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社会科に化していく『英語科』の意義は?

CLILの考え方の浸透もあり、現在の英語科の授業では「何を話すかの内容」が非常に重要とされています。

教科書の単元も貧困問題、環境問題、日本文化などとバランスよく配置したり、高校入試においては、比較的学術的な内容について、英文を読んだり、書く機会もたくさんあります。

大学の英語教育に関わる先生方でも、
英文学や英語音声学のご専門の方は、

今の英語の授業は「社会の授業」になっており、
もはや英語という言語の指導はどこにあるのかなどと批判されているかたも一部いらっしゃいます。
(あくまで全員ではありません。)

言語としての指導、「文法、音声、表現」に関わる指導は絶対大切であり、そして第一義であり、
一方で私自身の感覚としてこの「社会科的な内容について指導したがる英語教員」は非常に多いように感じます。

特に、その単元の内容について、英語の授業内で多量の日本語で思考する場面を設けたり、それに関わる教科書に触れられていない情報を、「日本語」で与えていると、私自身もこれはもう英語の授業ではないと感じます。

そこで私自身が内容重視の授業を英語で行う際に心がけていることを簡単ですが、紹介します。

①生徒に最終的にアウトプットをしてほしいことを意識して、教科書外の情報を選ぶ。ただし、教師の話す英語で説明できないことや、長文で読ませたとしても読み取れないような語彙が多量に出る場合は、情報としてセレクトしない。
②教科書の行間を埋める情報を教科書の英語で伝える。教科書の英文は、ページや語数の関係もあるため、抽象的な表現になっていることも多く、教科書本文だけではその事実の詳細を生徒は理解しきれない。よって、英文の意味を理解させるために具体的な事象について触れて英文を英語で英語のまま理解させる。
③生徒の身近に落とすための事象、自分の住む地域に関わることを英語で説明する。こうすることで、教科書単元内容の大きなテーマであっても、personalizeして考えたり、表現することができる。

加えて、私が多くの英語の先生に考えてほしいことは、教科書にあるから教える。教えたいから教えるということも大切にしながらも、「英語科としての意義」という部分です。

音声や文法のauthenticな機能も、英語科でなければ指導できないのであり、伝わればいいでは言い方は厳しいですが、「浅い授業」にしかなりません。

「私はそれでいい。私の考えはこうなんだ。」とはまるで聞こえはいいですが、それは学習指導要領で記載されたことを正当に指導したことにはなりません。

実際にスーパーティーチャーと呼ばれて最前線を駆け抜けてきた先生方の多くは、音声指導や英語の表現や文法の指導をいい加減にすることなく、自然な英語を大切にしながら、内容に踏み込んでいます。

そうすることで、より質の高い英語のアウトプットを行うことができるんですね。

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