八百円の記憶
五歳のころだっただろうか。
あの時期、ぼくはおふくろを「おかあちゃん」と呼んでいた。
盆踊りの夜、おかあちゃんに抱かれて、町で一番にぎやかな公園の人垣の中にいた。
ぼくのふるさと福知山は、明智光秀が治めていた城下町として知られている。
また、「福知山音頭」はとても繊細な節まわしで、唄いこみの必要な難度の高い民謡ではないだろうか。あわせて、踊りの振り付けも複雑で、勢いだけではこなせない品の良さを感じる。
ぼくが踊りの輪を見飽きはじめたのに気づいて、おかあちゃんは屋台をめぐる人の流れの方へ連れていってくれた。
焼きとうもろこしやりんご飴も気になったけれど、ぼくをくぎづけにしてしまったのは、薄黄色の灯りの中でピンクや緑や青色の浮き雲みたいな模様が動く「まわり灯篭」だった。
「あれ買ってぇ」というと、おかあちゃんは「八百円もするし、高いからアカン」とこたえた。
ぼくはおかあちゃんの胸の中で、汗だくになりながらダダをこねた。
近所のお菓子屋で、あられが三袋で百円だった。
それから、ぼくを寝かしつけながら「きょうは十万円もするええ着物が売れたで」とうれしそうな顔をしたおかあちゃんを憶えている。
いま、思い出した。みかんがひと盛り二十円ぐらいだった。
また、思い出した。一銭焼き(あのころ、わが家ではお好み焼きと呼んでいた)が十円だった。
こんな感じで、世の中全体をトータルした物価の具合は定かではない。
ただ、おかあちゃんの「八百円」という言葉がやけに耳に残っている。
それほど裕福ではなかったとはいえ、末っ子で生まれつきの障害をもっていたぼくは、かなり甘やかされて育った。
だから、おかあちゃんの言葉は不意打ちだったのだろう。
「八百円」の響きがとても重く聞こえた。
ぼくは、五歳のころまで「さ行」がうまく発音できなかった。
どうしても、ちゃ、ち、ちゅ、ちぇ、ちょになってしまっていた。
それは、最初の劣等感だったかもしれない。
ほんとうは、あのころから「おかあさん」と呼んでみたかった。
その後、まもなく「さ行」がふつうに話せるようになった。
でも、相当あせっていたのを憶えている。
おかあさんと呼べるようになり、すぐにおふくろは長期入院する。
そして、ぼくは家を離れ施設へ。
あこがれていた「おかあさん」と呼べるようになったのに、すごく残念だった。
奇跡的におふくろは死を宣告された病から復活し、ぼくは施設から念願だった養護学校へ。
通常の就学年齢より三歳遅れで学んでいたぼくが二十歳の誕生日前後に寄宿舎から帰省した夜、おふくろが成人を祝って「鬼ごろし」を呑ませてくれた。
ちなみに、おばあちゃんは四~五歳ごろから庭先のお稲荷さんに供えたお神酒を翌朝に呑ませてくれていたけれど…。
あのころ、友だちとの会話の中では、ぼくは「オレ」という一人称をつかっていた。
ほろ酔いになったぼくがおふくろに「オレなぁ…」と切りだすと、家計が火の車だったあの時期に思いもよらないほど、屈託のない笑顔になった。
よく見ると、度のきついメガネが涙で曇っているようだった。
「ヤッサンもそんな言葉をつかうようになったんやなぁ…」
しばらく沈黙がつづいて、また呑みはじめた。
おふくろに対して照れくささを感じたのは、あのときだけだったと思う。
ぼくは手紙や文章を書くとき、先方がよほど目上でなければ、「ぼく」をつかっている。
ぼくを漢字にすると、重たい空気になる。でも、ひらがなにすれば、かしこまらなくてもすむ。
以前、作業所から学校へ電話をかけるとき、個人名の後には「先生」ではなく、「さん」づけにしていた。
また、地域の夏祭りなどで、来賓の議員さんたちの紹介に「先生」をつけることに抵抗感をもった時期もあった。
名乗り方も、立場によっての呼び方も、考えはじめると結構ややこしい。
今夜も「八百円」の記憶から、ずいぶんテーマがひろがっていった。
やっぱり、長くなった。やっぱり、夜遅くなった。
ぼくは、いつもフリーハンドでしか書き進められない。