まちを歩く
梅田や難波の雑踏を歩くようになったころ、最初に思いついたテクニックがあった。
ぼくの電動車いすは、カップルが仲良く歩く速さとほとんど変わらなかった。
雑踏を歩くとき、もっとも注意しなければならないのは、前方から来る人波だった。同じ方向へ進む人波も相当な密度だから、左右へよけることも危ない。
そこで編み出したのが、同じ速さで歩くカップルの後ろにピタリとついて行くワザだった。
ときどき、気づかれてふり返られることもあった。
おおかた、笑顔を返せば何事もなかった。
カップルといえば、エレベーターのボタンを押してほしい場面などで、手をつないだ彼氏にお願いすれば、ほぼ百発百中で成功していた。
十年ほど前までのぼくだけの常識だった。
いつごろからか、この常識は通用しなくなってしまった。
もうひとつ、興味深い発見があった。
ぼくが大阪へ出てきたのは、一九九六年の夏だった。
つまり、阪神大震災の一年半後だった。
あのころ、電動車いすでまちを歩いていて、手助けが必要になれば、十代半ば~後半にかけての世代の人たちに声をかけると、さりげなく力を貸してもらえた。
その後、ひとりでまちを歩くことが毎日だった二~三年前まで、年齢を重ねても、どの時代になっても、阪神大震災のとき十代半ば~後半の世代だった人たちは、気軽に手助けしてもらえることが多かった。
うちの作業所に、まさにその世代のスタッフがいる。
彼に訊ねてみると、首をかしげながら当時の話をしてくれた。
高校生だった彼のクラスにも、二~三カ月ほど消息が途切れた友人がいたらしい。
ある朝、友人が学校に戻ってきた。
それまで、そんなに親しい関係ではなかったけれど、再会のときは抱き合って喜びあったという。
阪神大震災と一人ひとりの行動を追跡した研究者はいるのだろうか。
ぼくの思い違いなのだろうか。
ずっと感じてきた(?)だから、自分でデータ化すればよかった。
家中心の生活になるまで、パソコンを見るのもイヤだった。
そんなことを言い訳にして、今日は眠りにつくことにしよう。