できたらいいな、と思うこと
こんにちは。
今回の話題は前回のつづきになります。
私は教員になる決心をした、という内容だ。
しかし「軽い気持ちでやってみよう」ということを述べただけで、「ふざけているのか」とお𠮟りが飛んできそうである。
教員になることは決めたが、教員になって実現させたいことについては全く述べられていないので、今回はそれを述べようと思う。
あくまで「できたらいいな」という前提で。
私の「できたらいいな」は共生社会の形成の実現である。
共生社会とは、文部科学省によると
と定義される。私はどのような人でも認め合える社会を作りたい。
前回でも述べたが、私はこれまで放課後等デイサービスの職員として働き、障害や発達に特性のある児童とかかわってきた。
放デイでは、利用児童の発達特性や障害の度合いに応じ、一人ひとりの児童が活躍できるよう支援(=療育)が行われる。
ここで印象的な児童をとても簡単に、とても雑に紹介したい(個人情報保護のため)。二人との出会いは私の決断を後押しするものだった。
まずは中学生のAについてである。
通常学級に所属しているが、周囲にうまくなじめない。休みの日に通常学級の同級生に出くわすと木陰に隠れてしまう。
もう一人が小学生のBである。
Bも通常学級に所属している。本人の発達特性によるところもあり、同級生の多くからいじめられたり学校の先生方にも嫌われてしまったりしている。よく「周りのやつらは誰も話を聞いてくれへん」と愚痴をこぼし、涙を流すこともある。
しかし、AもBも周囲に理解され活躍できる環境が整備されれば、たちまちに力を発揮できる。Aは絵を描いたり工作をしたりするのが得意で、発想力も素晴らしい。Bは頭の回転が速く、ひらめきがあるため、頭の体操として行うこともある中学入試問題の難問も簡単に解いてしまう。
障害があったとしても、社会の側が条件整備をすれば、彼らは「健常者」をしのぐ力を発揮する可能性があると私は感じた。「障害は社会の側にある」と福祉業界ではよくいわれるが、その通りだと思う。
ならば、どのようにすれば彼らを活躍させることができるのか。放デイのような福祉施設では障がいのある人を中心に据え、主に本人へのエンパワメントによって、共生社会形成のための後押しをしているといえる。
その方法も悪くないし、私はいままでその方法をとってきた。しかし、私は社会の側にある障壁(=バリア)を取り払えるようにしたい。点字ブロックやスロープ設置などの物的なバリアフリーは進んでいるかもしれないが、一番重要な「心のバリアフリー」は成し遂げられているだろうか。実際はまだまだだと思う。ある児童は「通常学級にいくと息苦しい」と話しているが、そう思う児童は多いだろう。
障害があろうがなかろうが、異質なものであったとしても互いに理解し、尊重し、共生できる社会を形成していきたい。
そのためには、マジョリティへの働きかけが重要である。障害分野でいうと、多くの健常者に対して理解促進を図る必要がある。それには教育が必要だ。障害のみならず、あらゆる異質を理解し、尊重する、それができなくてもそうしようと努めることは共生社会形成につながるはずである。
だから私は教員として、異質理解をしようとする態度のある児童生徒を育てたい。他者の立場を慮り、他者のために喜び、涙を流す人を増やしたい。
人間は他の生物とは異なり、相争うことで進化するフェーズは抜けたはずである。それに加え、地球規模の課題も多い。ならば人類全体が(もちろん他の生物も)手を取り合うしか道はない。
そのために、私は教育という手段をとることにした。