哲学的童貞論考(草稿)
まず、一般に童貞という場合に、二つの類型が存在することを指摘しておきたい。
一方は、自らの性的な魅力の欠乏、或いは自分ではどうすることもできない諸々の事情により童貞であるが、その淫靡な性格から機会さえ与えられればそれを捨てることを厭わない、謂わば"卑劣な童貞"である。彼等は往々にして肉体的快楽を強く志向し、自らの尊厳と天秤にかけてもなお快楽を追求する。
もう一方は、その生涯において機会を得ながらも、妥協をもってそれを掴むことをせず、インテグリティ(ある種の高潔さ)を持って童貞を貫く、武士或いは侍、またはナイト(騎士)的性質を帯びた童貞である。
これら二つの類型は、しばしばその区別を失い一つの類型として語られることが多い。しかし、このような風潮は高潔な童貞がもつ哲学的思考の鋭利さを包み隠し、童貞を、非童貞諸君の固定観念にメスを入れる異文化としてではなく、見せ物小屋的消費の対象としての異文化と捉えるものに他ならない。
ここまで、"高潔な童貞"を無批判に称揚するような筆致に違和感を覚えた読者がいることは想像に難くない。もちろん、"高潔な童貞"に欠点が存在しないわけではない。"高潔な童貞"が高潔でいられる所以、すなわち非童貞への道を棄却する勇気の源泉が、ある種の傲慢さや自尊心にあることは言うまでもない。つまり、その気になりさえすればいつでも童貞を捨てられるだろうという考えが、彼等をナイトたらしめているのである。或いは、完全な諦念、すなわち自分は一生童貞なのだという諦めからくる開き直りやルサンチマンに源泉があると言うこともできよう。いずれにしろ、高潔な童貞でいることは、おそらく彼等が想像している以上の危険性を孕んでいる。