よくできたFREE.6
工場に社員として勤務するようになり、一日一日が瞬く間に過ぎていった。
労働と眠りを繰り返す日々。そんな中で仕事を終え、赤信号の点滅したがらがらの国道を走るときだけ、私の精神は覚醒した。工場から家までのコースを、己のゴーストと一緒に走る。わずかなミスで過去の自分に突き放されると、私は舌打ちをしてアクセルペダルを踏み込んだ。何故、ただ走っていられないのだろうか。何故止まる必要がある。生きているせいだろうか。車のエンジンを切ってキーを抜くと、私の精神は再び眠りについた。
私が帰ると、家はひっそりと静まり返っている。義母はいつも既に眠っていた。妹は、このところ夜に出かけることが多くなっている。理由は(そんなものがあるのかも)知らない。
二週間ぶりに仕事が休みだったので私は思う存分眠った。昼頃、空腹を覚えてようやく起き出し居間に行くと、妹がテーブルに頬杖をついてテレビを見ていた。私に気づくと、久しぶりに会った妹はじっと私を見た。妹はしばらく私の顔のなにかを確かめているようだった。私も妹の顔を見たがそれは記憶の中のイメージと違っていた。イメージより目が小さく隈が出来ているし、全体的に骨張って顎も尖っていた。これはやはり私のイメージの中の妹の像が間違っているのだろう、私は本当の妹の顔を覚えていないのだと考えた。
「ぼうっと突っ立ってて幽霊みたい」頬杖をついたまま妹が言った。
私はもう疲労を感じる。空腹を満たすことすら億劫になる。
「女の腐ったようなやつやってお母さん言ってた。そんなん言われて何とも思わへんの?」
私が何をしたというのだろう。いや、何もしなかったからだろうか。私は頭を振った。頭が痛かった。寝すぎたからかもしれないが、私は今すぐにでも再び眠りに就きたかった。
「何とか言えや」
「迷惑なら出て行きます」
「アホちゃうか」妹は一瞬顔に出かけた嘲笑を抑え、無表情を作った。「ほんま帰ってこんかったらよかったのに」
妹は居間を出ると階段を踏み鳴らしながら上っていった。私は冷蔵庫から缶ビールを取り出して栓を開けて飲んだ。それからもう一缶取り出すと手に持ったまま部屋に戻った。
いつの間にか夜になっていた。私は真っ暗な部屋の中でノートパソコンを開き、以前書きかけていた文書を眺めていた。くだらない文章だ。保存日時は二年前だった。
気付くと、実家に帰ってから二年が経過していた。私のレベルは二年前のその日から変わらないどころか、下降しているとしか思えなかった。だとしても、そんな御託の一切が「もういい」と私は思った。するといてもたってもいられなくなり、私はノートパソコンを閉じると、立ちあがり部屋を出た。
玄関のドアを開け、数歩歩いてから振り返り家を見た。外側から見ると、家の中には誰がいるのかわからない。だが、そこにはいるべき人間がいて、家族を営んでいる。それは素晴らしいことで、決して侵してはならないものだと私は思った。
私はイグニッションキーを回して車のエンジンをかけ、アクセルペダルを踏み込んだ。無機物の車体が運動を始め、意識が覚醒していく。
暗闇の中で正面に直線。シンプルな世界。目の前の直線の他にはなにもない。全てが一瞬のうちに通り過ぎていく。一瞬先にあった未来を次々と過去へと塗り替えていく。何も迷うことはなかった。時間と空間がある限り、加速すればいい。やがて未来方向は一つの消失点に収束する。加速するにつれ、少しずつ近付く。それはもはや眼前にあった。永遠の消失点に私は飛び込んだ。
孤独は強い性質だった。全てを突き放していく。あまりにもわがままな性質だった。
ゲームには終わりがある。だが、やめるかどうかは自由だ。
もう一度。迷うことなくコンティニューを選択した。
同じ頃、アルバイトの先輩だった古田は生まれたばかりの娘を寝かしつけていた。編集長は新しく立ち上げた雑誌の最終号とさらに新しい雑誌の創刊号の編集作業に追われていた。「ディレッタント」坂本氏はネットで知り合った知人たちを自室に集めて共通の趣味について語り明かしていた。妹は年上の男の部屋で彼の腕に抱かれて微笑んでいた。義母は記憶のなかで愛する人と共にいた。
私は立っていた。鉄の車体が原型をとどめずくしゃくしゃに潰れ、あちこちから黒い液体を垂れ流していた。
前方には闇が広がっている。私は慎重に一歩目を踏み出した。足の裏には確かな感触があった。