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「父の生きた時代」を想う 8
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印刷屋はヒーローな時代
私が小学生の時、まだ授業で使うプリントはガリ版で印刷していた。いつの頃からかオフセット印刷機に置き換わったし、大学時代にはノートのコピーをコンビニでとっていたけれど、安価ではなかったように覚えている。
そんな時代、父の会社が印刷屋であったことは、幼稚園のころからなんとなく自分たち子供が”特別扱いを受ける”理由になった。
通っている幼稚園の運動会、習っているピアノの発表会、いつも父の会社でパンフレットなどを印刷していた。たいてい原稿はボランティアで母が作った(母は結構センスがよかった)。昔だから許されたと思うが、どこからか切り抜いてきたグランドピアノの絵を右下に貼り付けて、コピーした後綺麗に影を消し、光沢のある紙に黒一色で印刷し、なかなか高級感のあるピアノの発表会のパンフレットが出来上がったのを覚えている。
私が通っていた頃、幼稚園の園長の娘が結婚指揮を帝国ホテルで挙げたのだが、印刷で培ったステータスで、私は花嫁の後ろでカゴを持ち、紙吹雪をまく6名の名誉ある園児に選ばれた。うち以外は父親がNHKの職員とか、下町の印刷屋からみると”ちょっと良い家”ばかりだった。当時の両親は誰もが顧客候補であり、ケチな私から見ると考えられないほど、ちょっとした良い服を用意し、引けをとることもなくそのようなイベントに出て行った。当時のアルバムをみても、父はふっくらとした笑顔で貫禄もあった。
(今、両親ともに他界しアルバムと大量の服や着物が残されたが、当時の所得や生活レベルからすると驚くほどキチンとしたものだ。それらは親戚だけでなく商売をしていると頼まれる仲人やら何やらで必要だったのだろう)
また父は年中忙しく、週末は1日寝ていて子供の相手もできなかったのに(弟がボールを持って寝ている父を襲撃し「遊んで!」というと、そのボールを寝たまま、開け放たれたベランダから放り投げ「とってこい!」と言ってまた寝ていた。寝ぼけて息子と飼っていた犬の区別がつかなかったのか・・・)迷惑なほど子煩悩なところがあった。
ある時突然、「スクール水着の広告の仕事を請け負った、モデルが必要だから明日の放課後友達を男女一人づつ連れて撮影所に来い」と言われた。撮影所、といっても普通のマンションで、”カメラマン”も、なんというかバイトみたいな感じだった。父の会社の社員の人がいて、広告に必要なスクール水着を私たちに着せて、撮影を仕切った。弟とそれぞれの友達合計4名、緊張してみんな泣きそうな顔になっていた。また”カメラマン”も下手で、足に光がうまく当たらず真っ黒になっていたりした。当時はどんな仕上がりか現像するまでわからない。出来上がった写真をみて我々もがっかりした。しかしなんとかマシな写真を選んで、A4一枚の広告が完成した。私たちは誰か友達が見ないことを願ったが、父は一人で上機嫌だった。