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誰もが飛び立つ翼を持っていると信じきるわもんマスタートレーナー|まき凛

今回、取材をさせて頂いたのはわもんマスタートレーナーの「まき凛」こと高橋真樹さんです。筆者が彼女と初めて会ったのは、12年ほど前なので長くご一緒させていただいています。

いつも笑顔で明るい声を放っており、彼女が部屋にいるだけでパッと明るくなる存在です。とはいえ、これまでの彼女の足跡については、色々と教えていただいていました。双子の姉のことや、弟さんのことなど、決して順風満帆とはいえない人生です。

それでも今のまき凛があるのは、ディズニーとやぶちゃんの出会いが大きかったのだろうと思います。ただ、取材を重ねていくと、偶然の導きのようなものがあったのだなと感じさせられました。

そんなまき凛の少女時代から現在まで、お話を伺いましたので、ぜひ最後までご覧ください。

家にも学校にも居場所がなかった少女時代

取材を始めるなり、まき凛からでた言葉に私は言葉を失いました。

「子どものころはめちゃくちゃ貧乏だったんですよ。今の時代だったら養護施設に保護されるレベルだったんじゃないかな。父親がDV気質で、気に入らないことがあれば物を投げてくるし、稼いできたお金は家にいれずに使っちゃう人だったんです」(まき凛)

いつも通りの明るい声で話しているものの、その内容はすさまじく、相槌をうつのがやっとでした。

「食べるものがなかったので、田んぼにドジョウなどの食べれるものを取りに行ったりもしてました。スーパーを回って、パンの耳をもらって食べてましたね」(まき凛)

少女時代の話を書くだけでも、ひとつの記事になりそうなくらいの内容です。さらに中学生になると、まき凛は同級生のいじめのターゲットになってしまいます。

「中学2年生にあがったとき、初日は登校したのだけれど、2日目から盲腸で入院して2週間休んだんです。その間に、同級生はグループを作っていて、退院して登校した時には打ち解けにくい環境でした。その後、盲腸だったことをからかわれたことをきっかけにいじめのターゲットにされてしまいました」(まき凛)

同級生から空気銃で撃たれて、背中がBB弾の跡でいっぱいになったこともあるそうです。「この状況でよくグレなかったですね」と聞くと、祖母の存在が大きかったと答えてくれました。

「母から聞いて事情は知っていたのだろうけど、おばあちゃんは普通に接してくれてました。それが心地よくて、私の居場所になってくれていました」(まき凛)

また中学のいじめも、3年生の秋頃になると庇ってくれる人も現れて収束していったそうです。

一日でも早く働きたかったものの高校へ進学、そして…

自宅の環境も改善する見込みもなかったため、中学を卒業したら働こうと考えていたまき凛。ただ、祖母から高校までは出てほしいと言われて、進学することになりました。

無事に高校に通い、卒業をするというタイミングで、まき凛の家族に事件が起こります。

「母と弟と一緒に夜逃げすることになったんです。当時、専門学校に進み一人暮らしをしていた姉には事情を話し、夜逃げ先を確保したうえで、少しずつ荷物を移していったんです。父親には見つからないように逃げるのは苦労しました」(まき凛)

ただ、卒業後にまき凛が働いていた会社を父親は知っていたので、時折、やってきては迷惑をかけていたそうです。

「父は勤め先にやってきては、勝手な行動をしていましたね。それでも母親の居場所だけは絶対に言うまいと思って我慢していました」(まき凛)

仕事は酒類問屋の事務職を6年、その後、異動して営業アシスタントとして1年勤務されます。

「ホテルや飲食店にお酒を置いてもらうように交渉する営業マンのアシスタントをしていました。営業マンは飲むのが仕事みたいな所もあったので、運転手として送り迎えすることもありました」(まき凛)

営業アシスタントとして働いて1年が経った頃、まき凛は会社から経理への異動を打診されます。

「新しい人が入社するまで経理をして欲しいと頼まれました。ただ、これから経理を勉強して、その後も経理の仕事をする自分がイメージできなかったんです。だったら楽しいことをやろうと思い、会社を辞めることにしました」(まき凛)

仕事を探すため手に取ったアルバイト情報誌に、ディズニーランドのアルバイトキャストの案内が掲載されていました。

「実は、ディズニーのファンだったわけではないんです。それまでも偶然いただいたチケットや、学校のイベントでディズニーランドに行っただけで、それ以外では行ったことはありませんでした。ただ、時給が良かったのと福利厚生がよかったので、受けてみようと思ったんですよね」(まき凛)

逃げたくても逃げられなかったディズニーでのお役目

ディズニーランドでの勤務が決まり、最初に配属されたのはランド内のレストランでした。

「96年にディズニーランドで働きだし、3年でトレーナーとして働くことになりました。ただこの時は自信もなく、周囲からのプレッシャーもあり続けられませんでした。半年ほどトレーナーの仕事を離れることになったんです」(まき凛)

今のまき凛を見ると、自分軸がしっかりしていて自信があるように感じます。そんなまき凛にも、このような時代があったのだなと思うと、人の人生とは面白いものだと考えさせられます。

半年ほどトレーナー職を休んだのち、復帰した際には周囲ががらっと変わっていて、可愛がってもらったそうです。

その後、結婚を機に仕事を辞めたまき凛に、病魔が襲い掛かります。

「2000年に一度目の乳がんに罹患しました。この時は担当医から、5年以内の再発率が80%であることと、10年生存率も決して高くないと言われました。もしかしたら5年生きられないかもしれないと思った時、ディズニーに戻りたいって思ったんです」(まき凛)

ディズニーで働くことの楽しみを再認識をしたまき凛は、後悔しない人生を歩むため、病気であることを隠してディズニーに復帰します。

「復帰をしてしばらくすると、トレーナーに復帰してほしいと言われました。断り続けたのですが、熱意に押され引き受けることに。その後も、ユニバーシティリーダーになったときも、断っても受け入れられなかったんですよね」(まき凛)

何かしら人生に役目がある人というのは、まき凛のように自分の意思とは関係なく、断っても断っても、そのお役目からは逃れられないのかもしれませんね。

「ディズニー時代に唯一自分からやりたいと答えたのがマスタートレーナーです。実は、このマスタートレーナーを作った安藤さんが、やぶちゃんと青年塾で同期だった人なんですね。この時はまだ、私はやぶちゃんには会っていませんでしたが、ご縁を感じます」(まき凛)

その安藤さんが、ディズニーランドの社員食堂で偶然やぶちゃんと再会することで、まき凛とわもんとの関係が急接近します。

わもんとの出会い、そして再発

食堂で再会したやぶちゃんから、わもんを使って小布施町で行政コンサルをしていると聞いた安藤さんは、ディズニーの教育チームでもセミナーをしてほしいと依頼します。

「やぶちゃんの講座を受けたときに『日本を良くする選手権があれば、日本一になれる自信がある』と言っていたのが印象的でした。確かに聞く力もすごかったけど『聞く事で日本を良くする』ってどうやるのだろうという点に興味を持ったんです」(まき凛)

この出会いをきっかけに、まき凛は当時やぶちゃんが開催していた「わもん塾」に参加するようになります。原宿のわもん塾に通うようになり、いつしか原宿の事務局を担当も引き継ぐのでした。

「当時はスマホもなかったので、ガラケーで連絡してましたね。そうこうしているうちに、白帯心徒塾が生まれ、黒帯心徒塾が開催されるようになっていきました」(まき凛)

黒帯の段位制度ができたころ、まき凛は突然やぶちゃんからご指名を受けます。

「突然やぶちゃんが『まきちゃんは、わもんマスタートレーナーになってもらいます。段位とは関係なく、わもんの活動を支えてもらいます』ってみんなの前で言い出したんです。私もその時が初耳だったんですけどね(笑)」(まき凛)

まき凛と「わもんの精神の支柱」であるつねちゃんは、黒帯心徒塾が終わるたびにやぶちゃんと打ち合わせをしていたそうです。その時のやぶちゃんの考え方や発言は、まき凛に染みわたり、現在の行動にも役立っています。

「一度目の乳がんからは10年を超えていました。服を着替える時など以外は、自分がガン患者だったことも忘れるくらい充実していましたね。また、ディズニーを独立したのもこのころです」(まき凛)

わもんに関わり始めてからもディズニーで働いていたまき凛は、ディズニーを辞めて別の場所でキャストとして働くことを考えていたそうです。

「やぶちゃんからは『何を言っているんだ、独立しないのか』って言われました。独立なんて全く考えていなかったんですが、この一言で独立することになったようなもんです」(まき凛)

独立してしばらくして乳がんが再発します。

「再発したものの、10月3日の手術から2か月後の12月3日に開催される那覇マラソンのことばかり考えていました。それもあって病気に意識が行かなかったんです。退院して無事にゴールを迎えた時には、新たな人生のスタートだなって感じました」(まき凛)

やぶちゃんと会って生き方が変わり、わもんで在り方が変わった

やぶちゃんと出会ったことで、考えてもいなかった独立の道を選んだまき凛。ほかにもやぶちゃんの影響を受けたことがありました。

「子どものころの経験から、いつしか逃げ癖があったんですね。大きな声を聞いたりするとびくびくしていて、なるべく近寄らないようにしていたんです。その行動が周囲に『お高く留まっている』『避けている』と映っているとやぶちゃんに言われたんですよ。逃げることと戦うことは同じといわれ、克服しようと思いました。そのおかげもあり、今では、父親世代の人に囲まれてもしっかり講話できるようになっています」(まき凛)

わもんマスタートレーナーとしての活動以外にも、セミナー講師やコンサルなど、活躍の場を拡げているまき凛。

「色々な人とコミュニケーションがとれるようになったのは、わもんがベースにあるからですね。薮原秀樹のコミュニケーションが、書籍『聞けば叶う』に詰まっています。ここに書いてあることが実践できれば、コンサルでも成果がでます」(まき凛)

そんなまき凛は、やぶちゃんと会って生き方が変わり、わもんで在り方が変わったと言われていました。

コミュニケーションのベースとしてのわもんの力を実感しているまき凛は、わもんの未来についても思いを持っています。

「倫理法人会や化粧品の仕事を通じて、人の話を聞く力が求められていると感じます。まずは自分自身の活動を通じて『わもん』を体感してもらって、黒帯などに関心を持ってもらえたいと感じてます。聞く力を磨くならわもんと思ってもらえるよう取り組んでいきたいですね」(まき凛)

今回、まき凛の話を伺って「ディズニーの物語の主人公のようだ」と私は感じました。あくまでも私のイメージですが、ディズニーの主人公って最初からヒーロー、ヒロインじゃない気がします。

時にはいじめられたり、虐げられたりして辛い時節を過ごし、それでも光を信じて前を向く。その結果、誰かから手を差し伸べられ役目に気づいていくというストーリーが多くないですかね。

このストーリーがまさに、今回伺ったまき凛の人生にピッタリ当てはまるなと思ったわけです。まき凛にとってやぶちゃんは、かぼちゃを馬車に変える魔法使いだったのかもしれないですし、わもんは馬に姿を変えるネズミだったのかもしれませんね。

わもん創始者薮原秀樹・やぶちゃんより

まきちゃんとの出会いは安藤さんとの出会いがスタートです。安藤さんがディズニーのキャスト教育に私を呼んでくれました。

私はその時、火の玉のように様々な話をしました。その場に一キャストとして、まきちゃんが座ってくれていて

「なんて人が来たんだ!」

外部講師が入らないディズニーに「なんて人が来たんだ!」と、思われたようです。

その後、私が原宿で開催する「わもん塾」にまきちゃんはつねちゃんと共に足繁く通ってくださいました。

そして、まきちゃんは乳がんになりましたが「負けるな!」と沖縄の那覇マラソンエントリーをお勧めしました。

42.195キロ。沖縄マラソンに参加したことのある方は途中から山道、坂道が大変多いということを覚えておられることでしょう。

その時、後ろを走っていたまきちゃんが歩き出しました私は叱咤激励の言葉をかけました

「負けるな!!」
「絶対!!!ゴールを狙わなあかん!!!」

涙声で伝えました。すると、なんとまきちゃんは走り始めたのです。
そして、ゴール手前でグリコサインのように両手をあげゴールいたしました。あの那覇マラソンの思い出がとても印象に残っています。

今は、化粧品販売、倫理法人会等、そしてコンサルタントとしても
頑張ってくれています。

これからのまきちゃんの人生、まだまだ運氣が上がると思っています。

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