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風呂敷先生
U先生は、いつも唐草模様の風呂敷を下げて教室に入ってきた。
「これね、その日の資料の量によってすごく融通がきくし、折りたためばどこへでも仕舞うことができるしね。風呂敷って、便利なんですよね」
なるほどと感心したけれど、ぼくは車いすの背もたれのリュックサックに二~三日分の教科書と文房具や曲がるストローといった必要品を入れて持ち歩いていた。
よくプリントをなくして、先生たちにあやまっていた。
U先生には、もう一つのこだわりがあった。
彼は、高等部二年生で受け持った政治経済の最初の授業から、一度も教壇に上がることはなかった。
「君たちと上下関係になってしまうことがイヤなんです。人間はほうっておくと、すぐに優越感に浸ってしまうし、劣等感を持つと、そこから離れるのは至難の業ですしね」
もともと、専門分野は理系でアメリカのNASAにも関わった経歴があるらしかった。
「セサミストリートをずっと観ていると、そのうち自然に英語がわかるようになりますよ」
なんてアドバイスされたけれど、ぼくのような凡人にはそんなに上手くいかなかった。
養護学校を卒業した春、ぼくは実家から遠く離れた障害者施設での生活をスタートさせた。
聴講生として大学で憲法を深く知るという希望とは、正反対といっていい選択だった。
当時は、実家の経済状況など諦めた理由をひねり出し、妥協を正当化していた。
でも、いまになれば、ほんとうに求めていなかったと思う。
山にかこまれた施設生活の二日目、待ちかねていた電動車いすが届いた。
ぼくにはやっかいな「不随意運動(意識するほどに正反対の動きが出てしまう)」が出やすいので、手押しの車いすでも危険を避けるために、腰や手足をベルトで抑えていた。
電動車いすに乗り替わっても、体のどの部分を固定すれば落ちつくのか、自分で把握できていたし、卒業前にかなり綿密なシミュレーションをしながら準備を重ねていた。
施設のスタッフに細かく説明して、体のポジションを整え、不必要な動きを抑えるベルトの装着も完了した。ほぼイメージ通りの状態をつくることができた。これまでの車いすでの体勢の維持を基本にしていたので、違和感はほとんどないままに初めての運転までのプロセスをクリアした。
いよいよ左手元にコントローラーを取りつけ、慎重に微調整してレバーを指に挟んでからスイッチをオンにした。
信じられないほど、スムーズだった。なんの苦労もなく方向転換したり、障害物の寸前で止まったり、狭いスペースでも器用に運転することができた。
施設生活がはじまって、すぐに初めての彼女ができた。施設のスタッフだった。
お昼休みになると、御在所岳の見える建物の裏で、もどかしく過ぎていく毎日や、あのころ共通のファンだった中島みゆきの話をした。
高等部二年生の二学期だったか、リハビリも担当していたU先生が電動車いすをぼくに提案してくれた。
「世の中に出ると、自力で移動できるかどうかは生活スタイルだけでなく、価値観を左右するほど大きなテーマになるはずだから、チャレンジしてみませんか?」
U先生の想いを深く理解して、挑戦を決めたわけではなかった。
ただ、身体的なことでいえば、腕を固定しながらかなりの速度でワープロを打っていたし、意識するヒマもないとっさの動きについては自信があった。
それに、なによりも、U先生からの提案はぼくにとってもっとも信頼できることだった。
U先生はとても熱心な人だった。養護学校といっても、夏休みと冬休みは一般の学校と同じ期間だった。
リハビリを長く休むとよくない人には、電車で通ってフォローしていた。
ぼくには乳幼児に効果が高いといわれていたボバース法ではなく、成人障害者に合った訓練法を取り入れてもらっていた。
あれから四十年、ぼくは電動車いすで歩きつづけている。
施設では、まちを歩く経験はほとんど重ねられなかった。
移動といえば、買い物に行ったり、通勤したり、旅行をしたりのイメージが湧くのではないだろうか。
健常者は、意識をしなくてもテレビの観やすい場所に行ける。後ろから声をかけられれば、ふり返ることができる。
ほんの何十センチか、何センチか向きを変えたいこともある。
ぼくにとって、そんな日常のありふれた場面で、移動できることがほんとうに大きかった。
もし、電動車いすに乗っていなければ、内面ももっと萎縮していただろう。
施設を出て二十五年、まわりの人たちはぼくを評して、「まちを歩いてこそ」と口をそろえる。
コロナ前までは、休日になると難波から梅田までひとりで歩いた。別におもしろいわけでもないのに、ついつい歩いていた。
桃谷には御用達のキムチ屋があり、天六ではいつも和菓子屋に立ち寄り、泊まりのヘルパーさんの分もおはぎや葛まんじゅうを買って帰った。
ご近所の市場の豆腐屋さんでは、十円単位を切り捨ててもらえる。コンビニにはなじみの店員さんがいて、ヘルパーさんとの待ち合わせがうまくいかなかったりすると、ガラケーの操作を手伝ってくれたり、雨宿りに店の隅を使わせてくれた。
こうして電動車いすは、ぼくの生活のパーソナルな部分のストレスを和らげ、ごく普通の一人ひとりとのつながりをつくる大切なアイテムになった。
後日、聞いたエピソードがある。
U先生が職員会議で、ぼくの電動車いすへのチャレンジを提案した。
すると、ほかの先生たちは猛反対したらしい。
ほかの先生たちの気持ちがわからないわけではない。
大きな動作は苦手だし、不随意運動も強い。普通に考えれば難しいと判断するのは当然だろう。
いまになっても、ぼくのタイプの同じ程度の障害があって、手足を使って運転している人はめずらしい。
何かを意識しなければ、常に硬直しているわけではないことや、目に見える動きと比較して指先が器用にコントロールしやすい点など、じっくり向きあえば気づくかもしれない。
本当に、ぼくの可能性を見抜いてもらえたことは、感謝という言葉では伝えきれないものがある。
在宅生活が中心になったぼくをみて、U先生は何を感じるだろうか。
だいぶん短くなったとはいうものの、三~四時間は車いすに乗っていられるようになった。
半年ほどかけて、ここまで復活してきた。
完全復活(朝から晩まで乗りつづけていた)は欲張らず、一日でも長くこのレベルを維持したいと思う。
身体の声に耳を傾けると、そのあたりが落としどころだと言っているような気がする。
ふり返ることで、ゆっくりととても微量なやる気が背骨のあたりを走るときがある。
まだまだ書き残しておきたいことがある。