雪がくらくら降っている
幼いころ、ぼくが過ごしていた奥座敷には掘りごたつがあった。
生まれ育った福知山は盆地だったので、町の中心部ではめったなことでは大雪にならなかった。
それでも、日本海側に位置することには変わりなく、初冬から早春にかけて庭に植えられた山茶花や木犀(もくせい)の枝葉が隠れるほどの雪が降りつもることがあった。
もちろん、盆地だから冬はよく冷えこんだ。
硬直で掘りごたつに落ちてしまわないように、足先だけを突っこんで過ごしていた。
お布団からはみ出した胸や肩には、フワフワの毛布をかけてもらっていた。
ときどき、店の帳場に寝かされて商いするおかあちゃんの背中を見ていたぼくは、ぼんやりとおカネにまつわるあれこれを感じ取っていたから、フワフワの毛布の肌ざわりは、ちょっとリッチさがあってうれしかった。
でも、雪の朝は特別だった。
テレビの明日の天気予報で「京都北部」に☃(コレはちょっと違う)のマークが出ると、それだけでオシッコがちびりそうになるぐらいだった。
台風と雪はぼくの心をワクワクさせた。
ぼくの寝ている枕もとには障子があって、それを開けると縁側になっていた。
庭へ出るガラス戸の手前には、濃いカーキー色の分厚いカーテンがかけられていて、夕方になるといつも閉められた。
おかあちゃんだったか、おばあちゃんだったかの話によると、戦争中に灯りが敵(アメリカ)の戦闘機の目標にならないために、どの家も分厚くて暗い色のカーテンにしていたらしい。
いつごろか、テレビか教科書で「灯火管制」という言葉を知った。
ぼくが物心ついた時代にも、戦争中の名残が生活の傍らにあったことになる。
カーキー色のカーテンで、お得意の寄り道をしてしまった。
朝から雪が降っていると、おばあちゃんは「やっちゃん、雪やでぇ~」と教えてくれた。
枕もとの障子と重たいカーテンと縁側のガラス戸を開けると、冷たい空気が押し寄せてきた。
それでも、ぼくは足先にかかっている掘りごたつのお布団をけとばして、フワフワの毛布もはねのけて、庭がよく見えるように寝返りをうつと、小さな視界であっても、目の前にあるのは雪景色に違いなかった。
庭木や灯篭と調和するようにレイアウトされたぼくのゼッペキアタマ(幼いとき、仰向いて寝かされたままだったからなってしまったと、おばあちゃんが言っていた)を連想させる大きな石の上も、ほんとうに真っ白だった。
牡丹雪が降ると、おばあちゃんは庭先を眺めながら、ぼくに話しかけた。
「やっちゃん、雪がくらくら降ってるなぁ~」
「くらくら」は、いつまでもぼくの心に宿っている。
いまでも、ぼくには「くらくら」以外にどんな言葉をつなぎ合わせても、揺れながら落ちてゆく牡丹雪の質感を伝えることができない。
「う~ん」と考え込んで代わりに降りてきたのは、京都の孝子おばちゃんがクリスマスプレゼントに送ってくれたキャンディーとチョコレートがいっぱい入った上等な詰め合わせだ。
けっこう大きなまるい缶だった。きれいなお城の絵が描かれていた。
牡丹雪から、唐突に孝子おばちゃんのクリスマスプレゼントに話題がすり替わってしまったかというと、ハッカのアメちゃんにワケがある。
こどものころ、ぼくはアメちゃんといえばハッカ味だった。
口の中がスッキリするのが、なぜかうれしかった。
そういえば、おばあちゃんと庭の雪景色を眺めていたら「ハッカのアメちゃんみたいな白さやなぁ~」と、頭の中が急旋回したことを思い出したのだった。
オッサンになると、こんな発想は飛びだすはずがない。
なつかしくなった。うらやましくなった。でも、もどることはできない。
おばあちゃんが話していた「雪がくらくら降る」について、ネットで山陰から北陸にかけての方言を調べてみた。
「雨がピリピリ降る」は出てきても、どこにも見あたらなかった。
唯一、noteに実名で登場いただいている永井くん(ほぼ同郷)に訊ねても、耳にしたことがないらしい。
日本海側育ちの人に聴いても、同様の応えしか返ってこない。
いまのところ、おばあちゃんの素朴で繊細な言葉ということで落ち着きそうだ。
おばあちゃんは掌にくらべると、細くて長い指をしていた。
六十代半ばまで家事を担っていたけれど、きれいな手をしていた。
ぼくが施設に入ってからも、外泊するとおばあちゃんはいつもリクエストに応えて、美味しいものを食べさせてくれた。
思春期近くまで、ぼくを抱えてトイレにつき合ってくれた。
亡くなる間際に家へ帰ったときも、おばあちゃんのために神戸から取り寄せたハムを「やっさんに食べさせてやって」と、一生懸命にかすれた声で伝えてくれた。
「くらくら」という言葉をおばあちゃんの手がつつんでいるような気がする。