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「父の生きた時代」を想う 2

その1はこちら

仕事が趣味です

お通夜もどきの夜、姪たちが「おじいちゃん」の思い出話をしていた。ガチャガチャで孫が欲しい景品が出てくるまで何十回も100円玉を投入しあとでおばあちゃん(母)から大目玉を喰らった話などは、チョン・ジアが金髪の高校生から父親の話を聞いた時のように新鮮だった。そもそも私は姪たちとの接点も数年に一回しかなかった。隣の県に住んでいるというのに。
昭和50年代に起業をした父は、その時代の多くの日本人と同じくモーレツに働いていた。記憶の中にあるシーンで、私はぼんやりと父親を見上げ、祖母らしき声が「Tちゃん、パパだってわからないのね。ほとんど家にいないから」そんなことはなかったのだが、父が家にいることが珍しかったのだと思う。日曜日はずっと寝ていて、掃除をする母の邪魔になり、移動を命じられて他の部屋に行ってまた寝る。その代わり平日は深夜まで帰宅しない生活だった。
昭和にはそういう仕事人がたくさんいたと思う。しかし姪たちが物心がついた頃にはもう父は働いていなかったので、彼女たちから聞くイメージは新鮮だった。

父は紹介される時「仕事が趣味です」と言われていた。母はよく「お父さんは本当に働きものでね」と言っていたが、なかなか楽しそうに働いていた。まず印刷の営業と称して毎晩、赤坂、六本木などの会合。ビールいっぱいで赤くなるのに。バレンタインデーにはクラブのママたちから大量にチョコレートをもらってきていたが、母は「ああ、これだけ金を使ったってことね」と苦笑していた。印刷屋を起業していた父は「赤坂、青山、六本木」(とかいうタイトルだったと思う)という広告誌を出すことを思いつき、それらのお店から広告をとって綺麗に擦り上げ、あちこちに無料で配布した。これは看板商品だったが、だから夜の会合は”営業”というわけだ。
ある時印刷のお客さんがマンションを売りたがっていた。同時期に手がけた別のお客さんが独身寮を欲しがっていた。父はそのふたつを紹介し「印刷業はあらゆる業種と親しくなれる。いつも新しいビジネスのチャンスがある」と言っていたそうだ。
そして休日はゴルフ。家にはいくつもトロフィーがあった。とにかく何をしていても楽しそうだった。子供からみると「趣味は仕事」ではなく「趣味はゴルフ」だった。これは起業する前からで、常にネットワーク作りに励んでいた父としては”仕事”のつもりだったのかもしれない。母はよく土曜日になると「すいません、主人の体調が悪く今日は休ませたいのですが・・」と会社に電話をさせられていたそうだ。そう、昭和には、土曜日も半日仕事があったのだ。

父は”昭和の男”なので、子供達に自分のことなど何も言わない。周りにもそうだったと思う。「角のたばこ屋にいくにも車を出す」と祖母に揶揄されていた父は「配達に必要だから」と電車で30分で行ける距離で車通勤だった。荒川を渡るためにどんなに毎朝渋滞してもだ。その中で母には色々な話をしたようだ。子供たちはいつも父のことは母から間接的に聞いた。たとえば起業した理由。「人に使われたくなかった」と聞いていた。本当にそうだと思う。事業のことも全て母に任せ、好きなことしかしていない人にみえた。だから母はいつも続けて言った「・・・ああいう人は100人に1人でいいわ。たくさんいたら世の中めちゃくちゃになっちゃう」でもそういう母も楽しそうだった。

「父の生きた時代」を想う 3 に続く

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