勢湾に入ったところにある知多半島の日間賀島(昔から忍者の島で、偽物ブランド品の製造の歴史があるという)や他の島々や吉良大浜(今の知立市、当時は池鯉鮒)を忍者たちが偵察活動でうごめいていた。だからこれらの小港には、最先端の情報を伝える者たちの当時の高速船の連絡網があった(中略)大久保忠員の八男坊であった忠孝(1560〜1639)が大久保彦左衛門であり、『三河物語』の著者である。『三河物語』は粉飾と虚偽が多く混ぜ込まれている(中略)彦左衛門忠孝自身は、かなりあとで新家康のすぐ側(小姓)に仕えるようになった(1576年、16歳)ので自分の父親や長兄のようには家康すり替わりのことを何もしらない(中略)だが、真実は聞いていたはずなのである。そのことをすべて隠し通して『三河物語』を書いたのだから(一部に、チラチラと真実が不用意に漏れている)やはり歴史を偽造している、と言うべき(中略)大久保一族の長は、忠隣であるが、忠隣は1614年に何があったのか、改易(失脚)させられている。大久保彦左衛門は、生き延びて、1000石取りクラスの上級旗下として神田駿河台(今は杏雲堂病院)に屋敷が代々あって、今もその屋敷跡が残っている(中略)刈谷城はあの忍者の水野一族の居城である。摩り替えられる前の本物の岡崎城主・松平元康の父と、広忠と、祖父清康が各々20歳前後で戦死している。そして埋葬された本当の墓がある由緒ある大樹寺や大林寺がある。これらの真実も、その後の300年の徳川家にとって都合が悪い(歴史書や年譜のウソがバレてしまう)。だからこれらの寺の事績も闇に葬られたままだ(中略)不愉快なのは家康の異父弟が三人いて、彼らを久松松平氏などと呼んでいることだ。そのうちのひとり松平定勝(1560ー1624)は家康の実弟として大名に取り立てられている(伊勢桑名12万石)。家康の実母のお大が、再婚した相手が久松敏勝で、その息子たちだという。岡崎城主松平広忠(元康の父)の正室ということにしたお大が、再婚などするはずがないではないか。このお大と祖母の源応尼は水野家の女ということにされているので、刈谷城主の水野家を出たり入ったりして訳が分からない経歴が偽造されている(中略)泥縄の歴史捏造作業が行われた。久松敏勝という男は、家康(世良田元信)が6歳の時に、駿府の狐ヶ崎町のササラ者の娘お大がおばあちゃん(源応尼)に預けてさっさと再婚した相手だ。本当の家康の父親は、上州(群馬県)の世良田村から流浪して来た願人坊主の江田松本坊だったのだ(中略)そして、家康たちは、18歳の時(1560年5月)に、今川義元が尾張攻めに出陣しようとする10日ぐらい前に、駿府城の西の上級武士たちの住居区の宮ヶ崎町にいた、岡崎城主松平元康の長男、信康(2歳)を盗み出した。このことがただちに発覚して源応尼は処刑され、お大や夫の久松敏勝たちも駿府城兵に捕まった(中略)そのあと何年間か、スリ替わって大名になった家康に助け出されるまで、駿府で牢獄にいた。だから家康の三人の異父弟のうちの一番上の康俊は獄中で足が萎えた。母親の於大(簾御前)はこの康俊をかわいそうに思いずっと自身の身近に置いた。こういう真実話が『史疑』の中に連綿と書かれている。

すり替わった徳川家康(本名、世良田元信)は、彼を育てた願人坊主ともども、初めから織田信長のスパイ(間諜者)であっただろう。そして同時に駿府で今川義元に仕えて、今川のスパイとして尾張の織田を偵察し監視することを本職にしていたようだ。だから世良田元信は二重スパイ(中略)世良田元信は少年の頃から、船で(陸路ではなく)駿府から伊勢湾に入り、尾張との間を何度となく行き来していたようだ。伝承が残っている(中略)今川の忠臣であり血族である松平(得川)元康と息子の信康と奥様の築山御前は、その後の混乱の中で殺され、信長の東の守りを固める同盟者の家康が突如誕生した(中略)家康の長男(嫡男)信康(岡崎城主)が、一五七九(天正七)年に二〇歳で自刃させられた時、介錯(首を切り落とす仕事)したのが服部半蔵(二代目服部政成)だったという。服部半蔵はこの時、涙を流して「主君殺し」を実行(中略)だが、おかしいだろう。家康は自分の長男を殺したのだ。実の子供をとてもできることではない(中略)荒くれ者たちの盗賊及び忍者の親分から成り上がった世良田元信という男が松平元康に成り代わり、次第に力を付けて東海道の一帯を、岡崎城と浜松城そして駿府(静岡)城を拠点にして東国、関東まで力を伸ばして行ったのである。織田信長という恐ろしい男が初めから仕組んだことだったろう。この徳川家康、旧名世良田元信とは主従関係だったから、このあと信長は東国(東側)のことを全く心配せずに京都で動いている(中略)武田の騎馬軍団にぼろ負けした家康は浜松城に逃げ込んだというのだけれど、真実はこの浜松城すら武田勢に突撃されて全部敗れ去って皆殺しにされた(中略)落城する直前に浜松城から、ほんの数人の家来(近習)を連れて脱出して逃げ延びた家康は、どうやらそこから更に二〇キロぐらい南に、茅葺き職人がたちがいて、その茅葺き職人の棟梁に隠まわれた(中略)やがて天下を平定した後、家康はその茅葺き職人の棟梁に、見渡す限りの土地を「おまえにやる。命の恩人だから」ということであげたんだよ、と話をしてくれた。これが本当の話だろう。家康が一七年も居城にした浜松城のことはあまり語られない。不思議な感じだ。何故なら松平元康は岡崎城主なのだから。後年、家康は駿府城に移った。何故なら駿府(静岡市)は、本当の自分が生まれ育った土地なのだから愛着があっただろう。

本多正信(1538〜1616)は、代々の三河松平家(岡崎城主)に仕えた武士で家康の摩り替えが起きた(1516年4月)あと、新家康に仕えることを拒否して消えた(中略)このあと「三河の一向一揆」という名で歴史書では呼ばれるが、本当は宗教的な反乱ではない。本当は松平氏の旧家臣団がスリ替わった新家康に反抗して起こしたものだ(1563年)。正信はこれに加わったあと出奔した。反乱は約1年で新家康によって鎮圧された。生き残った者たちは、新家康の家来になることを誓った。正信は、それから19年後の1582年に、即ち、信長の死のあと戻って来て、新家康に仕えた(中略)家康摩り替え以来の大きなしこりが徳川家臣団にずっと残ったのだ。それが血塗られた江戸城内の「(真実を)見ざる、言わざる、聞かざる」の緘口令として続いた(中略)酒井忠次、忠勝、忠世ら酒井氏も、旧松平元康に仕えた家柄で、はじめは新家康に反抗した家系(中略)始めから家康の摩り替えを知っていた家系(中略)新家康は1570年から17年間もこの浜松城(引馬城)にいた。新家康はずっと浜松城にいたのだ、と歴史好きたちさえ知らない。岡崎城主松平元康を殺して摩り替わったので、岡崎にはいたくなかった。息子の松平信康と母の築山御膳を、1578年に「用がなくなった」と殺している。長男秀忠(2代将軍)が同年に生まれたからだ(中略)息子信康が真実の父の死(摩り替わられたので葬式もない)のあとは、16年間、岡崎城主を務めた。信長はこの信康に自分の娘の徳姫(五徳)を娶らせた。だからやはり全ては信長が仕組んだのだ(中略)この事実を歴史家たちが覆い隠そうとする。そして信康は1587年に20歳で新家康に殺された。母親の築山御前(松平元康の正室)と共に殺された。この頃の信康への処遇のひどさに堪えられずに石川数正は失踪したようだ。そしてこの時の権力者であった秀吉に仕えた。数正は秀吉に厚遇されて泉州(大阪府の南)や松本深志城10万石を与えられた(中略)信康の首を切り落としたのは服部半蔵(二代目服部正成)で涙を流しながら「主君殺し」をした(中略)
松平信康(岡崎城主元康の長男)が2歳の時(1560年4月)に、今川軍の尾張攻めの出陣の直前に盗み出された。そして用宗、掛塚、吉良大浜と東海全体をつなぐ港の航路を使って、三河にさらわれて行った。いや岡崎城に連れ帰されていった。桶狭間の戦(1560年5月14日)の1年2ヶ月後。世良田元信は、「松平元康どの。あなたの息子(信康どの)を救けだして参ったぞ。私どもも、あなた様の臣下になるので城に入れてくだされ」と申し出て、そしてまんまと岡崎城に入り込んだ(1561年2月(中略)その1ヶ月後に、油断した松平元康を斬り殺した。そして新家康(世良田元信)が松平元康に摩り替わった。そして早くもその4月には、信長と新家康が清洲城で公然と主従の結めをしている。これを、徳川中心史観の歴史学者たちは「清洲同盟」などと呼ぶ(中略)この掛塚にいた鍛冶屋の平太(夫ゆう)の娘が、西郷局である。この女性が、新家康(世良田元信)の本当の妻(中略)掛塚にいた服部平太夫たちは、忍者であり元々は伊賀(三重県)から来た伊賀者である。だから新家康も、伊賀者(中略)三方原の戦で新家康は武田信玄にボロボロに負けに負けた。信長の軍が援軍ですぐ近くまで来ていたのだが間に合わなかった。家康は掛塚に逃げ込んで生き延びた。それでだ。このあと信長が何をやったか(中略)家康は浜松城にずっといた(岡崎は、まだ赤ちゃんの松平信康が城主)。この浜松時代の17年間、家康に寄り添った真の妻だ。この西郷局(あい)から生まれたのが、二代将軍秀忠と吉直である。長男秀忠は1579年に浜松城(旧名は引馬城、あるいは曳馬城)で生まれた。岡崎城にいる信康は邪魔になって不要になった。だから、新家康は、この年に、自分がスリ替わった松平元康の正室の築山殿(8月29日死)と息子の信康(9月15日死)を殺してしまう。何度も繰り返すが、この二人の本当の夫、父は岡崎城主松平元康(中略)武田信玄をその翌年にはコロリと毒殺(暗殺)してしまったのである(1573年4月)。三方原(浜松)の戦のあと、信玄軍は浜名湖の北の三ケ日で野営をして年を越した。そのまま京を目指していた。この武田軍の陣営のなかに、潜り込んだ信長の忍者(ラッパ、スッパ)が信玄を毒殺している。場所は信州に入った駒場の宿とされる。が本当は、三河の長篠の南辺りだろう。信玄の重臣たちは、信玄の死を秘匿しながら大慌てで甲府に逃げ帰っていった(中略)このようにして信長は、強敵武田信玄を実にあっさりと殺してしまった(中略)「三ざる」は「三猿」として日光東照宮の欄間のレリーフに彫られている。彫刻師左甚五郎の作とされる。日光東照宮の建造者である天海(明智光秀)による「神君家康公の若い時(1561年、19歳)の岡崎城主松平元康への摩り替わり」の秘密について徳川の家臣団は、絶対に口外してはならぬ、という戒め、忠告、脅しなのである。

里村紹巴もヒドイ男だが大村由己もヒドい。この男が即席で『惟任退治記』を書いた(中略)秀吉が自分の太鼓持ちに即席で作らせた『惟任(光秀)退治記』という歴史捏造本や、『綿考輯録』という、歴代の熊本藩主細川家が初代(というべきだ。その前の室町幕府の菅領職の細川氏とは本当は、あまり関係がない)藤孝の犯罪を隠滅するために作った巨大な嘘つき本の悪質さもよく分かった。『(甫庵)太閤記』も『川角太閤記』も『明智軍記』も『徳川実紀』もインチキ本。真実隠し本(中略)(※朝廷を代表し光秀と連絡とり合っていた公家の吉田兼見が)6月7日に、安土城で光秀に向かって「御所の安全と、京都の町の治安を維持してくれ」という誠仁親王の伝言を伝えている。それが6月7日(中略)しかし、このあと6月9日に光秀が京都に帰っても天皇は光秀と会おうとしなかった。光秀は朝廷に銀子を献上したりしながら吉田兼見の邸宅に泊まった。それから南下して大阪の方へ向かう。自分に味方すると思っていた摂津三人衆の高山右近(洗礼名ジェスト)、中川清秀(洗礼名ジュニアン)、池田恒興(信輝。洗礼名メシアン)が動かないので、あとずさりして山崎に陣を敷いた。この4日後の6月13日、山崎円明寺の合戦で光秀は敗れる(中略)隣の南蛮寺にいたオルガンティーノやカリオンたちは、信長が本能寺に到着する(5月29日)の前に、本堂の床下に樽詰めの爆薬、数十樽を運び込んでいたはずだ(中略)当日の朝、暗いうちから彌助が本能寺の内側から手引きして導火線を用いて爆薬への発火を実行したはずだ(中略)明智軍を真に指揮した者は、まさしく彌助であったろう(中略)どうも誠仁親王が公家の吉田兼見を介して明智光秀とつながっていたようだ(※死体が残っていない信忠の爆殺に関係)(中略)フロイスの文では、彌助は本能寺の爆発と大火災を、不思議なことに唯一、生き延びた。そして彌助は二条御所に入って信忠に加勢したことになっている。どうやって?(中略)大混乱の最中に、ものすごく目立つはずの黒人がひとりで信忠の元に行き、そこで信忠の信頼を即座に得ることができたのか?(中略)「彌助は、そこで明智勢と戦った」、となっている。何故、本能寺で唯一生き残った彌助が、たったひとりでこのような奇妙な行動を取れたのか(中略)本能寺は午前四時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前七時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃え尽くし、民家にまで類焼した。そして信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑い(中略)(※ワリヤノは)本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、密かに日本を脱出している。これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法王グレゴリオ13世に選ばせるためではなかろうか(中略)引用文の前の方に、「オルガンティーノらは本能寺の変後の混乱の中で、盗賊に騙されて琵琶湖の島に監禁状態となった。それを救ったのは光秀の家臣だった」とある。こんな、訳の分からない子供じみた文章を、素直に信じる日本人はいない。権力者だった信長が殺された大混乱のさなかに、外国人の白人(南蛮人)の、暴力を嫌うかよわい宣教師たちが盗賊に捕まって「琵琶湖の島」に監禁されていました、などとおとぎ話のような与太話を信じる日本人はいない(中略)そんな琵琶湖の島など、安土のそば(今は近江八幡市)にはない。琵琶湖には神信仰の竹生島ぐらいしかない。明智憲三郎は何故、ここでおかしい、と気づかないのか(中略)家康は信長のスパイ(間諜者、忍者)あがりなのだ。吉良や大久保よりも、もっと早くから家康と行動を、同じ忍者部隊として共にしていたのが、酒井浄賢(家康の四天王のひとり忠次の父)、酒井忠利(忠勝の父)、安部大蔵、板倉勝重(家康より3歳下)、そして水野信元、本多忠勝(家康より6歳下)たちであろう。酒井常光坊が首領(中略)本多正信を含めて本多氏は、岡崎城主松平氏の累代の家臣ということになっている。が、前記した正信の不可思議な経歴(出奔して19年後に家康の元に戻ってくる)からして普通の人ではない。四天王のひとり榊原(小平太)康政も少年期から家康と行動を共にしていた(家康より6歳下)。これら酒井氏、安部氏、板倉氏、水野氏、本多氏が江戸時代ずっと譜代大名の重臣(幕閣)として務めている。家康摩り替わりから307年後の幕末までずっと続いている(中略)井伊家というのは、摩り替わる前の家康(世良田元信)が、桶狭間の戦い(1560年5月19日)のあとの1年2ヶ月の間、三河一帯で、まるで野盗、山賊の群のように数百人で動き回っていた時に家来として採用した一族である。だから、家康が岡崎城主松平元康に摩り替わる直前の家臣(中略)吉良氏や大久保(忠親以下)氏もこの時期に臣従した一族である。だから、〝家康四天王〟たちと同様に秘密を共有 ※引用者加筆.

信長軍は、田楽坪というところで濡れたまま休息している今川義元の本陣に突撃した。信長勢から横っ腹を突かれる形で奇襲された(中略)後ろのほうに、今川義元の本陣があっただろう。おそらく2000人ぐらいだ。その横っ腹の木立の中から、信長軍が突如、出現してきた。太子ヶ根の中を信長たちは、木立の中を馬を引っ張りながら徒歩で駆け降りて今川義元に襲いかかっていったと私は考える。現地調査をして私なりに実感でわかった。今川勢は、細く長い街道をゾロゾロと進んでいて、戦線が伸びきっていた(中略)その横から、信長勢に急襲されたのだ。最前線の中島砦にいると思わせておいて敵の斥候たちの目を振り切って、信長軍は、間道伝いに義元の本陣まで接近した。信長の忍者(細作、物見)が周到に道案内した。蜂須賀小六と前野将右衛門と簗田弥次右衛門たち(中略)ここは尾張の地なのに当時の坊主(僧侶)は今川方についていた(※現在は長福寺、元は遊行寺、時宗系の踊り念仏の浄土宗の一派)(中略)(※関ヶ原のとき)家康は自分の本陣の南側に井伊直政と松平忠吉を置いた。忠吉は、スリ替わったあとの徳川家康(世良田元信)が、遠州・掛塚の港の忍者の首領・服部平太夫の娘・西郷局(おあい)に産ませた実の子供で三男坊だ。忠吉は2代将軍秀忠の弟(中略)何度でも書くが、新家康は松平元康を殺して成りかわったあと18年後に、真実の松平元康の長男である松平信康が20歳のとき1579年に殺している(中略)奥さま(築山御前)も同年に浜名湖の南隣の小さな佐鳴子の湖畔で首を絞められて殺された。その理由は、まさしくこの年(1579年)に、新家康に長男秀忠そして忠吉が生まれたからだ(中略)秀忠は大事にされた。新家康の股肱の臣たちに(代表本多正信)に守られた。別働隊として江戸城から(信濃、長野県)の上田城を攻めた(中略)ところが上田城で真田昌幸と幸村が強いものだから攻めきれなくて遅れた。関ヶ原の決戦(9月15日)に間に合わなかった。3・8万人の軍勢だと言われている。秀忠はこのことで家康から厳しく叱られた(中略)秀忠はぼんくらだったらしいが、横に本多正信がピタッとついていた。正信が家康に懸命にとりなして、それで無事二代将軍になれた。その弟が、忠吉(尾張大納言になった)は前記した関ヶ原で受けた傷が原因で早く23歳で死んだ。養育係の井伊直政もそのときの怪我で2年後には死んだ。※引用者加筆.

筑山御前の生家の子孫の方が大阪・堺で歴史探訪ガイドをされており、引用者である私は当時の話を伺いました(筑山御前の生家は助かったようです)。また、石川数正の治めた泉州、堺の禅寺(南宗寺)には殺された家康(おそらく松平元康)の墓もある。ネット非公開の枯山水庭園もあり、京都のような観光名所になる可能性を秘めた土地である。問題は、観光客向けの飲食店が少ないことだ。

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https://note.com/wandering_1234/n/n72d84baa3ee5


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