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「父の生きた時代」を想う 1
チョン・ジアの「父の革命日誌」という本を読んだ。
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ある日80代の父親が電柱に頭をぶつけて亡くなり、一人娘はその葬式を取り仕切る。訪れる弔問客たちに父親の人生を振り返る話だ。ソウルに住む娘は、父親の最近を知らない。金髪に染めた高校生ぐらいの女の子が弔問に来て涙を溜めている。「父と仲良くしてくれたんですか?」と聞くと「タバコ友達です。試験に受かったら酒おごってやるっていってたくせに・・」なんと痴呆症すらでていた父親は高校を中退した少女に、美容師の試験を受けるよう励ましていたようだ。主人公は連絡先を教え「受かったら連絡ください。私がお酒ご馳走します」という。
半年前に父を亡くした私は、すでに10年近く介護施設にあった父を家族葬にした。父はすでに米寿を目の前にし知人も高齢で、しかも10年近く交流もない。だからしかたなかった。気を使うことのない家族だけで思い出話をして過ごしたのだが、本当にあれで良かったのだろうか、とちょっとだけ思った。
そこで、その代わりに父から聞いた話、覚えていることなど、(忘れないうちに)書いておこうかと考えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
お巡りさんと父
お通夜がわりの夜、家族で思い出したエピソードは、父の運転だった。
昭和11年生まれの父は、自動車教習所などに行かなかった世代だ。適当に町で運転を覚え、試験を受けにいって自動車運転免許を取得した・・・(と聞いていた。もう確かめる術もないが)だからその運転は極めて亜流で、昭和50年代になってちゃんと教習場で免許をとった母は、父の言うことがめちゃくちゃでよく悩んでいた。
「ここが停止線よ」
「前までいかないと見えないだろう」
という会話を、後ろの座席でこわごわと聞いていた。
そして、当時は今みたいにカメラで監視していないので、お巡りさんとしょっちゅう「黄色だった!」「赤だった!」と揉めていた。
だからその夜も最初に思い出したのは、父がお巡りさんと揉めた事件だ。
ある時白バイに停止をもとめられ父が運転席から顔を出すと
「車体が下がってます!」
印刷業を経営していた父は、実質社長の母から配達を命じられ、山のように印刷物を積んで運転していた。印刷物は重く、車体が下がりそれを注意されたのだ。(正直今のルールがわからないが、規則があったらしい)
「すぐそこまでですから」
といってしゃーしゃーと運転を続ける父。
諦めず、追いかける白バイ。
再度停止を求められ「どこまでですか!」と怒る若いお巡りさんに
「じゃあ半分運んでもらえませんか?」
母は呆れた口調で「もう若いお巡りさんが、めちゃくちゃ怒って」と、翌朝の朝食で首を振りながらこのエピソードを聞かせてくれた。
めちゃくちゃな運転の父は交通警察とのやりとりのエピソードが多い。
印刷物を運ぶため家の車はライトバンだった。当時は後部座席までは普通の乗用車でそのうしろに荷物を載せる部分が長い・・・と言う形だった。親戚で旅行になると、子供たちはその荷物置き場に載せられた。たぶん本当は違反なのだと思う。パトカーが見えると隠れる(寝っ転がって毛布を被る)ように指示される。
ある夜パトカーに止められた。弟が寝ぼけて起き上がってしまった。お巡りさんは懐中電灯で照らし「子供が一人多いですね」
父は「すぐそこまでですから」
父はネゴの天才だった。
とりあえず釈放され、走り出した。すぐそこまでどころじゃない。しかし「大丈夫、すぐそこが県境だ!」
県警は県境までしかカバーしない。「そこが県境だ!」は父が運転する車でよく聞いたような気がする。
しかしいずれも、あの時代だからできたことだ。今ならカメラでチェックされてしまう。古き良き時代。。。こんなメモを、縁者を大勢招待してお葬式をしなかったかわりに、ここに書いて行ってみたいと思う。