なんでもない午後の風景
いつだっただろうか。引きこもりはじめたころのありふれた午後だった。ラジオも音楽も聴かず、ぼんやりと時間をやり過ごしていた。
おそらく、薄曇りだったと思う。なぜ、断言できないかというと、転居前のアパートは、ベッドが東向きの窓際にあり、昼近くになると太陽が視野から消えた。しかも、すりガラスになっていて、閉めきると外の風景は想像するしかなかった。
その日は太陽の光がふりそそぐでもなく、窓いっぱいに薄暗さが広がるわけでもなかった。天気が下り坂になるときの鈍痛を、腰や手足にも感じなかった。
結局、記憶の断片をひろい集めると、薄曇りにたどり着く。
天候についてこまかに書こうとする理由には、ひとつの心あたりがある。
幼いころ、ぼくは四季を通して毎日の天気の移り変わりに心をワクワクさせていた。
毎日、寝起きしていた奥座敷から、小さな庭が見えた。
日本海側の山にかこまれた人口五万前後の町では、繁華街といっても季節のメリハリを気づくことに苦労はしない。
春には無造作に配置された大きな庭石に陽炎が揺れ、夏の夕立のあとにはひんやりとした風が枕元まで入ってきてくれた。
そういえば、ぼくは雷が苦手だった。つまり、あの音が怖かった。驚かないようにしようとすると、よけいに手足が跳びはねた。家族から怖がりだと思われたくはなかった。雷鳴が響くと、平常心でも気持ちとは正反対に動いてしまった。
子どものくせに、子どもには見られたくなかった。
商店街から一筋はずれると、鍛治町という名前の通りがあった。
夕方になると、乾いた鉄を打つ音が聞こえてきた。
黒ずんだ塀と瓦の向こうには、隣の家の壁があって、そこには何本かの吊し柿が見えていた。さまざまな記憶が重なりあって、ひとつの映像になっている。
わが家の小さな庭には、晩秋から初冬にかけてサザンカが花をつけていたはずなのに、すこし傾きかけた日差しの中の吊し柿はまぶしい存在だけれど、それ以外に色あるものは残っていない。
鉄を打つ音と吊し柿とあわせて、天水山という力士の名前をはっきりと覚えている。
ネットで調べてみると、ぼくが五歳の五月場所の新入幕だった。
あのころ、新入幕力士の取り組みになったり、田舎の高校が甲子園に初出場したりすると妙に興奮して、おしっこがチョロっと漏れるときがあった。
天水山も記憶の壺にとどまったのだろう。
幕内には、一場所しか在籍していなかったようだ。
ひとりあそびも得意だった。
ある日、祖母が「手の訓練やで」といって、両手の五本指にちくわを挿して炊事場へ離れていった。ギンバエやゴキブリが這いまわる古畳にこすりつけながら、一時間ほどかけて食べつくした。さすがに、ユカリのおむすびはすぐにつぶれてしまい、悲惨なことになってしまった。
仏壇の敷居の溝は、床柱から押入れ側へ傾斜していた。ビー玉を乗せて、床柱にあたるかあたらないかの強さではじく。勝手に戻って来るのが、やけに面白かった。卓球をしている気分だった。
縁側から上り戸まで寝返り通せるか、自分と勝負していた。
わけもわからず、ゴッホやゴーギャンの画集をめくっていた。
三時になると、銭湯のサイレンが聞こえてきた。なんとなく過ぎてゆく一日に淋しくなった。
炊事場から夕飯を支度する匂いがしてくると、今夜の献立が気になった。揚げ物だとわかると、ちょっとうれしかった。
なんでもない午後はいつもけだるくて、それでいて刺激的だった。