空に色を.2

 画家、青海みそら。彼女は狂人と呼ばれることが多かった。その理由は些細なことである。
 ひとつに、色彩感覚。彼女の世界には色が少なかった。
 彼女は、生理的嫌悪感をもよおすモチーフを好んで描いた。死、病、腐敗、罪のないものへの暴力。
 そのような絵ばかりを、乏しい色彩で彼女は何かに取り憑かれたかのように朝も、夜も描きつづけるのだった。そして人形の糸がぷっつり切れたように、キャンバスの前でくずれおちる。
 ただそれだけではあったが、彼女は心が無いだとか、生き物を殺す趣味があるなどという噂が立ち、狂人と呼ばれるに至ったのである。
 だが、あるとき彼女は一枚の絵画によってそれまでとは全く逆の評価を得ることとなる。
 天使とおぼしきものが描かれている作品だった。色彩は相変わらず、黒、灰、焦げ色のような暗いものであったが、発表されるやいなや「美しい」という一般的評価が与えられ、彼女は狂人から一転、美に関する表現者とみなされるようになった。さらにこの一作にとどまらず、以降数年にわたってモチーフの変化は続き、『灰の雨』『黒い海』など冷たい無機物をあつかった作品ののち、『楽園』というタイトルの作品では初めてあかにみどりといった光の色彩を用いるなど、彼女の変化していることは明らかだった。
 そんなとき彼女は一人の男と出会う。彼はとある新興宗教の主催者で、彼女の絵を利用してその思想の拡大を図ったようだった。男の下、彼女は次々と作品を製作しつづけたが、彼女の絵を評価することはそのまま、特定の思想への賛同とみなされる可能性が大いにあったため、青海みそらの名は一般的にあやしげなものであるという認となった。
 翠が生まれたのは、この宗教施設の一画だった。「御子」という呼称を与えられ、生後間もない彼の写真が、この宗教団体の会報の表紙をかざっている。
 そして、青海みそらの画家としての経歴はこれ以降不明となっている。
 入れ替わるように、その幼子の画家は表舞台にあらわれる。あくまで宗教的側面などとは無関係に、彼の名前で作品は発表された。未来を担う生命が描く希望に満ちた世界。メディアに取り上げられた彼はこう呼ばれる。神童、青海翠。四歳や五歳の屈託のない笑顔とともに彼の作品が写っているネットの記事がいくつも作成され、今も残っている。
 そのころ、彼はほとんど施設の中で暮らしていた。そうして描かれた世界だった。純粋培養の清潔な世界。確かにそこで彼は神の子だったかもしれない。そして……。
 翠は教室にいる。
 自分と同じ年頃の子どもたちが数十人。箱詰めになった教室で、翠は席に着いている。
 目の前にはまっさらな画用紙。
 その空白を与えられているのは自分ひとりではないのだ。翠は立ちあがり、机のあいだを歩きまわる。子どもたちはそれぞれにてんでばらばらに、好き勝手に空白を色彩で汚していく。
 彼等のようにしてもいいというのなら……。翠は空白の画用紙の前で祈るように両手を組む。ぼくは、何を描けば良いのですか。

 そう、翠は物心ついて以来病気に罹ったように、絵というものをうまく描けなくなったのだった。といって本人はさして気にしていないつもりだったが、過去の経歴などから興味を持った他者が向こうから近づいてきて勝手に失望するのには閉口した。現在の翠の性格が内向的なものになったのも、このことが多少なりとも影響していると思われる。そして今のように、よく知らない人物から絵に関する内容で干渉されると、癇癪を起こしたような行動を取ってしまうのだった。
 ふと気づくと授業の始まっている時間で、静まりかえった廊下で立ち止まった翠は少し迷ったのち、校舎裏の方へと歩きだした。
 プールの脇に回ると見知った男が木陰に座り、本を読んでいた。洗屋。この人はクラスメイトだが、そういえば朝から姿を見ていなかったな、と翠が思い返していると、本から顔を上げた洗屋が視線を向けてくる。前髪が風に揺れ、冷たい瞳がのぞく。
「サボりか」洗屋が口を開く。翠は少しうろたえながら、はは……と笑った。それを肯定と取ったらしく、つまり仲間とみなしたのか。洗屋は「くだらねーよな」と言ってため息を吐いた。
 何と返せば良いのかわからなかったので翠はとりあえず歩み寄っていって「何、読んでるの」と聞いてみた。洗屋が片手をあげて本の表紙を向けてくる。C.ブコウスキー『勝手に生きろ!』翠の選ばないタイプの書物だったので、少し興味を持つ。
「面白い?」「わからん」翠は曖昧にうなずく。
 また、さわさわと風が吹き抜ける。それにしてもここは静かだった。自分も本を持ってくればよかったなと思いながら、洗屋から少し離れたところに腰を下ろす。洗屋は再び読書を続けていたが、しばらくの静寂ののちに「なあ、この前さ」と何か言いはじめる。
「え?」と翠が聞き返すとややあって洗屋が言う。
「なんていうかさ。楽しい、って思うことあるか?」
 言っていることがよくわからなくて、翠が考えこんでいると、洗屋はさらに続ける。
「いやお前、なんかよくわかんねーんだけどさ。ノートに向かって何か書いてるだろ」
 休み時間の落書きのことだと理解し、うなずく。
「あれさ。アホっぽいなって思ってたんだけどよ。お前は気付いてねーかもしれないけど」
「うん……」
「だから、そのときの顔がさ、なんか……。楽しい、って思ってんのかなって。まあ、それだけだ」
 洗屋は書物に視線を落とす。話はそれで終わりのようだった。

「こらーっ! キョウちゃん、おうみ氏を悪の道に引きこんじゃいかん!」教室に戻ると嶋田さんが怒っていた。
「うるせえ。俺関係ねーし」席に帰ろうとする洗屋の後頭部に木の棒が突き刺さる。棒の先に束になってぶら下がった白い紙がふぁさっと揺れる。「悪霊退散」
「マジで殺す」洗屋は後頭部を押さえながら振り返ると嶋田さんをぎっと睨みつける。
 一瞬びくっとした嶋田さんだが体勢を立て直し首を横に振る。
「やっぱり……邪念にとらわれているわ」「は? あのなぁ……」洗屋と嶋田さんのやりとりは乱暴だがどことなくセーブが効いているような雰囲気が感じられるものだった。
「何でも俺のせいにすんな。お前も黙るなよ青海。こいつ、真面目君なのは見た目だけだぞ」嶋田さんの視線と棒がこちらに向く。
 説明……。悪の道に踏み込んだわけではなく、あくまで自然のなりゆきであったことを伝えるべく、翠は嶋田さんに向かい合う。
「気がついたら、授業はじまってた」「こらっ!」
 棒が飛んできてでこにヒットする。
「今度からだめだよ。この人みたいになっちゃうからね」翠はうなずく。
 嶋田さんが棒を振っているとその動きにつられるように椎名さんが寄ってくる。嶋田さんがひょい、ひょいと棒をうまくかわすので白い紙の束が椎名さんの鼻先をかすめる。そのたびに椎名さんはくすぐったそうに声をだして笑う。自然と、二人は仲が良いのだなということが翠にはわかった。
 それで、もしかしたら、とつい思ったのだった。翠はさっと手を挙げる。
 ん? と、嶋田さんと洗屋が翠に注目する。翠はおもむろに口をひらく。
「あの、さ。昨日、幽霊を見たんだ……けど」
 ……。
 幽霊を……。
 幽霊を見たんだ……。
 沈黙の中、声が翠の頭の中にリフレインする。翠の周囲では時が止まったようにクラスメイトたちが静止している。ただ一人を除いて。
 そう、ゆらゆらゆれる紙の束にじゃれつき続けていた椎名さんだったが、やがてふとこの事態に気付き、そして首をかしげた。
「みやこちゃん?」呼びかけられた嶋田さんはようやく呪縛を解かれ、ぎぎぎと動作を開始した。ばね仕掛けのからくりのように少しずつ上半身に捻りを加えたかと思うと、一瞬ののち。
「にゃー!」すぱーん! と渾身の一撃を翠のでこに炸裂させるのだった。
 チャイムが鳴る。
 次の授業の始まりを告げる鐘。洗屋がためらいがちに翠の肩をポンと叩く。
「まあ、あれだ。今のは、お前にしては面白かった」そして今度はおとなしく席に向かっていく。
 あっけにとられながら視線をうつすと、叩くだけ叩いた嶋田さんも、すすっ……と離れていくところだった。
「赤い……!」椎名さんが人差し指をぴっ、と翠のでこのところにやる。
 あの棒。ぜったい使い方まちがってるよ……。
 理不尽な暴力がもたらした痛みは午後の授業のあいだずっと、翠とともにあった。

「おっ、帰り?」
 放課後。校門を出たところで嶋田さんに声をかけられる。
「ごめんね! さっきは。私、昔からつい手が出ちゃうっていうか」てへっと謝られ、気にしていない旨を伝えようとして隣の椎名さんに気づく。翠は学校から出て左側に歩きだしていたので、嶋田さんも家がこっち方面なのかもしれないが、椎名さんは昨日わかったとおり反対側なのだ。
 また道に迷ってしまうのでは……。翠がひとりで心配していると「どうしたん?」と嶋田さんが首をかしげる。
「いや、あの。椎名さんの家、こっちじゃない、ような」はっきりしない口調でもごもごと言う翠だったが嶋田さんは即座におおっという表情になる。
「なになに! ねねんち行ったことあるの?! この子が家に人呼ぶなんてめっちゃ珍しいんだけど! いつのまに?」興奮してまくしたてる嶋田さん。あわてて翠は手で制した。
「その、違うんだよ。昨日たまたま帰る途中で会ったんだけど、それが椎名さん迷子になってて」
「うんうん」
「近所の草むらになぜかいて、それから気がついたらうちに……」
「おうみくんの家にねねが」
「雪さんいた」
「そう。それで……まあそういうことなんだ」
「えー! 仲良しじゃんずるい! じゃあ今度はうち寄ってってよおうみくん。あとライン交換しよ」まくしたてられ彼女のペースに押し流される翠だった。
 そして。
 嶋田さんの家は神社だった。あの棒は神社の棒だった。本殿の隣にくっついた家屋の引き戸を開けると普通の家の玄関で、嶋田さんの部屋も普通の女子の部屋だった。そして翠は同年代の女子の部屋にあがるのは初めてだった。
 正座をして借りてきた猫のようになる翠。
「いつもねねんちお母さん帰り遅いからうちで宿題とか一緒にやってるんだ。ってか足くずしなよおうみくん」
 お菓子の載ったお盆を持ってきた嶋田さんが翠の様子を見てくすくすと笑う。椎名さんはというと、もうすでにでっかいクッションを抱きかかえてこれ以上ないほどにくつろいでいる。しわになるよーとお姉さんのように注意しながらその隣に座ると、嶋田さんはせんべいを一枚とって言った。
「まあ私が言うのもなんだけど、おうみくん変わってるよね。けっこう謎っていうか。だからねねとも気が合うかもってちょっと思った」
 翠はそれを聞いて、ただ純粋に(そうかな?)と思った。
 変わってるとしたら、何よりどれくらいだろうか。普通って、一体なんだろう。……だけど、それで思いだす。たしかに普通じゃないことがあったのだった。そう。
「昨日のことなんだけどさ。やっぱり見間違いじゃなかったと思うんだ。ぼくも信じられないんだけど、うちに来た椎名さんのカバンから、飛びだしてきたんだよ。その、こんな感じの、白くてまるい“幽霊”……」
 また棒が飛んでくるかと身構えつつ言い終わった翠が嶋田さんを見ると、驚いた様子はなく、いやそれどころかむしろ納得したような表情でうなずいている。そして、平然とこう言う。
「なんだ、白いのね。それなら悪霊じゃないから大丈夫だよ」


 世界が、歯車が狂っている。
 翠は家に帰ってからも何もする気が起きず、自分の部屋のベッドの上で暗い天井を眺めていた。
 うまく言葉にできない思考が頭の中でぐるぐる回って落ち着かず、いっそ取りだして壁にでも叩きつけたくなる。だけど我慢して、その頭の中のもやもやをなんとか解きほぐそうと試みる。どうせ、他にやることもないのだ。
 ……まずとっかかりを考える。「ぼくはたしかに見た」これは事実ということにしている。それは幽霊という判断を下した物体だが、どちらにしても「正体不明のものを見た」という体験が、まず第一にもやもやの原因なのだ。
 翠はある童話を思いだす。王様の耳がロバであることを知ったとき、男はこの事実を持て余し、穴に向かって叫ぶ。言わずにはいられない。だが、その結果木々が同様の言葉を話すようになり、王の秘密は国民に知れわたることとなってしまう。男は言うべきでなかった? その理解しがたい事実をもやもやと抱えたまま沈黙しているべきだったかもしれない。男はそのとき後悔しただろうと翠は思った。何故ならば、今まさに落ち着かず天井を眺めつづけている理由はその「言ってしまったこと」にあるのだ。謎は謎のまま抱えこんでいれば、いずれ消化できたかもしれない。それをあろうことかそれほど親しくもないクラスメイトについ話してしまったのだ。頭がおかしいと思われても不思議ではない。あるいはもう明日には、クラスに噂として広まって翠は嘲笑の的になっている可能性だって考えられる。ひとりで考えこんでいると、こういった無数のネガティブな可能性をいくつも思いつき不安が増していくのだった。
 しかし、彼女はそうなのか? クラスメイト、嶋田都子。翠は思いうかべる。
 そもそも、自分以外の人間の頭の中というものは本当にはわからない。箱のボタンを押すと中から文字の書いた紙切れが出てくるように、はたらきかけ、結果を得る、その関連で推測するしかないように思われる。情報が少なければ、信じることは危険か。どの程度情報を収集できていれば、信じるに値するのか……。結局全ては推測に過ぎない。だったら、信じたいか信じたくないかだけってことにならないか?
 結論のでない思考の果て、翠のもやもやは頂点に達する。
 わーっとなってベッドからごろごろと転げおち、床から勉強机の方を見上げていると、ポコン。と鳴って暗闇の中、そこだけが明るくなった。呪縛の解けた翠は立ち上がる。
「あした小テストあるのわすれてた!!」
 机の上のスマホには他愛ないメッセージが表示されていた。

 ともあれ、翠はこの町に来てからはじめて友だちといえる人ができた。嶋田さんは家にいる時間はよっぽど暇なのか、しょっちゅう色々と送ってきて、その内容といっても窓にヤモリがへばりついていたとか、あじのお寿司を食べただとか(嶋田さんは寿司が好きらしくしょっちゅう食べていた)特に報告するほどのこととは思えないものばかりだったけど、返事を送って、また返ってくるというサイクルができると、文字のやりとりの続きを翌日学校でというふうに、自然と会話するようにもなっていた。それから洗屋。友だちと言っていいのか、向こうもそう認識しているのか疑問なところもあったが、互いにクラスに馴染んでいないもの同士、なにか仲間のような感じで顔を合わすと一言二言交わすのだった。椎名さん……はあいかわらず、謎の人だった。彼女は彼女で、クラスといった枠組みにおさまっておらず、休み時間にはおじいちゃんのような校長先生とお茶を飲んでいたりするのである。
 それにしても、「友だち」とは何だろう。と翠は考えたりもする。その関係性を結べていることで、相互間に発生する特別な空気感。
 母と暮らしていたころ、転校前の小学校でも、友だちといえる人がいるにはいたが、毎年クラスが替わると関わることもなくなり、校外で会うこともなく、この町に来た今となっては何も残っていない。その経験からか、むしろ独りでいることを選択し、凪のような日々を送ろうと考えていたのだった。結局消えてしまうものにどれほどの意味があるだろうか? 今も疑問ではある。ただ、またこうしてリセットされた環境でも再び発生してしまった関係性というものはやはりそれなりに興味深いのであった。

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