たそがれ、かはたれ? 日暮れと夜明けの日本語

くるみぱんマンと申します。

今日は人生最後の夏休み、の最終日。
何を始めるでもなくこの日が終わることが耐えきれないので、
自由研究を始めることにしました。
今日で夏休みが終わっても、とりあえず生きている間は
この雨に濡れてもしおれないnoteに自由研究を綴っていきたいと思います。

見逃されがちな日常の違和感に、ご挨拶して生きていきたい。

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本日のテーマは日暮れと夜明けを表す日本語
この夏休み最終日、良いお天気の下で部屋にいるのは勿体無く感じ、
でも外に出るのも億劫で(特にコンタクトの装着、日焼け止めの塗布、お化粧が)
結局ベランダにちょこんと座って落ち着きましたが、
あっという間に空が青暗ーくなってきました。

 はて、この空をなんと呼ぶのだったか。ポチ…(`・ω・´)ノ[検索]
黄昏時たそがれどきまたは逢魔時おうまがときでした。
goo国語辞書によると、動詞化して「空が黄昏る。」と言うこともできるよう。

黄昏は元々「誰そ彼」という表記。
街灯なんてない時代に、横を通り過ぎたを見ても正体がサッパリわからず
「誰そ、彼は?」なんて呟いちゃった昔の日本人の可愛いこと。

でもこの見えなさと言うものは、
幽霊や妖怪と出会っても知る由もない
という恐怖心を生み、それを孕んだ別の言い方が「逢魔時」なのですね。
大禍時おおまがときと言われることもあります。
災いが起こりやすいと言いたげ。確かに「帰り道は気をつけなさいよ」と小学生の頃は言われましたし、メイちゃんは迷子になりますし。

(余談ですが、コロナ「禍」って定着していますがすごく古風な言い方のようにも思えます。日本神話には禍津日神まがつひのかみという神が出てきますね。)

 確かに、ベランダから顔を出し下を覗いてみると、街灯から離れた所を歩く人の顔は見えにくく、モニャっと動く黒いシルエットはまるで藤城清治の作品のよう。

 (余談2ですが『ベランダから下を覗く?わりと高層階だな?コリャ〜』みたいな冷やかしは複雑です。人には人の乳酸菌と事情があるんだよっ。
祖父母の助けあっての自慢の持ち家ですが、立ち退きの危機なんていう苦い思い出もあり。ここに住むor家なき子の狭間で、ようやく暮らせています。)

 あとgoo国語辞書にはもう一つ意義が書いてあって
「盛りを過ぎて衰える。」と言う意味があるそうです。
「黄昏さん」にはならないように、盛りの波をセルフでサーフィンして生きてこ!

 この意義から派生して生まれた俗語的表現が
「盛りを過ぎてしまうほどに物思いにふける」という
一番聞き馴染みのある「黄昏る」。何事も考え過ぎたって良いことはなさそう。

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で、この黄昏時の反対語はなんだっちゅー話が気になってしまって。
結論から申し上げると、
あかつき東雲しののめあけぼのという
大きな3つの区切りがあります。違うのは時間帯!

暁は名前に反して、まだ真っ暗な状態を指す。最近の3時ごろかな。

この時間帯は奈良時代までは「未明(あかとき)」と呼ばれており、平安時代から「暁(あかつき)」という言葉に変化したのだそう

暦生活

この次に、ぼんやーり空が青白っぽくなる瞬間がきますよね。あなたが課題を徹夜して終わらせるタイプなら知っているでしょ。あれが「東雲。」
そして…

曙はというと、ちょうど日が出る直前の頃で、東の空がほんのりと赤く染まっているような状態です。

暦生活

「彼かは誰たれ時」の意。あれはだれだとはっきり見分けられない頃》はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。

そして他に、早暁そうぎょう払暁ふつぎょう黎明れいめい彼は誰時かはたれどき・薄明・夙めてつとめてなどがあります。
紛らわしいわね!美しいけれどね!

「彼は誰時」は「誰そ彼時」と対を成すようなイメージで、ぼんやりと、人の顔がわからない明け方を指す。
早暁、払暁、黎明は同義語として見て大丈夫そう。でも黎明は「黎明期」が何かが形になる始まりの時期を表すように1日の「始まり」を一層意識させる言葉かも。

「薄明」は英語でいうトワイライト。
時間帯というよりは、日の出前と日没後のうすあかりの状態自体を指すっぽい。

「夙めて」は早朝を表すので、日没前後よりは少し距離がありそう。
もうすれ違ってもお互いの顔が見えるイメージです。

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だめだあ、書いてる途中で眠くなっちゃった。集中力がないったら。
今日はこれで失礼。

くるみぱんマン





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