浪人狂譚
地下自習室の凋落は、もはや誰の目にも明らかであった。2万5000年前に始まった天井の漏水はついに補修されることなく放置され続け、天井には鍾乳石がシャンデリアのように連なっている。床上約20cmはすでに水中と化し、勉強しようにも長靴がなければどうしようもない状態であり、歩くたびに道半ばで倒れた浪人生の白骨が気味の悪い音を立てた。そこらじゅうに生えたキノコの類は時折美しい桃色の胞子を飛ばした。
去年大学受験に失敗した太白はこの自習室を気に入っていた。何しろこの自習室には自分の他に4人しかおらず、太白にはこの陰湿な空間が自分の性に合っているのだと思われた。他の4人は皆多浪生であったが、その中でも一際目立っていたのが、いつも北の端、つまり自習室の入り口から最も遠い席を陣取っていた蝦仁老師であった。異様なまでに曲がった腰は、その浪年数の長さを物語っていた。ある人曰く256浪目であり、またある人曰く521浪目とのことであった。とにかく渠(かれ)は松の老木のような異様な姿勢で懸命に勉学に打ち込んでいた。渠の机には、2000年も前のセンター試験の過去問が置かれていた。
ある時太白は、この蝦仁老師に話しかけようと思った。太白は浪人生活をより良いものとする上で、この最古参の謦咳に接することが不可欠だと考えた。
昼下がり、蝦仁老師が昼食の為に自習室の外へ出たたのを見計らって、太白も席を立った。蝦仁老師は水中に長時間つけていたせいで真っ白にふやけた足でいそいそと歩いた。太白はすかさず追いかけ、声をかけた。
「あなたが蝦仁老師なのですか?私の名は太白。」
蝦仁老師はゆっくりと顔をあげ、太白に一瞥を与えるや否や、何も言わずに再び歩き始めた。
太白はめげずに問いかけた。
「蝦仁老師、私はあなたに浪人とはなんたるかを問いに来たのです。この愚鈍な若輩者になんとかお話を。」
老師の眉がピクリと動いた。老師はその場に坐り込み、掌を使って太白も座るよう促した。太白は素直に従い、老師と同じような姿勢で座って見せた。
老師はゆっくりと口を開け、こう言った。
「浪人とはな、砂漠で見る蜃気楼のようなものだ。つかむことすら叶わぬ蜃気楼を、愚かな旅人は湖だと思うて必死に追いかけるのだ。ここにいる者は皆、この愚かな旅人と同じくして、受験という名の砂漠を永遠に彷徨い続けるのだ。俺も、お前もだ。」
そういうと、老師は狂ったように大声で笑いだした。老師の口の両端は耳の辺りまで裂けており、びっしりと生えた歯の奥側に見える口蓋には大量の蟲が蠢いていた。
太白は気味が悪くなって、這う這うの体でその場から逃げ出した。外は雨であった。耳にこびりついた老師の笑い声を取り除きたくて、太白は自分の首を絞めた。太白はしばらく苦しんだのち、安楽の表情で死に絶えた。