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「オシッコ」とともに生きる

  生まれつきの障害をもったぼくは、あまりイタズラをしたことがない。やりたくても、大人は手伝ってくれなかった。
 幼いころ、たった一つドキドキの場面を自覚できるシチュエーションがあった。

 わが家は小さな湯船だった。おやじに抱きかかえられて、丸まるようにして、いつも「百」を数えて上がった。
 ある日、洗い場でオシッコがしたくなった。お風呂が終わるまでガマンできそうだったので、そのまま湯船へ浸かってしまった。

 五十を数えるあたりで、のけぞってしまいそうになった。
プロパンで沸かすタイプだったけれど、硬直して足が伸びるといちばん熱いところに指先がいく。ヤケドするのは、かなわなかった。
 子どもなりにイチかバチかの勝負を味わいたくなった。
ちょうど、おちんちんの先は、両ももの間に埋もれていた。
 
 「百」を数え終わらないように、ゆっくりと間をあけながら、一方でちびちびとオシッコを出しつづけた。
 こんな書きかたをすれば、かなりの時間を費やしたように勘違いされるかもしれない。
だけど、たかが子どものオシッコの量などしれている。
 
 無事、おやじにはバレなかった。
さらに、クセになるぐらい気持ちよかった。
 ガマンするほど、出しきったあとの快感はたまらないし、股の間でお湯と混ざりあう感触に「オボれて」しまった。
 
 さすがに、六歳ぐらいになると恥ずかしくなって「さよなら」をした。
おやじは、最後まで知らなかったのだろうか。それとも、知らないふりをしていたのだろうか。

 もっと強烈な話を聞いたことがある。
 十五歳で入学した養護学校の寄宿舎で、仲良くさせてもらったNくんのお父さんとのエピソードだった。

 小学生のころ、夕食はお父さんと二人だった。
お父さんはビールが大好きで、かならずといっていいほど食事にあわせて呑んでいた。
 ある日、帰宅したNくんは冷蔵庫から冷えたビール瓶を出し、自分のオシッコと入れ替えた。

 二人の夕食がはじまった。なにも知らないお父さんは、いつものようにビールと思いこんでいる液体をコップにそそいだ。
 それから、一気に飲み干した。
 その後、Nくんは、お父さんの大きさに頭が上がらなくなったという。
彼はぼくの寄宿舎一年目の部屋長だったけれど、障害に分け隔てなく一人ひとりを思いやるやさしい人だった。

 ぼく自身にとっても、忘れられないオシッコのエピソードがある。
 施設を出て作業所へ通いはじめたころ、とても暑い午後だった。
 パンの配達へ出て、道に迷ってしまった。
 大きな公園の外周道路で、オシッコがガマンできなくなった。路駐の車が並んでいた。
 辛抱がきかなくなると、のけぞるしかできなくなる。汗ブルブルになりながら、ふと考えた。
 ガマンを限界までつづけるか、あっさり漏らしてしまうか?
 頭の中にテンビンバカリが現れ、どちらのリスクが重いか、もう一人のぼくが答えを迫った。

 簡単だった。ガマンしたところで、土地勘のないぼくがトイレをお願いできる場所にたどり着く確率は低い。
 さらに、のけぞったまま電動車いすを走らせていると、路駐の車にぶつけてしまうかもしれない。
ミゾにハマってケガをするかもしれないし、走っている車にぶつかったら大変なことになる。

 全身から緊張を抜くと、外気温よりすこし温かいオシッコが足の先からお腹のあたりまで、あっという間に広がった。快感だった。

 深いため息をつくと、なぜか「自立」という言葉が浮かんだ。
 
 あの午後のあの瞬間に直感した「自立」が、いまでもぼくにはいちばんフィットしている。

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