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「父の生きた時代」を想う 12

その1はこちらから

バブル到来
「今度は小さな経営にする」と言ったのに・・・
私が生まれて初めてアメリカに行った時、実は子供の頃抱いていたより「すごい国」に見えなかった。子供の頃はサンシャイン60に登って感激していたのに、その頃には気がつけば新宿に何本も60階を超えるビルが登場し”日本版スカイスクレイパー”になっていた。大学生になったころ、東京の日常はガラリと変わっていた。時代はバブル経済に突入していた。

小さく経営するはずだった2回目の起業は、仕事がどんどんきて「おい、大学でだれかバイトしたい友達はいない?」と両親からせがまれるようになった。”小さくやりたい”両親はいくら仕事が来ても将来が見えず、最長4年でいなくなる大学生のバイトは都合が良かったのだろう。
小さな印刷屋に優秀な人を呼び込むのは難しい。しかし印刷物はつねに最新の常識やセンスを必要とする。私自身は親のそばにまとわりつかない教育方針のおかげで、パン屋や倉庫でDM梱包のバイトをしても親の会社にはいかなかった。大学2年生ぐらいからバイトといえば割の良い家庭教師を何件も持った。なぜ割安な印刷屋に来てくれる友達が絶えないのか、感謝しかなかった。両親の人柄なのか、一度バイトにくるとみな定着し、私の知らないところで「時間ができたから働かせて欲しい」と自ら言ってくる人もあったとか。

たしかに印刷屋は時に楽しい。ある時、コンサートのポスターを下請けか、孫受けしたおかげで、背中に「KOMEGUNY」と書かれた黒いジャンパーを貰ったといって父が持ってきた。それを着て歩いていると「あ、あのコンサート行ったんですか?!」と声をかけられた。
そうこうしている間に、ついにちゃんとした社員をまた雇い始めた。版下を作る仕事は老眼が始まった母から彼らに移行された。そこで私としては一大決心をした。いまだ手書きの帳簿をつけていた母にPC購入を勧めたのだ。大学が理系だったので、そういうことに詳しい友人がたくさんいた。PCを購入してからパッケージソフトを導入し帳簿ソフトの作成まで、大学でソフトウエアをかける友達を見つけてきて、”システム化”を成功させた。
台東区の近隣には年老いた夫婦で営業しているような町工場が多かったので、PCが搬入された日は「みんな羨ましそうにみていた」と母も浮かれていた。帳簿のPC化がおわると、版下作成用にマッキントッシュも導入され、社員がまた増えた。
「小さくやる」はどこにいったのか・・・・

そしてついにオフィスが小さすぎるということで、近所のやや大きいオフィスに引っ越しをすることになった。引越しの日は母のめちゃくちゃな計画で、一時はどうなることかと思ったが、なぜかなんとか収まって、予約した時間には忘年会会場の席に座っていた。父は全く役に立たず、時計を箱から出して壁にかけて満足したりして、邪魔になっていた。

広いオフィスになって気がつくと、また自分のオフィスを持てない企画会社が部屋の一角に机1台置いて仕事をしていた。父より年上のおじいちゃん社長一人でやっている会社で、私が訪ねていくといつも「このうちの社長は元祖アッシー、メッシーだからなあ」と同じ話をニコニコして話した。
バブル時代女性が強くなり、男性は車で送り迎えをして(アッシー)レストランでご馳走(メッシー)できなければ彼女ができない、と言われていたが、父はそれを20年前に実践したというのだ。

母は若い頃会計士として、父が当時つとめていた会社に出入りしていたそうだ。そこで父は母に惚れ込み、毎日会計事務所に電話をして「今日はXX先生はどこのお客様にいっていますか」と聞き、次に出先に電話して「XX先生、今日は何時ごろお仕事終わりますか?車でお迎えにいきます」
そしてその後は映画館でデート、映画はガラガラでも指定席だったそうだ。ある時当時いった映画館でもらったフライヤーを見せてもらった。有名な洋画ばかりだった。

父の投資戦略は完璧だった。
当時から起業するつもりで、人生のパートナーとして優秀な会計士を選んだのだ。実際母は優秀で毎年申告の時「これは国家と私のゲーム。税金を一円でも少なく払えたら、私の勝ち」と言っていた。おかげで小さな会社は不況の昭和後半から平成バブル、その後の「失われた時代」を生き延びることができた。

その13につづく

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