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「父の生きた時代を想う」14

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定年のない生活
父の一周忌が近づいてきた。自分もついに黄昏研修などに呼ばれて、思い出すのは、母のこんな言葉だ「私たちは定年がないから、いつまでも好きなように生きられる」
弟の小学校のクラスで、母はPTA活動をやっていたのか(もう思い出せないが)何人かの弟のクラスメートのお母さんとは、いつまでも仲が良かった。時々集って飲んだり、なんと一緒に温泉旅行にも行っていた。そんな旅行先の温泉で、母は気に入ったといってマッサージ機を買おうとすると、「え?そんな高額なものを(たぶん10万円以上したと思う)、ご主人にご相談しないでいいんですか?」と驚かれたといい、逆に母は「そうか、夫の収入にたよるとは自分で買いたいものを買う決断ができないということか・・・」と驚いたそうだ。その話を私にした時「私が働いてんだもん」と嬉しそうだった。そして夜は、みなが夫の定年後の生活に対する不安を話すのを聞き、「自分たちはいつまでも仕事ができる。自営業でよかった」としみじみと語っていた。あの言葉が今、心に沁みる。

とはいえ、その頃もまだ両親は過去の連帯保証人になったことにより、他人が残した借金まで背負っていたので(日本の零細企業の経営とは壮絶だ)、その言葉は自分自身を励ますものだったのかもしれない。

20世紀の最後の数年に”ゼロ金利時代”が始まり、(当時の)自分のような20代のサラリーマンにも、マンションのセールスマンが押しかけた。とても素敵なマンションをみつけ購入したくなり、母にも来てもらった。母は厳しくチェックした。母の厳しい質問に直立不動になってしまったセールスマンは、(当時は誰にもそう言ったのだが)「お嬢さんの年収ならローンが組めます」といい、母は少し嬉しそうだった。しかし私は最後の最後で怖くなり買うのをやめた。悩みぬいた夜、若い頃から大きなお金を借りて商売をしてきた親の偉大さを知った。またその10年ぐらい前に、米国に赴任している叔父の家に遊びに行った時、米国人と対等に議論する”かっこいい”叔父が、私がそれを褒めると「俺はサラリーマンだが兄貴は経営者だ」と逆に父を称えた言葉も懐かしく思い出した。

父の父、祖父は戦争の前に財産を失い家族を放り出し、どうしようもない人だったが晩年動けなくなり、家族のもとに帰るしかなくなり、87歳で亡くなる最後の15年ぐらいは祖母と一緒に住んでいた。(入院していた時期も長かった)葬儀の日は父の兄弟はある意味、恨みつらみを吐き出す会となり。お通夜はみな”いかに自分たちの面倒をみなかったか”、その結果”いかに兄弟苦労したか”で泥酔する日となった。しかし一番恨みがあってもいいはずの父は、出棺の挨拶でもそんなことは微塵も出さず、逆に前の日の飲み過ぎか、何の話かわからないトンチンカンな挨拶をした。結婚式が控えていた弟は青くなり、母は「大丈夫、あんたの時は私が原稿を書くから」と言ったそうだ。やはり影の社長は母だ。一番年下の叔父はとうに帰国しており、仕事関係者にメールするのに「葬式ってなんだっけ?」私と弟が同時に「funeralでは?」「(それは知ってる)スペルだよ!」という会話を、父は楽しそうに聞いていた。
葬儀の後父に、「お父さんは、おじいちゃんに対する文句を言わないんだね」と聞くと、父はいつものようにニコニコして「別になんか言ったところでね」。私たちは父の懐の広さを改めて感じた。”社長”というのは、他人にかけられた苦労など、恨んだりする暇も心の狭さも持ち合わせてはいけないのかもしれない。自分は父のようになれないと思ったし、今もそう思っている。

父は外国人にもとてもオープンだった。大学時代から私たち姉弟はよく、外国人の友達をつれてきたりホームステイを迎えたりした。父はいつも楽しそうに知っている単語を並べ、言葉が通じなくても平気で話した。外国人の友人たちも、言葉はめちゃくちゃでもみな父の笑顔をみて、パパ、パパと親しんでくれた。これも”社長”がもつべきキャラクターの一つなのだろう。

その15に続く

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