正月早々言語ゲームでウィトゲンシュタインを打ち負かした時の話
俺の親戚にはウィトゲンシュタインという、哲学に魂を捧げた男がいる。魂を捧げたといっても最低限の社交性は持ち合わせているので、彼は正月の親戚の集まりには毎年参加している。
今年の正月も例に漏れず彼は祖父母の家に現れた。他の親戚が団欒する中、彼は部屋の端でなにやら難しそうな哲学書を読んでいた。飯の時間になると、彼は哲学書をわきにおいて、黙々と寿司を食った。会話といえば、祖父に仕事の調子はどうかと聞かれたときに、それなりだと答えたくらいだった。
楽しい飯の時間が終わると、毎年恒例のゲームの時間になった。あまり大きい声では言えないが、我が家では正月に賭け人生ゲームをするのが恒例だった。ところが今年はその慣例に変化があった。
祖父が言語ゲームは知ってるかと皆に聞いた。皆心当たりのないような顔をしている中で、ウィトゲンシュタインの眉がピクリと動いたような気がした。祖父もそれに気づいたらしく、彼に再び問いかけた。彼は勿論知っていると答えた。祖父は彼に言語ゲームのルールを説明するよう促した。
彼は渋々といった感じで、皆にルールの説明を始めた。その名前に反して、ルールはシンプルであった。円になった参加者が時計回りに「言語!」と言っていくのだが、任意の誰かが「言語侍!」といった場合は全員が侍のモノマネをしながら「言語侍!」と言い、「お言語」と言った場合は次の人が「ランゲージ!」と言う、これがそのルールであった。対応に遅れたり間違った対応をした場合、その人が負けになる。俺はこれなら勝てそうだと思った。
親戚は皆指示に従って円になった。独特な緊張感が漂う。なにしろ金をかけているのだから、当然である。去年のゲームで俺の叔父にあたる人物が破産し、現在行方不明になっていると言う事実もこの緊張感に拍車をかけた。しばらくの後、準備は整ったようで、祖父は始まりの合図を告げた。
「言語」
「…言語」(大叔父脱落)
「言語」
「言語侍」
「「「「「「「言語侍」」」」」」」(祖父、叔父1、叔母1脱落)
「言語」
「…言語」(叔父2脱落)
「お言語」
「ランゲージ」
「言語」
「言語侍」
「「「「「言語侍」」」」」(祖母、父脱落)
「言語」
「言語」
「お言語」
「…ッランゲージ」(母脱落)
ここでついに俺とウィトゲンシュタインの一騎打ちになった。金銭に射倖心をくすぐられた俺の高揚感は、最高潮に達していた。天才として親戚内でも一目置かれていたウィトゲンシュタインを、打ち負かすときが来たのだ。俺は親戚の中では落ちこぼれ扱いであったから、汚名を挽回する最大のチャンスだと思った。
「言語」
「言語」
相手も本気だ。羊を狩る狼のような顔だと思った。だが俺も負けていない。
「言語」
「言語侍」
「「言語侍」」
(やるじゃねぇか。二人になった時点で言語侍の手を打つことは考えづらい、その心理の裏をかいたつもりだったが、さすがウィトゲンシュタイン。見事に対応してきやがった)
「言語」
(こいよ、いつでもこい)
「言語」
「言語」
「お言語」
「ランゲージ」
「お言語」
(その手には乗らねぇよ、ウィトゲンシュタインッ!)
「言語」
「言語」
「言語」
しばらく鍔迫り合いが続いた。親戚一同はこの大勝負を息を呑んで見守った。
「言語」
「言語」
「言語」
「言語」
「言語侍」
「「言語侍」」
(おい、待てよ。今やつは別のことを考えている。何を考えているんだ?…そうか!やつはいま哲学している。はるか昔古代ギリシアから連綿と続くフィロソフィーの営みの炎が彼の中で燃え盛っている。)
「言語」
「言語」
俺は彼に目で訴えた。彼はそれに気づいたのか、挑発的な眼差しをこちらに向ける。俺は奇策を講じた。
(おい、ウィトゲンシュタイン。本質は実存に先立つか?)
これはサルトルが提唱した問いだ。ウィトゲンシュタインは完全に哲学モードに入っていた。俺はすかさず、
「お言語」
ウィトゲンシュタインは狼狽えた。
「言語侍…あぁランゲージ」
敗北は大抵、呆気ないものだ。俺は勝った。歓声があがり、築50年の実家が揺れんばかりに皆騒いだ。ウィトゲンシュタインは呆然とした様子で座っていた。
俺は最初の脱落者である大叔父から2000万を現金で受け取った。しかし、もはや金などどうでも良かった。俺はあの天才哲学者ウィトゲンシュタインを、言語ゲームで打ち負かしたのだ。この事実だけで十分だった。