がんばるということ
Yさんと出逢うまで、せわしなく動きまわる人をみると、「そんなにがんばらんでも、ゆっくりしたらいいですよ」などと、いつも声をかけていた。
ぼく自身が生まれつきの障害のために、普段どおりに電動車いすで「まち」を歩いているだけで、すれ違う見知らぬ人から「がんばってますね」とか、「大変ですね」などと話しかけられ、困惑するシーンに立ちどまらざるを得ないことがよくあった。
ぼくにとって、「がんばる」は違和感のカタマリみたいなイメージだった。
Yさんは施設から大阪へ出てきたころ、泊まりのボランティアを担ってもらっていた先生たちの組合のメンバーのひとりだった。
彼が玄関のドアを開けると、小走りに部屋へ入ってきてぼくに訊ねた。
「腹減ってへんか?」
「疲れてへんか、ベッドに寝るか?」
「トイレは大丈夫か?」
こんな感じで、矢継ぎ早にぼくを案じる言葉が押し寄せてきた。
一つひとつ大丈夫だと応えると、
「ほんなら、何をしたらいい?」と、問いかけはつづいた。
いつでも眠ることができる状態にまでたどり着くと、水屋からお酒を持ってきて、一段落つくことになる。
もちろん、ちょっとしたタイムラグがあると、その間に洗濯物をたたんだり、ゴミの分別をしたりとYさんの動きがとまる瞬間はほとんどなかった。
最初のころは、テンポを落としてもらうようにお願いしたときもあった。
いつのころからか、そんなYさんに別の感情をもつようになる。
ひょっとしたら、この人にとってせわしなく動きまわることが普通なのではないか、こうして生きてこられたのではないかと。
そう思いはじめると、彼ほど頼りになる人はいなかった。
電気製品だけではなく、電動車いすに不具合が起きても基板などの大がかりなことでなければ、サッサと直してもらえた。
電動車いすで転倒して帰宅した夜は、テキパキと処置してくれた。
見事だった。
いつの間にか、Yさんが忙しく動きまわる背中を穏やかな気持ちでながめるようになった。とても居心地のいい存在になった。
その後、新しい人間関係ができると、「がんばる人」には自分を肯定しているか、他人からの評価を気にしすぎていないか、などとウォッチングするようになった。
Yさんは教師を退職するまで、ぼくのナワバリの学校に勤務していた。
何度か、子どもたちへのお話に招かれたので、みんなと顔見知りになった。
ときどき、「Y先生の友だちの○×さんやなあ」と声をかけられた。
「友だち」と呼ばれることが、なんとも言えず気持ちよかった。
ときおり、自転車でかけぬけるYさんとすれ違う。
相変わらず、忙しそうに片手をあげて「またな」などと言いながら、ぶっ飛ばしていく。
「事故らんかったらええけど…」などと考えながら、ぼくは振りかえる。
ぼくの信頼する友人にKさんがいる。
以前、同じ作業所の運営に携わっていた。
ある日、めずらしく真剣に仕事のための机に向かっていた。
昼休憩も取らずに書類をつくっていると、Kさんがぼくの傍らを通り過ぎようとしていた。
突然、彼女がぼくの肩をポンとたたいた。
「よお、がんばってるやん」
顔をあげると、笑顔があった。
がんばっているときに、評価されるのはとてもマレなことだった。
ちゃんと見ていてくれたことが、ムチャクチャうれしかった。
障害者がまちのすみずみにまで活動できる世の中になれば、がんばっている場面とそうでない場面の見極めができる人が自然に増えるだろう。
そんな時代になれば、さまざまな背景をもつ人に対して、「がんばる」は力をもつ言葉になるのではないだろうか。
まだ道半ばの想いは深い。