なけなし
恵まれている、の定義はわからない
が 誰に聞いても恐らく私の子供時代は そうではなかったと表される
私は特段 そのことをどうこう思っていなかった
と当時の私は言うだろうが
今は『意図的にどうこう思わないようにしていた』が正だと知っている
『こんな家に生まれたくなかった』
子が親に掛ける言葉として 言ってはいけないランキング上位に君臨し続けるこいつ だが
実際にそう思っていて それを言う必要性があるのなら
言ってはいけない言葉など無い
一時的な感情で相手を傷つける、に該当するなら控えた方がよいが
ずっと思っていて 相手以上に自分が傷ついていて 何よりそれを声に出すことに意味があるなら
控えた方が良い言葉など無い
私にとってあの家は 『こんなところに』と大声で叫ぶべき処だった
思ったことを声に出す 感情のまま手足をばたつかせる
幼い頃は意図せず 良心の呵責も、無用の斟酌もなく行えていたそれ
人目を気にし 恥ずかしいからと自重を繰り返すうち
いつしか踊り方も忘れ 謳うことも叫ぶことからも足が遠のいた
感情を 思いを表さず内に秘め続けることにもやがて疲れ
感情の起伏自体なだらかに 抑揚に乏しくなった
そうなることが『おとなになること』だと言い聞かされながら
そして自分に言い聞かせながら
でもどこかでみな思っている
感情のままに創造する 表現する様やその作品に憧れを抱き、眩しく思っている その感情は羨望に近い、ように思う
それを叶え 意のままに生きている(ように見える)人を 嫉みもないまぜにしながら称賛し
どこかで自分もそうなりたい と思ってはいないだろうか
人によって違う幸福の定義を偉そうに述べるつもりは全くない
私は時に 自分の身近な相手に『何がしたい?』と問うことがある
その際良く『なんでもいいよ』『うーーん』と返される
遠慮 がそうさせるような間柄でもない場合や 何度重ねて問うても同じ返しのこともある その、はっきりしない返答を受け続け それを深掘りする(じゃあこれは?これはしたくない?こっちの方がいい?など問いを重ね 結果相手のしたいことに辿り着く)ことを繰り返した結果
これは したいことがない、わからないのではなく『気付いていない』のではなかろうか とはたと気付いた
家族は自分で選べなかった だからそこに所属していた間は己の声に蓋をした
それが楽だったから
そこから抜けた今も 蓋をしていた時間が長すぎて
内なる声に耳を傾け 自分のしたいことに向き合う
それを叶えようと足掻くより 気持ちごと蓋をする
その方が楽だから 誰かに笑われ、批判されることもないから
見ない聞かない 繰り返すうち 見えなく、聞こえなくなった
こどものころ あんなにこわかったおばけも 夜中のトイレも もうちっとも怖くない おとなだもの
みえずきこえないものをずっと意識しつづけるなんてできやしない
ヒトはそんな風にできていないのだ
自分がしたいことを追い求め続ける そんな子供みたいなことできるか
みんながみんなそんなことしていたら、社会が回らないだろう
大人になったのか 大人ぶってるうち老けちまったのかわからないまま
老い 朽ちる
今一度問う
己のしたいことがわからないのが大人なのか?
したいこと が誰かの領域を侵すなら自粛すべきだろう
誰かを傷つけるなどもってのほかだ
また、仕事ではなかなか『したいこと』が叶わぬことも多かろう
みな利己的だったら 群れにとって良い環境など望むべくもない
だが 余暇、自分の時間 趣味、嗜好 そういった時は 何にも気兼ねなく自分のしたいことを叶えられやしないか?
タバコひとつとってもそうだが 法で規制されてもいない、ならば一人きりで楽しむ 誰にも迷惑を掛けないのであれば構わないのではないか?
広義で語らえば 健康を害すると分かっているものを常習的に摂る、ことによって体を損なう、病気になり保険料を費やす 国の負担が増える、だからすべきでない
理屈としては分かる が、どうしてもダメなら規制すべきだと思う
そしてそんな社会 やってはいけないをすべからく強要する風潮は、どうにも窮屈で仕方がない
私自身は吸わないが 人それぞれ楽しむべきもの 嗜好も思想も思考も違ってこそやはり楽しい 交わる価値があるように思うのだ
もっと自由に
もっと正直に
そう掲げるなら それが叶う風土を育まなければならないように感じる
社会より手前の 個々のこころの中に
思想やらの自由を謳いながら 別の口では何かを強要、強いる
その繰り返しが 平坦な 主張を『我が強い』と戒めるような風潮を 知らず知らず招き受け容れてしまったのではないだろうか
恐らく 私が思うより多くの人々が 今やもう自己の主張に耳を傾ける時間も、主張そのものすら
なけなし、あるかないか分からなくなってしまっているのだろう
私のなけなしの良心は それを傍観することを許さない
何も感じない 何も求めない だからこそ何も為さない
それを 生きていると表するのか
どんな手段でも良い 自身のこころが、魂が求めるものを
希求して止まないものを見つけ 手に取りたいと願い、足掻き
いつか掴むことが叶った時 それを生き甲斐と呼ぶことにしよう
大層なものでなくとも構わない
一日の終わりの一杯でも一服でも
私は知りたい あなたにとってのそれを
ゆえに 今ひとたび 問いを重ねさせて頂きたい
あなたが こころからかなえたい願いは
ほしいものは したいことは なんですか?